回想~パトリツィアとリヒャルト~

 絢爛けんらんなる王都マイア、白の王宮の西翼には王族たちが居住している。


 広い庭園には見渡す限りの花園が広がっている。薔薇園を抜ければ水路と噴水が見える。そのまま進めばアネモネの花が迎えてくれる。デルフィニウムのブルーに混じって見えるのは赤いダリアの花。白いマーガレットも黄色のマリーゴールドも、こちらを見てくれとばかりに美しく咲き誇っている。


 広大な敷地内を管理する庭師たちはいつも忙しい。

 頑固な職人そのもので、通りがかったパトリツィアはいつも挨拶をするけれど、庭師たちはちょっとお辞儀を返すだけだ。


 パトリツィアお気に入りのガゼボに着けば、先客がいた。

 あら? 時間に遅れてしまったかしらと、パトリツィアは侍女のミラを見る。ミラは苦笑している。たぶん、彼は公務を投げ出してきたのだ。


「やあ、パティ。今日もきみは美しいね」


 彼の傍には扈従こじゅうも騎士もいない。香茶と焼き菓子を用意してくれた侍女もさがらせているのだろう。


「リヒャルトお兄さま、いけませんわ。お仕事から逃げ出しては」

「パティは私の味方じゃなかったのかい? たまには、こうした気分転換も必要だよ」


 パトリツィアはうっとりと目を細める。そう言われると弱い。従兄弟のリヒャルトは次期国王である。病床の父王に代わって王都マイアを、ひいてはイレスダートを統べる人だ。


 歳はパトリツィアの三つ上の二十一歳、このまま即位すれば歴代の王のなかでもっとも若い王が誕生するだろう。大変な責務だと、パトリツィアは思う。それなのに従兄弟のリヒャルトは憂いた表情を見せない。彼はいつだって明るいし、やさしい笑みでパトリツィアを迎えてくれる。


「パティはベリーのタルトが好きだったね。ほら、ちゃんと残してあるよ」

「まあ、お兄さまったら」


 リヒャルトは甘いものが好物である。香茶にも砂糖とミルクをたっぷり入れるし、料理長の新作の焼き菓子も味見と称してぜんぶ平らげる。また彼は美しいものに目がなく、宝石や花も好む。およそ王子らしくない女々しい性格だと揶揄やゆされそうなところだが、中性的な顔立ちもあって彼は女性たちから人気が高かったりもする。

 

 そう、ここまでは普通の王家の跡継ぎである。

 しかしイレスダートを統べるマイア王家は、周辺諸国の王族とは異なる特別な存在だと、イレスダートの民は認めている。パトリツィアやリヒャルトが生まれるずっとずっと前、それこそいまではおとぎ話として伝わるような伝承もすべて真実だと、パトリツィアは教えられてきたのだ。


 幼いパトリツィアは疑問に思うことなく受け入れてきた。

 マイア王家は竜族の末裔、パトリツィア自身の身体にも竜の血が流れている。傍系の一族であるパトリツィアにはその力を自在に操ることは不可能だが、しかし従兄妹のリヒャルトは別だ。 

 彼はパトリツィアとはちがって正当なる王家の跡継ぎであるし、竜の力をもっとも濃く受けついだ竜人ドラグナーだからだ。


 その彼を敵に回すのは得策ではないようで、王家を補佐する機関である元老院もリヒャルトの戴冠を心待ちにしている。パトリツィアとておなじだ。彼は良い王になるだろう。


 海のように深い色をした青い髪、その上に載せられる王冠は美しく輝く。彼の右手に携えられた王笏おうしゃくを見て、人々は涙するにちがいない。そして、彼の傍には美しき女性が立つ。それが自分ではないことを、パトリツィアはよくわかっている。


(ずっとこのまま一緒になんていられないもの。いまというこのときを、大切にしなくては)


 リヒャルトには上に兄たちがいたものの、いずれも病気や事故で身罷みまっている。パトリツィアは一人っ子であるし、他に従兄妹もいないので歳の近い王族といえばこの二人だけだ。

 リヒャルトはいつもパトリツィアを気に掛けてくれる。でも戴冠式のあと、彼は王妃となるべく女性を妻に迎える。そうすれば、もうこうやって会うこともできないだろう。


「ミラ。香茶のお代わりを」

「はい、殿下」


 パトリツィアは顔をあげた。自身のカップはほとんど減っていなかったが、冷めてしまった香茶をミラが入れ換えてくれた。


(いやだわ、わたくしったら。せっかくお兄さまが来てくださったのに)


 心非ずといったパトリツィアと同様に、いつもならもっと多弁なリヒャルトも静かだ。やはり公務がつづいて疲れているのだろう。あまり長居をさせるべきではないと、パトリツィアは侍女のミラと目を合わせる。


「……パティ。折り入って話があるんだ」

「まあ、どうなさったの? リヒャルトお兄さま」


 彼がこんな物言いをするのはめずらしかった。パトリツィアはカップを円卓において、リヒャルトの次の声を待つ。


「次の春が来れば、私は戴冠する。父上にはもう無理をさせられないからね」

「ご立派な意思だと……そう思いますわ」


 リヒャルトの唇が笑みを描いた。


「そのとき、私は妻をめとる。王妃候補はたくさんいたが、彼女以上に相応しい相手はいなかったんだ」


 パトリツィアは目をぱちぱちさせる。この物言いはどこか変だ。リヒャルトには恋人となる存在がいなかったはずだと、パトリツィアは思う。ただこの婚姻を決めたのは彼の意思ではなく元老院だろう。王家と結びつけるには相応しい家柄の女性だということはたしかだ。


「なあ、パティ。覚えているか? 子どもの頃、私はよく言ったね」


 パトリツィアはにこっとする。覚えていない。そう答えればリヒャルトはがっかりするだろう。


「大きくなったらパティ、きみをお嫁さんにするって」

「リヒャルトお兄さま……」


 目の奥が熱くなる。幼いパトリツィアは本気でそれを信じていたし、成人したいまだってそうだ。


 兄と妹、または姉と弟。近親相姦は禁忌であるが従姉妹となれば話は別だ。パトリツィアはマイアの王家の血を継ぐ者、傍系の一族なれどリヒャルトの相手に相応しいといえよう。


「政治というものはともかく厄介だ。それに元老院やつらは王家同士の結びつきを嫌がる。血が濃くなるのを恐れているんだろう」


 パトリツィアはどう答えるべきか迷っている。すでに侍女のミラの姿は消えていた。だから彼の告解はパトリツィアの胸に納めておかなければならない。


「ねえ、リヒャルトお兄さま」


 そっと彼の頬に触れると、パトリツィアの指先が濡れた。きっと最初で最後だ。リヒャルトの弱い心を知るのは。


「わたくしはいつだって、お兄さまの傍にいますわ。一番近くであなたをお支えします」

「だめなんだ、パトリツィア」


 パトリツィアの手をリヒャルトが掴む。彼の手は震えていた。


「夏が来る前に、きみにはアストレアに行ってもらう」

「アストレア……」


 辺境の小国だ。王都マイアから南西にくだった森と湖に守られし国の名を、パトリツィアもきいたことがある。


「アストレアの領主ギルベルト・エーベルがきみの夫となる。彼には新たな爵位を授ける。これより、アストレアは我がマイアの隷属れいぞくとする」

「ギルベルト様は……ご存じなのですね?」

「ああ、もちろんだ。彼も承諾している」


 属国といえば言葉は悪くともアストレアは小国だ。マイアがアストレアを守る立場となれば領主はそれを飲むはずだ。パトリツィアはそのための道具となる。だとしても、何も悲しむような必要はない。


「心配なさらないで、リヒャルトお兄さま。わたくしはだいじょうぶ。このまま行き遅れるよりもずっといいわ。王家の王女だとしても、わたくしは殿下の従姉妹。扱いには困っているのでしょうから」

「パティ……、私は」


 そのとき、侍女のミラの制止を無視して一人の女性がこちらへと向かってくるのが見えた。パトリツィアには見覚えがあった。その女性は上流階級の令嬢であり、白の王宮へと出入りを許されていた。そして、パトリツィアとリヒャルトが語らいでいるときに何の遠慮もなく割り込んでくる。


(嫉妬というものは、おそろしいものね……)


 リヒャルトはとうとうパトリツィアにあの言葉を落とさなかった。それは父も母も他に兄弟もいないパトリツィアが、一番欲しかった言葉だった。

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