アストレアの白い花

 朝食の時間になるとパトリツィアよりも先に、ギルベルト・エーベルは席に着いている。


 パトリツィアの夫はアストレアの香茶をたのしんでいた。ほどなくして円卓には焼きたてのパンが届けられる。今日のスープは人参のポタージュだ。パンをそのままちぎって頬張るのもいいけれど、スープに浸して食べるともっと美味しい。


 朝採ったばかりの野菜サラダも卵をたっぷり使ったオムレツも、アストレア湖で獲れた淡水魚のソテーも、どれもパトリツィアの好物になった。美味しそうに食べるパトリツィアの真正面で、ギルベルトはにこにことしている。


(素敵な笑顔。旦那さまはおやさしい方だわ)


 白の王宮にいた頃はいつも一人きりの食事だった。時々催されるお茶会ではお喋りがメインなので、令嬢たちはあまり焼き菓子には手を付けなかったし、晩餐会に出席したときだってほとんどおなじだった。


 大台所では料理人たちが貴人のために腕を振るっている。

 好き嫌いのないパトリツィアは食べることが大好きなので、人目を気にせずについぱくぱくと食べてしまう。王女という身分でなかったのなら、影でこそこそ悪口を言われていたところだ。


(でも、こんな風に見つめられていたら……ちょっと恥ずかしいわ)


 パトリツィアはそれとなく視線を外す。人参のポタージュを食べ終えたギルベルトの手がパンへと伸びている。オムレツも半分を平らげているから、今日はもしかしたら完食するかもしれない。


「昨日も、フロリアンと薬草を摘みにまいりましたの」


 こうして昨日の出来事をギルベルトに報告するのが、パトリツィアの日課となっていた。


「彼は良い子でしょう?」

「ええ、とても。ミラとユーディトも手伝ってくれましたの」

「それはよかった」


 ギルベルトはずっとにこにこしている。今日も機嫌が良さそうだ。パトリツィアも笑顔でつづける。


「そうだわ。昨日は偶然エーベル卿にも会いましたのよ」

「アルフォンスに?」


 ところが、アルフォンス・エーベルの名をきいた途端に、ギルベルトの眉間に皺が寄った。ほんの一瞬だったものの、給仕をする侍女のミラはそれに気付いたらしい。その視線の意味をパトリツィアは知らずにいた。


「ええ。エーベル卿は薬草に興味がおありのようでしたわ。軍師の知識だけに留まらず、薬草の知識も豊富だなんて……博識な方ですわ」

「アルが……」


 さっきまで動いていたギルベルトの手が止まってしまった。パトリツィアは、はっとする。メインディッシュの魚料理をたのしんでいたパトリツィアとは対照的に、ギルベルトの食事はゆっくりだ。野菜サラダなんてほとんど手が付けられていない。


「そうだ。王都のリヒャルト殿下より手紙が届いていますよ」

「まあ、リヒャルトお兄さまからの?」

「ええ。あとでフロリアンにでも届けさせましょう」


 それきりギルベルトは食事を進めることなく、席を立ってしまった。残されたパトリツィアは侍女のミラを見る。


「もしかして、わたくし……。怒らせてしまったのかしら?」


 いまさら失言を認めたところでギルベルトは戻って来ない。青い顔をするパトリツィアにミラは苦笑した。


「姫様もようやく気づかれたのですね」

「ええ、ミラ。わたくしったら、いたらない妻ね」

「そう気に病む必要なんてありませんよ。ギルベルト様は、」

「そうよね。エーベル卿は旦那さまの従兄弟ですもの。わたくしがあのような物言いをすれば、お怒りになるのも当然だわ」

「へ……っ?」


 妙な声を出してしまったミラを置いて、パトリツィアはぶつぶつと独り言のような声をつづける。


「ああ、わたくしったら。なんて恥ずかしい」

「ええと、姫様? ちがいますよ? ギルベルト様はですね」

「エーベル家はアストレアの由緒ある軍師の家系ですもの。博識なのは当然だわ。それなのに」

「パトリツィア様? きいてます? ギルベルト様の前で他の男の名を出すと、」

「わたくしは、エーベル卿を見下すような言葉をしてしまった」

「ああもう、姫様ったら。ぜんぜん話をきいてくれない! 嫉妬ですよ! あれは嫉妬!」


 ぎゃんぎゃん繰り返すミラの声などまったく届かずに、パトリツィアはうつむく。完全に失敗してしまった。敬愛する従兄妹リヒャルトからの手紙のことだって、パトリツィアの頭からは消えていた。

 

 

 

  *




「そうはいってもね、あたしらも忙しいんだよ」


 午餐ごさんのあと、パトリツィアは城下街へと出掛けた。

 執務中のギルベルトは午餐の時間に来なかったし、いつも朝に来るフロリアンの姿も見かけない。騎士の訓練があるためと、ユーディトが教えてくれたのにパトリツィアは今朝の失敗のせいで悄気しょげる一方だ。


「王家の姫様が来てくれたのに悪いねえ。あの花は好きだけど、やっぱり仕事があるからさ」


 女は申し訳なさそうに頭をさげる。これで断られるのも五度目だった。パトリツィアはますます落ち込む。


「申し訳ございません。皆には、先に話を通しておいたのですが……」

「いいのよ、ユーディト。みなさん、お忙しいのはきっと本当だもの」


 とはいうもの、けんもほろろに突き放されるとは想定外だったのがパトリツィアの本音である。白の王宮ではいつだって皆がパトリツィアの味方だった。突然の行動にも驚かずにパトリツィアに賛同してくれたのも、そこが王都マイアだったからだ。


(いいえ、だめよ。パトリツィア。ここはアストレア。わたくしは領主の妻ですもの。はやく馴れないと)


 薬草摘みの傍らでパトリツィアが目を付けたのはあの白い花だ。リアの花。アストレアにしか咲かない花を、パトリツィアはすっかり気に入ってしまった。


 きっかけは侍女のミラが部屋に飾ってくれたことからだった。

 あの花はどこにだって咲いていると、フロリアンは言った。ベネディクト家の敷地内にも群生しているのだろう。その翌日、フロリアンは花束にして届けてくれた。


 香りは薔薇ほど濃厚ではなかったが、やさしくあまい香りがパトリツィアは好きだった。生花をたのしむのもいいけれどドライフラワーも素敵だと、そう思ったのはパトリツィアだけではなかったらしい。侍女のミラが香り袋サシェにして枕に忍ばせてくれた。これだと思ったのは、そのときだった。


室内香ポプリ香り袋サシェもいいけれど、香油にするのも素敵だわ」

「さすが姫様。目の付け所がちがいますわ!」


 そう、パトリツィアはリアの花を売り物にできないかと試みているのだ。


 新鮮なうちに花びらを一枚ずつちぎって乾燥させたものが室内香ポプリ。これはそれほど作業工程は多くないだろう。問題は香油の方だ。専門の知識が必要となるし、人手だって要る。だからパトリツィアはアストレアの女たちに声を掛けているのだが、なかなか上手くいかないのが現状だった。


「根気強くつづけましょう。ミラ、ユーディト。手伝ってくださる?」

「はい、もちろんです。姫様」

「……ですが、薬草の方はよろしいので?」


 ユーディトに問われてパトリツィアは片目を瞑ってみせる。およそ姫らしくない挙措きょそに女騎士はちょっと驚いたように目をしばたかせた。


「エーベル卿が協力してくださるの。リアの花のことだって、応援してくださったわ」

「アルフォンス様が、ですか?」

「ええ、もちろん。ユーディト? どうかしまして?」

「いえ……、特には」


 不自然に逸らされた視線に気づかず、パトリツィアは両手いっぱいに白い花を抱える。あまくてやさしい香りが鼻腔を満たしてくれる。


(ほんとうに良いにおい。この花は、アストレアにとって重要な花になるでしょう)


 期待を胸にパトリツィアは城へと戻る。私室へと帰ればフロリアンが待っていた。


「お帰りなさい、姫様。わあ。そんなにたくさんの花、どうするんです?」

「ふふふ。それはね、これから素敵な品物を作るのよ。フロリアンも手伝ってね?」

「はい、もちろんです! あ、でもその前に手紙を預かっていました」

「手紙……?」


 王都のリヒャルトからの手紙だ。パトリツィアは従兄妹へと手紙を綴ろうと思っていたところだが、それより早くに向こうから届いてしまった。


(リヒャルトお兄さまったら。わたくしも、早くお礼の手紙を送らないとね)


 パトリツィアは届いた手紙を書斎机に置く。


「あれっ? 読まないのですか?」

「ふふっ。たのしみはね、取っておくものよ。フロリアン」


 そうして、パトリツィアが封蝋ふうろうを切ったのは夜更けになってからだった。

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