パトリツィアの作戦会議、ふたたび
「どうして、旦那さまは来てくださらないのかしら?」
朝食が終わってベネディクト姉弟が現れるまで、侍女のミラが淹れてくれた香茶をゆっくりたのしむのがパトリツィアの日課となっていた。
「そうですねえ。やはりお忙しいのかと……。昨夜も遅くまで灯りが付いておりましたし」
「まあ、ミラ。どうして知っているの?」
「昨夜、大台所に寄る途中に東の居館に行ってみたのです。灯りが付いていたのは、たしかにギルベルト様のお部屋でしたし、フリード卿が出入りするのも確認いたしました」
「そうでしたのね……」
ほう、と息を吐くパトリツィアが纏うのは、鮮やかなグリーンが美しいドレスだ。パトリツィアの私室の隣は衣装室で、他にも数種類のドレスがその出番を待っている。
ワインレッドにダークブルー、レモンイエローにローズピンク、パールホワイトもラベンダー色にどれも着せても似合うので、侍女のミラは衣装室に行くのがたのしいらしい。
(でも、一度くらい来てくださっても……。もう十日が過ぎてしまいましたわ)
パトリツィアのつぶやきに侍女のミラの慰める声、それも三度目だ。
夫であるギルベルト・エーベルは一度だってパトリツィアの部屋を訪れてはくれない。湯浴みのあとに豊かな青髪と、象牙色の肌にしっかり香油を塗り込ませて、そうして夫を待つ夜。今宵こそはと勝手に早まる心臓を落ち着かせるパトリツィアだったが、待てど暮らせどギルベルトは来てくれないのだ。
(仕方ないわよね。旦那さまは、アストレアの領主なのですもの)
そう、言いきかせるのもまるで自分への言い訳みたいに思えてしまう。落胆するパトリツィアに侍女のミラは話題を変えた。
「それはそうと、見てください姫様。今日の贈りものも、素晴らしいものばかりです」
円卓には今朝届けられたばかりの贈りものが並んでいる。そのひとつをパトリツィアは手に取った。
「
ミラがうしろに回ってパトリツィアに付けてくれた。手鏡越しにパトリツィアも確認する。グリーンのドレスによく合っている。
「それに、これは
サリタとはイレスダート王国からずっと南に位置する自由都市の名だ。自由都市を謳うだけあって交易が盛んな街である。
「どの宝石も、姫様によくお似合いですわ」
「ありがとう、ミラ。
美しいものを眺めるのは好きでも、じゃらじゃらと装飾品を身に付けるのを好まないパトリツィアだ。それでも、贈り主は構わずにこれらの宝石をパトリツィアへと届けてくれる。
(リヒャルトお兄さまったら……。でも、感謝しないといけませんわね)
王家から離れたパトリツィアだが、周囲は未だにパトリツィアを姫と呼ばわる。従兄弟であるリヒャルトもそうなのだろう。アストレアに嫁入りの際に、リヒャルトは最後までパトリツィアを気遣ってくれた。
「姫様、リヒャルト殿下にお礼の手紙を送らないといけませんね」
「ええ、そうね。ミラ」
パトリツィアを妹さながらに可愛がってくれたリヒャルトだ。落ち着いた頃に手紙を綴ろうと思っていたところだった。
ほどなくしてベネディクト姉弟が現れた。にこにこしているのが弟のフロリアンで、いつもしっかり背筋が伸びているのが姉のユーディトだ。
「おはようございます、パトリツィア様。今日も変わらずにお美しい」
「うふふ、ありがとうフロリアン。あなたはいつも元気ね」
「はい、元気が一番ですから。では、さっそくまいりましょうか」
今日もちゃんと持ち手付きのバスケットをフロリアンは持参している。ベネディクト姉弟を伴ってアストレア城の散策――と言う名の薬草探しもこれが三度目だ。
「あ、姫様。申しわけありませんが、私とユーディト様はあとからまいります。フロリアン様、どうか姫様をよろしくお願いいたします」
「はい。もちろんです」
(ミラとユーディト? なにかおはなしでもあるのかしら? 女の子同士だし、そういうこともあるわよね)
特に気に留めずにフロリアンと共にパトリツィアは部屋を出て行く。姫君の姿が完全に視界から消えたあと、ミラはユーディトに詰め寄った。
「ユーディト様。確認したいのですが、ギルベルト様は……」
*
青い空に薄い雲が広がっている。
夜間もずっと蒸し暑かった夏が終わって、日中も過ごしやすい秋の風が届くようになった。
収穫の季節がはじまる。円卓に並ぶ淡水魚のソテー、鶏肉も鴨肉の料理も絶品で、アストレアの
「それでね、モッペルさんも許してくださったの」
雑草と見分けながら薬となる植物を探す。そのあいだに弾む会話はたのしいものだ。
「へえ。それはよかったですねえ。モッペルさんは気難しい方なんですよ」
「わたくしもね、もっと勉強しなくちゃって。そう思ったの」
すこし前に大台所を騒がせてしまったパトリツィアは、そのお詫びとして薬草と届けた。ちょうど調理長モッペルの幼い娘が体調を崩していたので、咳止めに有効な薬は喜ばれた。
「ええと、この赤い実がそうなんですよね」
「そう、クカの実。すり潰すとね、ほんのり甘いにおいがするの」
パトリツィアとフロリアンはアストレア城からすこし離れた森へと移動していた。歩いても小一時間も掛からないので、侍女のミラとユーディトもすぐ追いつくはずだ。
「それで、こっちのギザギザがハイトの葉」
「濃い緑色をしているでしょう? これはね、解熱効果があるの。煎じて飲むと苦いけれど、でもしっかり効果があるのよ」
森には摘み放題なくらいにたくさんの薬用植物が群生している。紫花の草と常緑低木は調合すれば傷み止めの効果があり、奥に見える青い花は茎をすり潰して患部に塗れば傷の治りが早くなる。
「すごいなあ、姫様は。学者よりも物知りだ」
「言い過ぎよ、フロリアン。わたくしだって、見るのははじめてなの」
そう、これらの知識はすべて本から得たものだ。
「それでも、です。薬屋を開けば儲かるだろうなあ」
「もう、大袈裟ね。フロリアンは。わたくしはただ役に立つと、そう思ったのよ」
「へええ、誰のです?」
「お母さまに……。いえ、ギルベルトさまに」
「ギルベルト様は幸せ者ですね。うらやましいです」
にこにこ顔のフロリアンに、パトリツィアも薄く微笑む。
「でも、そうねえ。いいかもしれないわ」
「え? なにがです?」
「薬屋よ。このあいだは使い方がわからずに失敗してしまったけれど、ちゃんと手順を調べて使えば薬となる。薬草は必要となるでしょう? これからの季節には
パトリツィアはバスケットに詰め込まれた植物を見る。保管に気をつけてさえいれば、アストレアの外にも売れるだろう。
「そうすれば、きっとアストレアのためにもなるわ」
「へえ、王家の姫君にそこまで知られていたとはね」
パトリツィアとフロリアンは同時に顔をあげた。
「あなたは、エーベル卿?」
ギルベルトとおなじ髪色と目をする男がそこには立っていた。
「おや? 私の顔を覚えてくださっていたとは。光栄ですよ、殿下」
まるで騎士のような
エーベル卿――、アルフォンス・エーベルはギルベルトの従兄弟であり、彼も騎士ではなかったはずだと、パトリツィアは自身の記憶を手繰る。
「あれ? アルフォンス様? どうしてここに?」
「君の姉上と姫君の侍女を見かけたからね」
パトリツィアはアルフォンスのうしろに隠れていた侍女のミラとユーディトを見た。二人とは途中から一緒だったらしい。
「それよりも、だ。パトリツィア殿下は、我がアストレアの財政をどこまでご存じで?」
「どこまでと言われましても……」
アストレア城内にしても、城下街にしても貧困に喘いでいるようには見えなかった。とはいえ、アストレアは辺境の小国と呼ばれている。イレスダートの他の国からすれば
「イレスダートは戦争をしている国です。いまは、情勢も落ち着いていますけれど、また争いとなればお金も必要となるでしょう? 前の戦争から未だに立ち直っていない国だってありますもの。アストレアも、」
「なるほど、博識な姫君だ」
顔はギルベルトに似ていても、笑みはまるで似ていない。そのせいか、パトリツィアの返す笑みもぎこちなかった。
「それに……、わたくしが来てしまいました。婚礼には莫大な費用が掛かったことくらい、理解していますわ」
「ふうん。ご自身の立場もよく理解しておいでだ。……それで? あなたはどうするおつもりで?」
しかし、これは絶好の機会である。エーベル卿と話せるだって、次はいつになるのかわからないのだ。パトリツィアは笑みを作り替える。
ギルベルト・エーベルに愛されるには、パトリツィア自身の魅力をもっと高めること。ギルベルトにはまず元気になってもらわなければならない。それには身を削ってまでこなしている執務を減らすべきだ。
「いま、フロリアンと作戦会議をしていたところですのよ。アルフォンス様。よろしければ、あなたもきいてくださらない?」
アルフォンスが目をぱちぱちとしばたかせた。
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