ギルベルトの本音
皆がもう寝静まっている時間なのに、アストレア城では灯りの付いた部屋がある。ギルベルト・エーベルの執務室兼私室だ。
ギルベルトはこの日も報告書と見つめ合いながらうんうん唸り、頬杖を付いていたかと思えば今度は頭を抱えた。
一応補佐として二人が付いているのだが、大して役には立っていない。折りを見計らってジーク・フリードが退出し、
「諦めなよ、ギル。そんなに悩んだところで、どうにもならない」
親しげにギルと呼んだ青年は、ギルベルトとよく似た容姿をしている。
青髪に青目、背丈もほとんど変わらずに、歳までおなじの彼はギルベルトの従兄弟だった。
「うるさいぞ、アルフォンス」
ギルベルトはここ何日も寝不足がつづいているのでとにかく不機嫌だった。だが、アルフォンスの声は間違ってはいない。穴が開くほど羊皮紙を見つめたところで、数字は変わってくれないのが現実だ。
「王家の婚礼にはとにかく金が掛かる。そんなの、はじめからわかりきってたじゃないか」
「アルフォンス様」
「はいはい。ジークはギルの味方だろ。でも、言わせてもらうけどね、今回の結婚が拍車を掛けたのは事実だよ」
「……っ! アル!」
「アルフォンス様、言い過ぎです」
ギルベルトが怒り出す前に、こうして止めるのがジークの役目だった。窘められたアルフォンスは肩を竦めるだけ、まったく悪いと思っていない。
(じゃあ、どうするべきだったんだ。相手は王家の姫君だぞ。
内心でため息を吐きながらも、ギルベルトは自身を落ち着かせる。
アストレアは
「ま、しょうがないよね。父上たちの時代は戦争に明け暮れていたんだから。まったく、こっちはいい迷惑だよ。その代償をぜんぶ押しつけられてる」
アルフォンスとジークが勝手に酒盛りをはじめている。そもそも手伝う気があるのかと、ギルベルトは羊皮紙の束を放り出した。
「だが、先人たちの努力のおかげで、イレスダートの情勢は落ち着いている」
ジークに蜂蜜酒を注いでもらい、ギルベルトもカウチに座った。
「おっしゃるとおりです。北の敵国ルドラス、奴らも時宜を待っているのかもしれません」
「リヒャルト殿下の戴冠が控えてるんだ。あいつらもしばらくは大人しくしてるよ」
ジークが言い、アルフォンスがつづける。
(そうだといいんだが……)
アストレアはイレスダート王国のなかでもとりわけ小国である。
ギルベルトとアルフォンスのエーベル家は代々軍師の家系で、ジークのフリード家は騎士の一族だ。他にも名のある貴族は存在しても、王都マイアの白騎士団のような統率の取れた騎士団はいない。イレスダートが長年戦ってきた北の敵国ルドラス。奴らの侵略どころか、混乱に乗じて周辺諸国にアストレアが乗っ取られる可能性だってある。
「これまでは父上がいたからよかったんだ……」
二人の視線がギルベルトに向かう。弱音を吐くつもりはなかった。ギルベルトは一気に蜂蜜酒を飲み干す。
「その言い方じゃ、兄上たちがいたら自分はアストレアを継がなかったって、そう言ってるみたいだぞ、ギル」
「俺がエーベル家を継いで、お前は好きに遊び回れるはずだった。残念だったな、アル」
ギルベルトの母親はエーベル家の人間だ。腹違いの二人の兄がいたために、アストレアの家とは一生縁がないものだと思っていた。しかし、運命とは時に人の意思を無視して勝手に動きはじめる。相次いで流行病で早逝した兄たち、そして父親。跡継ぎを失ったアストレアを継ぐのはギルベルトしかいなかった。
「だったら、はやくアストレアの姓を名乗れば良いのに。伯爵も似合ってるよ、ギルには」
「いえ、アルフォンス様。こたびの婚約で、ギルベルト様には新たな爵位を授かるでしょう」
「へええ、侯爵だってさ。大出世じゃないか、ギル」
「揶揄うなよ、アル。ジーク、お前も余計なことを言うな」
ギルベルトに怒られて、二人はそれぞれ蜂蜜酒と
「そんな大層な肩書きをいただいたところで、俺は騎士じゃない。戦場なんて冗談じゃない」
「まあね。ギルはすぐ寝込むくらいの病弱だしね。季節の変わり目には決まって熱を出すし」
「うるさいぞ、アル」
「しかし、物は考えようです。ギルベルト様。それなりの爵位を授かれば、アストレアは強き国だと認められます。なにより王家を味方に付けることができたのです。ですから、今回の結婚で嵩んだ費用も、そう目くじらを立てることもないのでは?」
「ああ、はいはい。ジークはやっぱりギルの味方だよね」
そうして、けっきょくのところ話題は最初に戻るのだ。
ギルベルトが妻に迎えたパトリツィア・ルカ・マイアは王家の姫君である。粗末な扱いなど以ての外だ。アルフォンスが気に食わないと感じているのはそこだろう。
いまもギルベルトはパトリツィアに質素な生活をさせないために工面している。おかげでただでさえ厳しかったアストレアの財政は火の車だ。
(民にこれ以上の負担は掛けられない。北地区の開拓を進めるとして交渉は難儀しそうだし、その周辺も黙っていないだろう)
このところは良好だった体調も寝不足つづきで体力の限界もあって、そろそろギルベルトの身体が悲鳴をあげる頃だ。
「……そういえば、あれはお前の入れ知恵なのか? ジーク」
「あれ、とは?」
ギルベルトは
「ああ、フロリアンが届けたのでしょう? 中身は薬草だとか」
「大台所で騒ぎがあったのもそれか?」
「それって、料理長が激怒したって話?」
身を乗り出してくるアルフォンスを無視して、ギルベルトはジークの返答を待つ。麾下はにっこりとした。
「入れ知恵だなんて人聞きの悪い。そもそも、姫君と話をしたのはその日の夜ですよ」
ジークは夜更けに大台所に水をもらいに行き、その帰りにパトリツィアと会ったのだという。だが、料理長のモッペルがいきなり乗り込んできたパトリツィアを大台所から追い出した話はギルベルトの元にも届いている。
「でも、彼女となにか話したそうじゃないか」
「おやおや、嫉妬ですか?」
「はぐらかすな」
「本当ですよ、ギルベルト様。貴方様が病弱だときいて、姫君は健気にも身体に良いと言われる薬草と集めたのだとか」
「それであの量? しかも生で食べろって? 災難だなあ。ギルは野菜嫌いなのに」
ギルベルトはバスケットをちらっと見る。聡明な王女という噂はきいていた。パトリツィアが薬草に明るいというのも本当だろう。
(ああ、それで大台所を使って……)
採取したまではよかったが、パトリツィアにはその先の知識は乏しかったらしい。結果、大台所で騒ぎとなって料理長のモッペルを激怒させた。その日のうちに謝罪に訪れ、そのときジークと会ったというところだろうか。
つい口元が綻んで、ギルベルトは誤魔化すように
「可愛らしい姫君ではありませんか。ギルベルト様の好みを知りたいと、そう私におっしゃいましたよ」
「好み……?」
「はい。ですから、私も正直にお答えいたしました。閣下は色白で髪の長くて胸の大きい女性が好みなのだと」
アルフォンスが吹き出すのと、ギルベルトが声をあげるのとほぼ同時だった。
「さっすがジーク!」
「いや待て、おかしいだろう! それはつまり」
「はい、麗しの姫君でございますね」
腹を抱えながら笑いつづけるアルフォンスとは対照的に、ギルベルトはがっくりと項垂れた。おや? と首を傾げながらジークはさらに応える。
「ですが、姫君はいまひとつわかっていないご様子でしたよ。それがご自身だということに」
「……はあ?」
間の抜けた声で返すギルベルト。ジークはにっこり笑顔のままだ。
「健気で可愛らしい姫君ではないですか。さっさと抱いてあげればよろしいかと」
「それはだめだ」
アルフォンスとジークが顔を見合わせる。
「え? なにが駄目って? 夫婦でしょ? それも新婚の。そんなに体力ないの?」
「公務のことならばお気になさらずに。どのみち、すべてを処理するまで相応の時間が掛かります」
「お前たちの言葉はもっともだ。でも、そうじゃない。彼女はアストレアに来たばかりだし、疲れているのは当然だ。そんな彼女に触れるなんてできない」
「え? フロリアンとユーディトを連れ回して薬草探しに行った姫君だよ? ギルよりぜんぜん体力ありそうだけど」
「それでも、だめなんだ」
ギルベルトは腿の上で作っていた拳を解いた。あまりに神妙な表情に見えたのかもしれない。二人とも大人しくなった。
「わかりました。まあ、ご夫婦のことですからね。外野が口出すのも野暮なものでしょう」
「でも、本音は?」
ギルベルトはやおら顔をあげる。
「いますぐ抱きしめたい。押し倒してあのやわらかそうな胸に顔を埋めたいし唇を奪いたいし、朝が来るまでずっと俺の名を呼んでほしい」
気が高ぶると、とにかく早口で捲し立てるのがギルベルトである。従兄弟のアルフォンスも麾下のジークもそんなギルベルトを知っていたが、趣味趣向までは把握していなかったのだろう。
「うわぁ、面倒くさいし気持ち悪い」
「愛が重すぎますね」
二人は率直な感想を述べた。
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