ジーク・フリードの助言

(どうして、こうなってしまったのかしら……)


 アストレア城を散策したパトリツィアは大急ぎで湯浴みを済ませて、それから侍女のミラに自慢の長い青髪と肌を整えてもらって、どうにか晩餐の時間に間に合った。


 円卓の向かいではギルベルトが鶏肉と格闘している。

 今宵のメニューもなかなかに豪華だ。裏ごしした芋の冷製スープ、かぶとレンズ豆の煮物に南瓜かぼちゃの甘いサラダ、焼きたてのパンもバスケットにこれでもかというくらいに積まれているし、メインディッシュの鶏肉とキノコのソテーもとても美味しい。


 ふと、ギルベルトの手が止まっているのを見て、パトリツィアは急いでパンをちぎって口のなかに放り込んだ。どうやらまたじろじろと見てしまっていたらしい。


(いやだわ、わたくしったら……。旦那さまに、はしたない女だと思われちゃう)


 目が合えばいつも笑みで返してくれるギルベルトだ。彼は顔を赤らめてうつむいたパトリツィアにこう呼びかけた。


「散歩はたのしかったですか?」

「はい、とても。ベネディクト姉弟には、とても良くしていただきましたの」

「それはよかった」


 それからパトリツィアは、ぽつりぽつりと今日の出来事を話し出した。

 あまり一遍に喋ってしまうとまた失敗をしかねない。だからパトリツィアは落ち着きながらゆっくりと声を落としてゆく。ギルベルトは皆までちゃんときてくれたし、終始笑顔だった。


「フロリアンは良い子でしょう?」

「はい。彼は、良い騎士になりますわね」

「ユーディトも実直な性格で、頼りになったでしょう?」

「はい、とても。彼女が傍にいてくださって、安心しましたわ」


 ベネディクト姉弟は二人ともギルベルトの騎士である。成人前のフロリアンはギルベルトの扈従こじゅうという立場だが、従者を褒められてギルベルトも嬉しそうだ。


(でも、わたくし……)


 今日という一日がたのしかったのは事実、それでもパトリツィアはその先をギルベルトに言えずにいる。彼に知られてしまったらきっと呆れられてしまうと、こわかったのだ。


 差し障りのない会話がもうふたつほどつづいて、そのあと先にギルベルトは席を立った。彼の皿にはまだ食事が残ったままだった。


(やっぱり、わたくしの魅力が足りないせいなのかしら)


 せっかく美味しい食事をしているのに気が滅入ってしまう。反省会をする間もなくパトリツィアは席に着いたものの、いまは食事をたのしむべきだと気持ちを切り替える。

 給仕をする侍女はミラの他にもう一人がいた。雀斑そばかすが可愛らしい少女だ。


「とても美味しかったですわ。料理長に、そう伝えていただけるかしら?」


 ダイニングルームを出る際にそう声を掛けると、雀斑の侍女はにこっと笑った。




   *




 私室へと戻ったパトリツィアは、侍女のミラと共に大反省会をはじめた。


「怒って、いらっしゃったわね……」

「はい、とても。怒っていましたね……」


 主従はおなじタイミングでため息を落とす。


「お邪魔をしてしまったのはたしかだわ。許してくださると、いいのだけれど……」


 パトリツィアはクッションを抱きしめながら身体をぶるっと震わせた。ミラが香茶のお代わりを注いでくれる。アストレアの香茶は口当たりの良い味わいですっかりパトリツィアのお気に入りになった。


「大丈夫ですわ、姫様」

「でも、ミラ」


 なにがいけなかったのだろうと、振り返ったパトリツィアには身に覚えがあり過ぎた。

 ベネディクト姉弟と薬草探しに夢中になったパトリツィアは、ワインレッド色のドレスを汚してしまった。ミラの侍女服もおなじく、そんなドロドロに汚れた状態で大台所に乗り込んだのがまずいけなかったのだ。


「わたくし、失敗しましたわ。新鮮な薬草はすぐに煮出ししなければいけないと、思ったばかりに」

「いいえ、姫様は間違ってはいません。ただ……」


 そう、ただタイミングも最悪だったのだ。

 夕方の大台所は晩餐に向けて大忙しだった。そこへパトリツィアがいきなり現れたら誰だってびっくりする。おまけに鍋を貸せとまで言われたらなおさらだ。


「わたくし……、もっと勉強するべきでしたわ。目利きは得意でも、その先まで知識が足りなかっただなんて」


 パトリツィアの告解こっかいにミラも苦笑する。


「仕方ありませんわ、姫様。白の王宮では台所を使わせてもらえなかったのですから」

「でもまさか、あんなに……」


 その先を思い出すのがちょっとこわいと、パトリツィアはクッションに顔を埋める。鍋にたっぷりの湯を沸かしてそのなかに思い切り薬草をぶち込んだ。するとどうだろう。いくらかもしないうちに、鍋は悪い魔女の作る鍋さながらにおそろしい色へと変わった。おまけににおいもひどいこと、そうしてパトリツィアとミラは料理長に大台所を追い出されてしまった。


「大丈夫です、姫様。フロリアン様がギルベルト様に薬草を届けるって、約束してくださったではありませんか」

「ええ、そうね。ミラ」


 途中で別れたベネディクト姉弟だったが、パトリツィア同様に彼らも泥んこになってしまった。弟のフロリアンはずっとにこにこしていたのに対して、姉のユーディトの口数が少なかったのは、彼女が先に一人で反省会をしていたためだろう。


 採取した薬草は他にもたくさんあったので、フロリアンがギルベルトに届けてくれたはずだ。


(これできっと旦那さまも元気になってくださるわね)


 ひとつ目的は果たされたものの、その分の失敗が大きすぎる。薬草の効能を最大限に生かすのはこれからまた勉強するとして、問題はパトリツィアの妻としての在り方だ。そもそも領主の妻が台所に立ち入るのは客人を招いたときだけ、だから料理長が怒るのも当然だろう。


「ミラ。やっぱり、わたくし大台所に行ってきますわ」


 ちゃんと謝るなら早いほうが良いと、パトリツィアはやおら立ちあがった。


「ご一緒いたします、姫様」

「ありがとう、ミラ」


 侍女のミラが洋燈を持って先に出ていく。まだ城内が寝静まるには早い時間だったが、回廊はしんとしている。


「おや? これはめずらしいお客さまですね」


 ところが、いくらかもしないうちにパトリツィアの足は止まった。床ばかり見つめていたパトリツィアは顔をあげる。視線の先はもっと上、そこには長身の騎士がいた。


「あなたは……たしか、フリード卿?」

「こんな夜更けにいかがなさいましたか? 姫君」


 濡れ羽色の美しい黒髪の騎士は、にっこりと微笑んだ。こちらの緊張を解そうとしているのがわかって、パトリツィアも笑みを作る。


「大台所へと行く途中でしたの。フリード卿、あなたも?」

「ジークで構いませんよ。ええ、私もです。すこし喉が渇きましてね」


(やさしい方だわ。ジーク様は)


 こんな時間に出歩いていても、騎士はパトリツィアを叱らなかった。

 ジーク・フリード。かの騎士もまた、ギルベルトの騎士である。しかしジークはただの騎士ではない。まだ扈従のフロリアンとちがってギルベルトの麾下きかであるし、フリード家はアストレアで有数な貴族の家柄だ。


「わたくしは料理長に用事があって、」

「料理長に?」


 首を捻ったジークに、皆まで話してしまうべきかをパトリツィアは迷った。


(いいえ。だめよ、パトリツィア。ジーク様に話してしまえば、旦那さまにも伝わってしまうもの)


 急に黙りこくってしまったパトリツィアに、ジークはことさらやさしい笑みを向けた。


「彼ならもういませんよ。仕事を終えたら城下町の酒場で麦酒エールをたのしむのが日課ですからね」

「まあ。そうだったのね……」


 これは出直すべきだろうとパトリツィアは侍女のミラを見る。ミラもそうすべきだとうなずく。


「では、部屋まで送って差しあげましょう」

「ありがとうございます。ジーク様」

「貴女はギルベルト様の大切な奥方様ですからね」


(たいせつな……)


 パトリツィアは口のなかで繰り返す。じんわりと身体があたたかくなる。王都マイアからアストレアまでは、マイアの白騎士団が送ってくれた。そこからパトリツィアを迎えに来てくれたのはギルベルトと、このジークだった。


 婚礼の日にもアストレアの要人たちと顔を合わせたが、全員の顔と名前を一致させるのは困難だった。ジークの名前がすっと出てきたのは、騎士がパトリツィアに好意的だったからだ。主君の妻女もまた守るべき対象なのだろう。まさしく騎士のお手本のような人だ。


「あの、ジーク様は旦那さま……、ギルベルトさまの麾下なのでしょう?」

「まあ、付き合いは長いですね」

「でしたら、教えていただきたいことがありますの」


 ギルベルト付きの騎士であるジークとこうして話せるような機会は稀だ。じっと、ジークの顔を見あげるパトリツィアの目は真剣だった。


「なんなりとお申し付けくださいませ。姫君」


 かくして、パトリツィアはジーク・フリードに助言を乞う。

 素直で従順なパトリツィアは騎士の声をまったくもって疑わずに鵜呑みにする。侍女のミラだけがその真意に気付いていたようだが、こういうときのパトリツィアには何も届かないと諦めていた。

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