りべれーたー? ふろむ・ざ・シャーロット

黒ーん

あの夜の過ち

 私の名前はシャーロット・チョークス。アメリカ、ジャンブルポールのリベレーター事務所、ストーンヒルの従業員をしている者。今から思い浮かべる光景は、恐らく私が今後絶対に、誰にも公言することの無いであろう筈の出来事。それを何故こうして頭の中で反芻はんすうしているのかと問われれば、言わば、二度と同じ過ちを犯さない為の反省というか、過去の私の失敗をいましめるのに必要な儀式だからである。


 ………………。


 いや、正直に言えばさっさと忘れてしまいたい。こんなことを思い返したところで、何かの拍子に同じようなことが起こってしまったなら、現状防ぐ為の手段なんて思い浮かぶべくもなく、起こさない為の方法を考えようにも、今身を寄せている環境やら私の性質というかキャラクターというか……まぁそういった説明し難い諸々の要因に邪魔をされてしまい、今この瞬間に苦しい思いをしたとしても、結局は無意味になる可能性があるからである。


 しかし難儀なことに、長く続けてきた習慣というのはそう簡単に変えられるものではなく、例え無意味に終わる可能性が高いとしても、私はこうして過去の過ちを反芻せずにはいられないのだ。


 もう良い、さっさと終わらせてしまおう。そう、あれは雫がナコラ森林公園での修業を終え、ジャンブルポールに戻って来た夜のことだった――。



 ***



 ――深夜 ストーンヒル事務所 バースペース――


「う、うぅぅ……ひっぐ……うぐ……。バ、レルさん……おか、わりぃ……テスト、嫌だぁ……えふぅ……」


 夜も更けた頃、五杯目のカルーアミルクを飲み干した雫は、テーブルの上で泣き崩れるように突っ伏して眠ってしまった。その様子は正に失意の底へと沈んだかのようで、見ているこっちまでいたたまれない気持ちになってしまいそうになる。


「やれやれ、こいつは重症だな」

「一ヵ月の山籠もりが終わっても、まだ試験の続きがあると言われたなら、誰だって気が滅入るというものでしょう。気持ちは分かりますわ」

「だいたい、仙楽も人が悪いんだよ。雫を鍛える為だとか言って、無理やりテストの結果が悪かったことにして、実戦向きの再試験を課すってんだから」

「あ、やはりそういうことだったのですね。確かに、あの程度の試験で落第するなんて、そんなことは絶対に不可能だとは思っていましたが」

「そりゃあそうだろ。むしろよくテストの結果を雫に納得させたもんだよ。一体どんな手を使ったんだろうな?」

「そうですね……。フフ、もしかしたら雫のことですから、案外何も疑わずに言われた結果を受け入れたのではありませんか?」

「ハハッ、そいつは違いない」


 そんな冗談めいた他愛の無い話をしながら、ふと私は考えを巡らせる。雫がストーンヒルへやって来たとき、好意的な感情を抱いたのに対し、全く不安が無かったと言えば嘘になるだろう。こんなにも歳の近い同性の雫と、元は暗殺者で、そもそも世間一般的な女性とはあらゆる感性がズレている私とで上手くやれるのかと、色々と思う所があったからだ。


 しかしその懸念は杞憂きゆうだったのだと、そう判断しても良いのかもしれない。少なくとも、今日までに私が抱いた雫への印象は、好感を抱くのに余りあると言って良い。ただこの感情は、好意というカテゴリーの中では、どういったものに該当するのであろうか。エラともキリエとも、或いは今までに何十人と観察してきたどの女性とも異なるこの感覚。好意には違いないものの、それは何か、今までのどれとも何かが違っているような気がするのだ。


 ならば、これは――。


「しかし、雫が来てくれて良かったな。これで俺も安心したってもんさ」

「安心、とは?」

「お前、歳の近い友達ができたことがなかっただろ。エラもキリエも、友達っていうには少し歳が離れているし、“ベン”はどちらかっていうと、お前の恋人志望って感じだったからな。この街で、しかもこんな仕事をしていちゃ、歳の近い友達を作るなんて簡単なことじゃない。良かったな、シャロ」

「……友達……」


 そう言われてみると、納まりが良いというか、なんだか腑に落ちたような気がする。思い返してみれば、今までの私の人生の中で、歳の近い友人というものがいたことは無かった。同性の同僚と仕事をすることはあっても、所詮それは仕事での関係だったし、それ以外の付き合いと言えば、精々クライアントと食事をする程度の間柄だった。


「雫と私が、友達」


 私の隣で眠っている雫の顔を覗き見ながら、私と雫が友達になった状況を思い浮かべてみる。休日には外へ出かけて、買い物や食事をしたり、同じ映画を見たり音楽を聴く。まだ確定ではないものの、雫がリベレーターの資格を取得し、もしもこの事務所に就職したなら、一緒に働くことになるのだろうか。一人になりたいときにふらっと出かける、あのお気に入りの場所を教えるのも良いかもしれない。


 柄にも無く、そんなもしものことを考えていると、無意識に自分の口元が緩んでいることに気が付く。はっとして隣に視線をやると、私の方を見てニヤニヤと笑うバレルの姿があって、つい――。


「そう、ですね。その、雫は私と違って色々と肉付きが良くて目の保養にもなりますし、貴方が私に課した人間観察の対象としては実に興味深いテーマと言えますわ」


 なんて、早口でそんなことを口走っていた。きっとこれは、私の普段通りの振る舞いと言えるのだろう。ただ今はそれがどうにも不可解というか、何か、本意とはずれているような気がするのだ。そうして私が小さなわだかまりに頭を悩ませていると――。


「フッ、ま、俺から言ってやれることといえば、失敗の無い人間関係に価値なんて無いってことさ。今は精々そうやって頭を悩ませるんだな」


 私の考えを見透かしたかのような、或いはただ揶揄からかっているかのように言う。


「……フン。経験者が語ると、流石に説得力が違いますね」

「そうだろう? 全く、年頃の娘を持つってのも考え物だな」

「――ッ、余計なお世話ッ――ですわ」


 一瞬表に出しそうになった素の部分を引っ込めると、私はグラスの中の残った酒を一気に煽り、空になったそれをテーブルに叩きつけるように置いて席を立った。


「なんだ、もう寝るのか?」

「えぇ。これ以上年寄りの戯言を聞いていては、寝覚めが悪くなりますから」

「あぁ、そうかよ。なら今日はもうお開きにしよう」


 そう言うと、バレルは座っている雫を抱きかかえようとする。


「……何をしているのですか?」

「何って、雫をこのままにしちゃいられないだろう。部屋まで連れて行くんだよ」

「はい? 正気ですか?」

「なんだよ、前にお前にもやってやっただろう」

「バレル、セクハラですわ」

「なッ……、だったら、俺にどうしろってんだ」

「何もしなくて結構。雫は私が連れて行きますから、さっさとその手を放して下さい」

「……ったく、じゃあ、後は任せたからな。雫を落とすなよ」

「はいはい、お休みなさい」


 憮然ぶぜんとした表情を浮かべたまま二階へ上がるバレルを見送ると、テーブルの上で寝息を立てて眠る雫の方へと視線を向ける。


「友達……フフ……」


 意図せず笑みがこぼれた。どうやら私は、自分で考えているよりも浮かれてしまっているらしい。何年か前の私ならば、これを異物と認識し、恐らくは排除しようとしたのだろう。けれど、今はこの感触がどうにも心地良い。


 そんな何かに満たされたような気分に浸りながら、雫を背中に背負うと、事務所の電気を消して、二階へ続く階段を上がる。背中越しに伝わる雫の体温。頭越しに香る甘いシャンプーの香りと酒精しゅせい。普段ならば、情欲を掻き立てられてもおかしくはない状況ではあるが、今はそれとは別の、多幸感のようなもので満たされていて、そういった気分にはならなかった。


 階段を上り終わり、二階廊下に辿り着くと、背中から少しずり落ちた雫の位置を直そうとして体を浮かせる。すると。


「ん、んん~……? シャロ~……?」


 うわ言のように私の名前を呟く雫。今の体を浮かせた際の揺れで、起こしてしまったようだ。


「雫? 起きてしまったのですか?」

「ん~……んにゃぁ、寝てないよぉ……。ここ、どこぉ? どうしてシャロが私をおぶってるの~?」

「フフ、ここは二階ですわ。もうすぐ部屋ですから、寝ていても構いませン――ァ⁉」


 話している最中、背中越しに手を回してきた雫が、突如私の胸を揉みしだき始めた。


「うへへ~シャロー、お返しだよ~」

「んッ……お、返し……? 雫、何、を……。酔っているの、です、か……?」

「酔ってませーん。シャロってば、忘れたの〜? 山へ私を迎えに来たときにさ、私の体のあちこちをいやらしく触ったでしょ~? だから~これはそのときのお返しなんだよ~」

「いやらしく、って……。あ、れはッ……その、ただふざけていただけ、で……」

「えぇ~そうなの~? んふふ、シャロの体って、結構筋肉質なんだね。でも~ここはほら、ちゃんと柔らかくて~。それになんか、スゥー……はぁ、良い匂いがする~。ねぇ、シャロはどんなシャンプー使ってるの~?」

「ちょ、止めッ……! し、雫、脇腹と胸を、同時に触らない、で……。それに、使っているのは、同じシャンプーでッ――」


 駄目だ、酔っているからか、会話が成立しない。早々に雫を部屋まで連れて行き、可及的速やかにこの状況をどうにかしなければ。


 雫の部屋まであと二、三メートル。そう、たったの二、三メートルだというのに、この僅かな距離が途方も無く遠くに感じる。雫の部屋までは、持ちそうもない。ならばどうやってこの状況を脱するか。


 プランA。背中から雫を落とす。


 …………、いや、そんなことをしようものなら、きっと雫に嫌われるだろう。仮にそうじゃなくとも、後々罪悪感等で後悔することになりそうだ。よってこのプランを選ぶ道は無し。


 プランB。心を無にし、体からあらゆる感覚、感情に至るまでを一時的に遮断する。


 私にとって、それはある意味今の状態よりも自然な状態と言えよう。ならば現状体の動きを阻害している外部からの感覚の一切を遮断してしまえば、雫の部屋に辿り着くまでのたった二、三メートルなど――。


「はぁー……んー……」

「ひゃぅッ⁉」


 首筋に吹きかけられると息。そこから間髪入れず全身を走り回る耐え難いむず痒さ。それの正体は、ジュロロロロ、と音を立てながら耳の中をまさぐられている感触。


 なに⁉ なになになに⁉ こんなの、私は知らな――ならば何を、どうされて何が――。


「んふふ。ひゃう、だって。耳を舐めただけなのに、シャロってば可~愛い」


 み、耳を、舐め、た……? 何、それは……? どうして、そんなことを……?


 いずれにせよ、む、無理だ。もう感覚を遮断するどころではない。こんなの、どうやったって耐えられる気がしない。拷問の訓練の方がずっと楽だったと断言できる。ならばどうする。多少苦しくても、何か別のプランは――。


 プランC。バレルに助けを求める。


 これは無い。こんな状況でバレルに助けを求めるなんて、舌を噛み切って死んだ方がマシだ。とは言え、雫の愛撫あいぶによってもたらされる刺激は徐々に強さを増し、どこを触られても剥き出しの神経を刺激されているかのような現状では、最早立っていることは疎か、今この瞬間にも気を失ってしまいそうだ。


 視界の先が明滅する中、半歩の半分ずつの歩幅でどうにか廊下を進んでいると、不意に私の部屋が視界に入る。すると極限状態まで追い詰められた私の頭は、現状の最適解とも思えるプランを叩き出す。そうだ、わざわざ雫の部屋に運ばずとも、私のベッドに寝かせてしまえば良い。そうして朝になったときにはいつも通りの私を装い、何事も無かったかのように振舞えば、このミッションは無事に終わりを迎えるだろう。


 切れ切れの息。足元から溶けて無くなってしまいそうな身体。尚も与えられ続ける暴力的なまでの快楽を、一瞬、死力を尽くして無視すると、私は転がり込むように自分の部屋の中へと入り、そのまま雫と共にベッドへと倒れ込む。即座に隣に意識を傾けると、静かな寝息が聞こえてくる。どうやら雫の意識を落とす必要は無さそうだ。


「はっ、はっ、はっ、……ハァー……」


 最短で呼吸を整えた後、私は自らの体内状況に目を向ける。呼吸は整えたものの、心拍数が早く、それに身に覚えの無いホルモンが分泌されている。全身が嫌な汗で湿り、それにこの下腹部の気持ち悪さは、まさか……。…………、いや、そんなことがあろう筈が無い。無いが、そう、こうして汗を掻いてしまったのだから、朝になる前に軽くシャワーを浴びておこう。あくまでも、汗が気持ち悪いからだ。


 そうして自己診断を下し、速やかな行動計画を立案して体を起こそうとする。すると。


「――⁉」


 背後から伸びて来た手に服を掴まれると、私は抗う間も与えられないまま、自分のベッドへ仰向けに引っ張り倒された。


「し、雫⁉」

「シャロ~? どこへ行くつもりだったの~? まさか~私を置いて行くつもりじゃないよね~?」


 視線の先、そこには私に馬乗りになり、妖艶ようえんな表情をしてこちらの顔を覗き込む雫の姿があった。


 なんということだ。まさか、即座に起きて――いや、それとも寝たふり? いずれにせよ、この状況は非常にマズい。雫には悪いが、どうにかして振り払わねば――。


「――ッ、…………ッ、――⁉」


 体に、丹田たんでんに力が入らない。普段だったら、このくらいどうということもないのに、全く振り払えない。返し技を使うどころか、四肢をばたつかせることもままならず、何もできないでいる内、気付けば雫の顔がまさに目と鼻の先にまで迫っていた。


「シャロ、私ね、ずっと思っていたことがあるんだ」

「お、思っていた、こと……? な、にを……?」

「シャロがいつも私にいやらしいことをするの、あれって、本気でこういうことをしたかったから、なんだよね? それとも、本当はただ、私のことを揶揄っているつもりだったの?」

「それ、あの……私は、そう、じゃなくて……。いや、そうじゃないって言うのは、そういうつもりでは――」

「ねぇシャロ……私、本気にしても良いんだよね? もしも嫌だって言われたら、凄く悲しいな……」


 なんて、潤んだ目をしてそんなことを言う。ずるい。そんなことを言われてしまっては、もう雫を否定することなんて――。


「ねぇ、シャロ……いいでしょ?」


 甘く痺れるような囁き声。それに、いつの間にやられていたのだろう。気付いたときには、身に着けていた物は、もう下着を残すばかりとなっていた。私の体をもてあそぶようにまさぐっていた雫の手は、気付けば私の手と指を絡めるように握り合い、近かった顔は、より間近に迫っている。このままじゃ――。


「や、めて……雫……。こんなこと、したら……私たち、友達じゃ、いられ……」


 死力を尽くして絞り出した私の言葉は、聞き入れられはしなかった。近付く顔と顔。このままでは、瞬きを終えた頃には唇を重ねてしまうだろう。いや、それどころか、その先のことだって。


「た、す……バレ、ル……」


 擦れるような声を最後に、私は固く目をつぶる。しかし、想像していたような感触とは裏腹に、ボスンと、私の肩口に雫の体が押し付けられた。驚きのあまり、暫くそのまま動けないでいると、スー、スーと、雫は私の体の上でテンポの良い呼吸音を刻み始めた。


「…………、……雫……?」


 恐る恐るそう声を掛けてみても、返事は無い。ならばと思い、意を決してゆっくりと目を開けてみると、そこには想像していた通り、私に覆いかぶさったまま気持ちよさそうに寝息を立てて眠る、雫の姿があるではないか。状況を把握した私は、雫を起こさないようゆっくりと雫の体から抜け出し、仰向けになってそのまま暫く天井を見つめ続けていると。


「……、…………ッ‼ ――――ッ⁉ ~~~~~ッ‼‼‼」


 遅れてやって来た羞恥心。手遅れとしか言い様のない葛藤。色々な意味での後悔。これは恐らく、私の人生の中でも歴代三本の指に入るであろう大失態だ。


 起こってはならないことを回避できたのだから、本来は喜ぶべきことなのだろう。しかし私は、この言い様の無い状況に耐えられなくなって、頭を抱え、声にならない絶叫を上げながらその場で静かにのたうち回り、もだえずにはいられなかったのである。



 ***



 自己嫌悪で散々苦しんだ頃。粘つく汗は渇き、どうにか感情もフラットな状態にまで持ち直したようだ。部屋の時計に目をやると、もう朝の七時を回っている。結局私は朝まで一睡もできず、部屋から出ることもせず、なんの行動を起こすこともできずに、ただベッドの上で横になっていることしかできなかった。


 そうしてまた自己嫌悪スパイラルにおちいりそうになるのを、出所の分からないため息を吐いて回避すると、視線を時計から正面に戻す。そこには、相も変わらず寝息を立てて幸せそうに眠る雫の姿が。


 あぁ、私は明日からどうやって、どんな顔をして雫と接すれば良いのだろう。いや、明日ではなくもう既に今日、というより、雫が起きるまで、もうあと何時間もないのだろうけど。


 大方落ち着いた頭で、私は思案する。友達、とは言ったものの、ああいったことをしても友達でいられるものなのだろうか。いや、仮にそれが許されたとして、同じ事務所で働く予定の雫とそういうことをしたとして、今後仕事に支障をきたさずにいられるものなのか。いやいや、仮に全てが許されて、むしろ仕事が上手く行くようになったとして、その先、私と雫はどういう関係を築くべきなのだろうか。


 ………………。


 全く分からない。だって、私は元暗殺者で、この街に来てからもそういうこととは疎遠そえんで仕事ばかりだったし。女性に対してセクハラ紛いの行動や発言をしているのだって、元はバレルに言われて始めた人間観察が発展して、結果的にそういう感じになってしまっただけだし。いやただ、そういうことに全く興味が無いのかと問われれば、そんなこともないのだけれど……。


 改めて、目の前で眠る雫のことを観察してみる。特別丹念に手入れをしているという風ではないけれど、艶やかで綺麗な黒髪。外で訓練をしていた影響だろうか。健康的に焼けた肌の下は、やや筋肉質ではあるものの、胸や太腿、尻は私の物とは比べ物にならないくらいに女性らしく、ほんの少しだけ摘まめるくらいに柔らかそうな腹部もポイントが高い。


 あっ、駄目だ。これ以上直視していると、鼻血が……。


「ん、ん~……」


 妄想があらぬ方へ暴走しようとしたそのとき、雫の漏らした声で、私の心臓が跳ねる。この様子はまさか、目を覚ます前兆? どうしよう、どうしようどうしよう。こっちはまだ心の準備が――。


 ベッドの上をゴロゴロと転がってこちらへ向かって来る雫。対して私の頭脳は、明確なタイムリミットを、ピンチを目前にして高速で対応策を叩き出す。時間にして何秒も経ってはいないものの、構築したプランA、B、C、D、E。それらの中、最も適した回答は――。


「ァッ――⁉」


 ベッドの転がって来た雫に胸を掴まれ、構築したプランの全てが水泡に帰した。


 いけない、どうにかして思考を再構築させなければ。とは思ったものの、その後も私の体を弄る雫の手に翻弄ほんろうされ、私の思考は切れ切れのバラバラにされてしまう。


 駄目だ。このままじゃプランを練るどころか、もう――。


「さ、昨夜は私をベッドに押し倒しておきながら先に眠ってしまったくせに、今朝は随分と積極的なのですね?」


 気が付けば、そうしていつも通りを装うように言葉を発していた。すると雫はパチりとその目を開け、私たちは目と目を合わせたまま向かい合う形になった、の、だが――。



 ***



 その後はと言えば、まぁ、結果的に上手くいったと言うべきだろう。しかしそのときに負った心の傷は大きくて深く、こうして事ある毎に反芻し、決して同じ過ちは起こすまいと心構えを怠らないようにしている。


 では何故、今日の今、何があってわざわざこんな醜態しゅうたいの塊のような辛い過去を思い出しているのかと言うと――。


『シャロー、こっちは準備できたけど、そっちは大丈夫? まさか、寝ちゃってなんかいないよね?』


 部屋の扉をノックするのと同時に、雫の弾むような声が掛けられる。その声色から察するに、もう既に楽しみで待ち切れないという感情が伝わってくるかのよう。今日は雫と二人でジャンポールの街を歩き、服を買いに行く約束をしていたのだ。そう、ただそれだけなのである。よって私たちの間に間違いが起こることなど、十中八九、否、それよりももっと低い可能性でしか考えられはしない。ただそれでも、長く続けてきた習慣というものは変えられないようで、結局こうしていつものように備えていたという訳だ。


「起きていますよ。今行きますわ」


 私は自分の発した声が普段よりも半トーン程高くて、ほんの一瞬、心の内で驚いてしまった。どうやら私も自分で想定していた以上に、今日のことが楽しみだったらしい。


 雫にどんな店を案内しよう。雫はどんな服が好きで、どんなセンスをしているのか。逆に雫は、私にどんな服を選ぶのだろう。互いに選んだ服を着て街を歩いたなら――。


 椅子から立ち上がり、今日これからのことを考え始めた頃には、先ほどまでの些細な不安はどこかへと消えてしまっていた。


 私には、友達というものの正解なんて分からない。けれど、失敗の無い人間関係に価値なんて無いというバレルの言葉を鵜呑うのみにしたならば、少なくとも、今私たちは良好な関係と言っても差し支えない間柄だ。今はその事実だけでも良い。何せ私と雫は、あれだけの失敗を乗り越えて、こうして友達になったのだから。


 そんなことを考えて事務所を出た私は、今日という日、どれだけ自分が甘かったかということを、雫の友人であり続けることがどれ程苦難な道を行くことなのかということを、再度付きつけられることになるのだが、それはまた、別の、話。

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