赤とんぼの嵐、スマホの熱

作品、拝見させていただきました。

季語は伝統的な本意にしたがって使われるものであると教えられ、それが伝統を受け継ぐ……そうした、考えかたしか持たない人たちは、これらの句からどんな時代の状況を喚起するのだろう?

この嵐凌ぎきれるか赤とんぼ

秋の嵐のような雨は別の季語で「野分」があると考えている人がいるなら、この一句の赤とんぼはどれほどの数がいるのか、たずねてみたい。作者が赤とんぼを気づかう優しさの句と想像するなら、それもまたひとつの読解にすぎない。
「この嵐凌ぎ切れるか」と群れで押し寄せてくる「赤とんぼ」と読解することも許されている。
また「嵐」=激しい「野分」というところから離れて、イメージとしての「嵐」であり「赤とんぼ」もまたイメージで何かの比喩としてとらえなおすならば、どうだろうか。

何か厳しい状況=嵐
個人の作品(俳句の一句)、または、伝統的なジャンル(俳句?)=赤とんぼ
何かの厳しい状況に個人の作品や伝統的なジャンルは「凌ぎきれるか」という問いかけかもしれず、また、新しい発想の「赤とんぼ」の群れに「伝統的なジャンル」は「凌ぎきれるか」という批評的な想像を広げてみるのも悪くはない。

俳句が芭蕉の時代の連歌の場が失われ、個人の作品という創作のかたちへと移り変わっていった。
そして、俳句ほど作り手が数多くいるジャンルはなく、俳人は氷山の一角で水面下には17音がゆえに、数多くの作品と名もなき詠み人が存在している(かもしれない)。
群れの赤とんぼなのか、一匹の赤とんぼなのか、ここは作者に話を聞いてみたいところではある。

かつて、スマホなるものがあった、みたいに語られる時代も人類が滅亡しておらず文明も滅びていなければ必ずあるだろう。
新しい機器を詠むこと。「熱」とは何か。
バッテリーが熱いのを今の現実と伝えたいので詠むのか、情熱=熱という比喩なのか?

俳句というくくりで考えずに、詩として考えるならば、読解によって、17音によって表現されるものも広がりが生まれる。
俳句は批評性が不足しているように思われがちだが、作品として、こうだ!と自分でやってみせ踊ってみせるところが俳句にはある気がする。

そう考えるなら、いやいやそんな大げさなものではないですよ、と作者が謙遜したとしても、作品そのものが時代性の中に置かれたものとなる公開された瞬間に、作者から読者の群れに渡り、新たな魅力を獲得していくのを感じる。

これは詠んで公開した人にしかわからない楽しみだと思うのです。




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