紙の上の青い月

精神感応4

紙の上の青い月

 青い月を、本当の青い月を見たことがある人は、きっと、本当に同じ空を見上げる人たちの中に誰もいないのではないだろうか、と私は思っている。


 青い月と同じ呼び名を授けらえた”ブルームーン”は或る季節、或る日の満月を指す。けれど、それは青白く夜空に浮かぶ月。本当の青い月とは言えない。


 真に青い月は至極珍しいものらしい。例えば、火山が噴火した時、隕石が大気圏を突き破って地表に落下した時、そんな時に空気中にふわりと舞い散った塵が、ゆらりと踊り流れていくガスが月を真に青く染めるのだという。そんなに珍しい物を見れば、人はきっと幸福の兆しだと思うだろう。


 けれど、私の見た青い月はそんなものではなかった。今も瞼の裏に焼きついている青い月。紙の上に浮かんだ真っ青な月は、決して幸せを導くものではなく、優しく、それでいて冷たく、残酷な美しい心だった。


 昔、或る人を好きになったことがある。今思えば、最後の恋だったかもしれない。


 地の底を這いずり回っているのと同じような時間を過ごした学生時代。勉強も運動もできない、ただ無意味に貴重な若い時間だけが流れていっていた。片道一時間の丘の上の学び舎へ自分が駄目な人間であるという事実を突きつけられるだけなのに、休む度胸もなくて、ただ鉛のような身体を引きずって三年間を過ごした。


 変わり映えのない無為な日々が行き先の決まっていない列車の車窓のように流れていく。が、そんな中で、一つだけ気になる人が目に留まった。その人は、際立って整った見目をしているわけでもなく、陽気で剽軽に周りを巻き込んで面白おかしくするような人でもなかった。良し悪しのちょうど真ん中に立って言葉を紡ぐとしたら、普通の人だった。穏やかで人並みに優しさを備えた目立たない人だった。


 そんな人のことを、気づけば目で追っていた。真っ暗な夕闇の中に、突然、仄かに光る蛍が現れたかのような、そんな心地だった。そして、私はその光り輝くものに触れて見たくなって、いつの間にか心だけでなく身体も動き出していた。


 きっかけは思い出せない。もしかしたら、思い出したくなくて記憶の壺に厚い皮で蓋をしているのかもしれない。だけど、数か月で仲良くなれた記憶は或る。夏は二人きりで山の麓の甘味処に行ってかき氷を食べた。あの人は小倉白玉。私はあんず氷だった。縁側で陽炎を眺めながらとりとめのない話をした。あの時食べたあんず氷ほど、甘酸っぱいものを食べたことはきっとない。


 秋になると土曜授業の後に学校の近くにある神社の祭りに行った。きっと、同じ学校の恋人たちがたくさんいるんだ。そんなことを考えていた。自分が行くなんて思いもしなかったけれど、行った。自分から誘った。あの人は微笑んで、「それじゃあ、行こうか」と言ってくれた。嬉しかったけれど、浴衣は着ていかなかった。いけなかった。もし着て行ったら、変に思われるかもしれない。そう思ったはずだ。はぐれそうになって、手を繋ぐなんてこともなかった。片田舎のお祭りだから、そこまで人でもみくちゃにされるほどでもなかったから。出店を幾つか冷やかして、当たり障りのない志望校や受験への意気込み何かを話して、「また来週」と手を振って別れた。


 晩秋から冬へと移り行く頃、あの人は学校に来なくなった。病気になったとか、いじめが起きたとかそう言うことではなく、ただ自由登校期間だったから。私はなぜか、毎日重い身体を引きずって学校に行っていたけれど。「会わない?」なんて連絡は出来なかった。それもまた、変に思われるかもしれないと思ったからだと思う。


 長い冬が終わって、春になると同時に受験が終わった。私は一応、第三志望の大学に合格した。少し浮かれていると、珍しく、いや、初めてだったかもしれない。あの人から連絡が来た。


 「お互い、受験も終わったし、美術展に一緒に行こう」


 と。私は舞い上がった。元々、浮かれていたのだから、高く高く舞い上がるのは道理だ。最後のチャンスだと決めつけた。ここで決めないと一生後悔する。


 私は返信すると、家を飛び出した。近所のショッピングモールの文房具屋に飛び込んだ。口ではきっと上手く伝えられないから、手紙をしたためようと思った。少しいい紙の便箋と洒落た封筒を買ってきた。必死に、一日中考えても思いを書き表せない。困りに困った私は、今では信じられないワンフレーズだけ走り書きして、少し乱暴に便箋を封筒へとねじ込んで封をした。


 最初のデートは美術展で何を見たのかも、喫茶店で何を頼んだのかも覚えていない。ただ、あの人がいつもより素敵に見えたのと、私が気合を入れ過ぎないように、必死に自分を押さえながらめかしこんでいったのは覚えている。


 帰り際、恐る恐る、私はあの人に封筒を手渡した。何かを察したのか、封筒を受け取ると微笑んだ。「今、開けてもいいのかな?」と。生殺しには耐えられない。私は頷いた。あの人は丁寧に封筒を開けると、便箋を見た。その時、穏やかなあの瞳には映ったはずだ。


 「月が綺麗ですね」


 私がない頭でひねり出したのは、ありきたりな、彼の文豪の言として伝わるワンフレーズだった。便箋を見た彼は一瞬、瞼を閉じて、もう一度微笑むと。美術展のグッズショップで、買った私とお揃いのペンで、裏返した便箋に何かを書いて、封筒に戻した。返された封筒を胸に抱いて呆けていると私に、「駅まで送るよ」とあの人は私の顔を見ずに行った。


 改札の前で分かれて、電車に揺られて、最寄り駅の改札を出るまで、私はずっと呆けていた。やっと、我に返ったのは家の近くのバス停で降りてからだった。慌てて、祈るような思いで、あの人に渡した時と同じように恐る恐る、封筒を開いて、便箋を裏返した。そこにはあの人の人柄を感じさせる、几帳面でそこか丸みを帯びた字でワンフレーズ。


 「でも、その月は青いですね」


 月のない暗い夜だったのに、私の手の中に突然月が現れた。白い紙の中に、美しく真っ青な月が浮かんでいたのだ。あの時の想いは日持ちしなかったのだろう。今は覚えていない。けれど、私は確かに青い月を見た。紙の中に浮かんだ青い月はどうしてか、少し滲んで見えた。春の夜の風はまだ冷たかった。


 あれ以来、私は月を見るのが少し嫌になった。元々好きでなかった彼の文豪は少し嫌いになった。彼は全く悪くないのに。けれど、青い月は今でもたまに私のもとに現れる。来週は白々と輝く太陽の下、私の青い月と黄金の麦酒を飲みに行く予定だ。


 人の気持ちは分からない。自分の気持ちはより分からない。今の私は青い月をどう思っているのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紙の上の青い月 精神感応4 @seisinkanno4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ