○○ガチャ


 最終回:○○ガチャ


 お金を入れてレバーをガチャと回すと、カプセルに入った商品がランダムに出てくる販売機「ガチャポン」になぞらえて、人生における様々な契機の明暗を「○○ガチャ」と呼ぶようになった。

「親ガチャ」「友達ガチャ」「先生ガチャ」「大学ガチャ」「就職ガチャ」「時代ガチャ」など、あらゆるものの末尾に「ガチャ」をつけて、人生の成果を振り返る際に――それは大概悪い出目が出た場合となるわけだが――用いられる。

 自分の資産、才能、人望といったステータス、理想と現実の埋めがたい落差を「運や巡り合わせが悪かった」の一行で片付けられる、非常にコスパのよい言葉である。


 人生を「所詮は運任せ」と考えることは、昔から多くの人が、身分の貴賤に関係なしにやってきたことだ。

 自分の今の状況はただ単に運が良かった(悪かった)だけとか、そもそも自分が産まれたこと自体が偶然でしかないとか。


 ではどうして分かりきった人生の悲哀を「ガチャ」という商品名・・・を使って再定義し、それが流行ったのかというと、

 早い話が「所詮は運任せだけど、その運の大半はお金で買えるよね(だからお金のない私は不運だ)」と思われる。

「○○ガチャ」の中で「親」が特に頻繁に用いられるのは、遺伝という性質から、容姿や才能にも関わっている点もあるが、

 幼少期~思春期に関しては、親によって自分の「お金」を制御される点が大きい。


「お金があれば何でもできる」のは資本主義の原則だ。


 お金を入れれば誰であれ商品を出すのが販売機としての役割である以上、「SSSランクを引き当てるまで金を投入し続ける」という戦略を採れるのはお金持ちだけだ。

 また、課金者専用のガチャがあるように、お金のない人間にはそもそも出来ない(浮かばない)手段もある。

 加えてお金が長期保存可能な代物である以上、どうやっても有利な人はそれ以降――子や孫の世代も含めて有利になる。その逆も然りだ。


 それが自分達のいる社会、資本主義の性質だ。仕方がないことだろう。


 ガチャと言って、何が悪い。



 さて、この自然に見える言葉のどこがムカつくか。

 それが行きつく先は「何をしても無駄」という虚無主義ニヒリズムに至るだろうということだ。

 前回は「どうせ無理」だったが、今回は「すべて無駄」である。より吹っ切れている。


 ニヒリズムの何がまずいかって、何をしても無駄だから何もしなくなる。突き詰めると、自分にも他人にも世間にも価値を見出さなくなる。

 社会性であったり、愛情であったりという「みんなで暮らす為に必要」な概念に対しても同様のスタンスになる。「良いプラス」も「悪いマイナス」もない。すべては「虚しいゼロ」である。

 それは個人だけで持つ分にはいいかもしれないが、広がると厄介極まりない。ニヒリストは論破がお上手なのだ。「結婚は人生の墓場」でも書いたのだが、何をするにしろ欠点・リスクのない行動などないので、「そもそも~」と否定するのは簡単な作業なのである。

 皆が何もやらなくなったら、破綻待ったなしなのだが……


 そもそもの話、「ガチャ=運の良さ」というのはキリがないのだ。

 良い両親に恵まれ、友人関係に恵まれ、満足のいく就職や恋人づくりも出来たとしよう。それらのすべても、事故で呆気なく終わるかもしれない。大病にかかるかもしれない。自分でなくても、周りの誰かが巻き込まれるかもしれない。

 訪れる不幸には伏線も、因果もないからだ。

 お金があれば助かるかもしれない? それはそうだ。だが、100%ではない。

 お金は可能性を「人間が出来うる範囲」で引き上げてくれる。人間に出来ないことは、お金でも出来ないのだ。


 上記のような偶然を考えずとも、歳を取ればどこかしらはおかしくなる。それらをすべて、未然に防ぐことなんて出来ない。

 まさか「人生・・ガチャが悪かった」と言うわけにもいくまい。



 お金が力を持っている為に忘れがちだが、別に私たちは「得をするため」に生きているわけではない。


 お金を持っている人が、持っていない人の上位・・かというと、取れる手段の数でいえば確かにそうかもしれない。故に「自分にできることは、他の誰でもできる(がその逆はない)」と考えてしまう。

 ただ、お金を持っている人は、お金を持っている人の視野・価値観でしか行動できず、お金を持っていない人は持っていない人の視野・価値観でしか行動できない。

 だから正確に言えば「自分にできることは、誰でもできるが、そもそも思いつかない(逆も然り)」となる。


 例えが極端だが、脳内でペットを飼うといった行為は、お金を持っている人が浮かべられるとは思えない。

 諦めてしまうより、自分の持ち味を活かせないか、という点を考えるべきではないだろうか。


……


…………


 とは言っても、「ガチャ」が現代の側面を言い当てているのは間違いない。

 散々理屈をこねくり回しても、やっぱりダメだった。正論には限界がある。


「豆腐メンタル」「童貞」「結婚は人生の墓場」「どうせ無理」「○○ガチャ」。

 五つの言葉を検討してみて分かったが、ムカつく言葉というのは、自分が突かれて痛い言葉なんだな、と思った。

 痛くなければ、そもそも聞き流せばいいだけだ。意識が向くということは、その内容が自分にとって多少なりとも関わりがあるからだ。


「どうしたらいいのか」と言われて解決方法を出せるほど、私は聡明ではない。

 ただ「どうにもできない」と諦めてしまえるほど、私は達観していない。


 スヌーピーの名言で「配られたカードで勝負するしかない(だから、どうやって勝つのか考えなくては)」というものがあって、そのクールな台詞は確かに憧れる面もあるのだが、

 それで満足しろと言われるとやはり「NO」である。もっとカードは配られないのか、ポーカーのようにカード交換の機会はないのか、やれる限り調べるだろう。


 おそらく自分が勉強をする理由は、そこらへんにあるのだろうと思う。



 エミール・シオランの「生誕の災厄」を読んだ。


「人間はこれ以上、生まれてくるべきではない」反出生主義の代表格とも呼べる人物で、その著作も皮肉と風刺に満ちた虚無を感じさせる内容だった。

 シオランは孤独に悩み続けて、結局そのまま死んでいった。

 当たり前な話だった。産まれたことが災厄で、生きていることが災厄ならば、彼に何がもたらされてもそれが「幸福」だとは思わなかったことだろう。

(実際には知り合いもいたらしいが「生誕の災厄」を読む限り、不眠と不安、ノイローゼに常に囲まれていて、それどころではない人のように感じられた)


 どうして最後の最後にシオランを取り上げようと思ったのかというと、それでも彼は進んでいたからだ。

 表現が難しいのだが「ゴールに背を向けて後ろ向きに歩いた男」とでも言えばいいのか。


 シオランは確かに「このような世界に生を受ける・・・だなんて御免だ」とは書いている。だが、「この生を続ける・・・のは御免だ」とは書いていない。彼は「生誕の災厄」の中で一回も弱音を吐いていなかった。

 散々苦しみ、呪詛を吐き、痛烈に批判してはいる。が、それでも「どうあがいても絶望」といえる生に対して屈することなく意見をした。

「自分の葬式の様子を思い浮かべればよい」とか「後世の人が感じるであろう前の時代への嫉妬を考えればいい」など、絶望の手懐け方を教示するのだ。

 彼は溜息を一億回したかもしれないが、それでも彼は天寿を全うした。

 読めばわかることだが、シオランは徹底的にドライなだけで、陰気ではなかった。言うなれば洞穴を仄かに照らす緑色の鬼火である。


 憂鬱に、不眠に、神経過敏に、ノイローゼに悩まされていただろうことは、文章を読むだけで推察がついた。それでも彼は考えることを、生きることを止めなかった。自殺する価値すらないと思ったのかもしれない。

 とにかくシオランは絶えず苦痛をもたらす自分の身体を、悲嘆をもたらす自分の精神を、最期まで放棄しなかった。


 そんなこともあって「生誕の災厄」という実に後ろ向きなタイトルの本には、不思議と前向きさが感じられた。



 書きたいことはすべて終わった。


 週イチで書くこと、最初にテーマだけ決めて、文章は一週間の内に決めることだけを条件にして進めてみたが、

 自分の向き合いたくない言葉に向き合うというのは、結構大変だった。

 言語化するにあたって、自分の未熟さや不満と嫌でもぶち当たることになる。


 うんざりしつつも片付けることは避けられないので、仕事してるみたいになった。

 仕事終わりに一服する。そんな時だけ思う。


――不幸か幸福かというのと、満足したかは別の話だよな……


 仕事は大変だし、突発的に現れると自分の不幸を恨んで舌打ちしたくもなるが、それでもまあ、終われば満足なのだ。

 ずっと、この繰り返しなのかもしれない。


 不幸は避けられないにしても、せめて最後は何かに満足した状態にはなっときたいよな、と思った。

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