木曽義仲が後白河法皇と決裂したのは、こいつが原因だったのではないかと云う短編

杉浦ヒナタ

木曽義仲、猫間中納言と対峙する

 木曽義仲は、色白で端正な顔に苦り切った表情を浮かべている。

 信濃で平家打倒の兵を挙げて以来、連戦連勝を続け、ついに京の都から平家を追放した義仲も、この不測の事態には困惑を隠せなかった。


 平家一族の屋敷を接収した彼は、その広間に端座している。そしてそれと向き合う来客用の上等な敷物には、一匹の猫が座り込んでいるのである。

「なぜ、猫」


 救いを求めるように、隣の副将、今井兼平へ目をやる。しかし、状況を理解出来ないのは彼も同じだった。

 後白河法皇からの使者が訪れるというので、二人は待っていたのだ。


「おれは、猫間ねこま中納言という者が来ると聞いていたのだが」

 先触れを受け、ネコが人を訪ねて来るか、と軽口を叩き爆笑していた義仲である。

 まさか本当に猫だとは思わなかった。


、とは古語で猫の事です。念のため」

 義仲の乳兄弟で、木曽軍きっての勇将として名高い今井兼平が、誰に言うともなく呟いた。

 

 その猫は義仲主従には目もくれず、前足をざらざらの舌で舐めては、顔を撫でている。どう見ても普通の猫が毛づくろいをしているようにしか見えない。


「これは随分と失礼な所業だな、兼平」

「ええ。このような場所で毛づくろいとは。少なくとも、訪問する前に身だしなみを整えておいてしかるべきものを」

 憤慨する兼平。

「うむ。社会人としての嗜みをわきまえぬ奴め……って、そうではないぞ兼平」

「はい?」


「後白河め。おれのような山猿へ遣わす使者など、こんな猫で十分だと考えているに違いないぞ」

「それは流石に考えすぎなのでは」

 宥める兼平だが、義仲は更に激高する。

「許せん。平家の次は、あの大天狗をこの都から追い払ってくれよう」

 


「きゃーっ♡」

 広間の外から歓声があがった。

 二人が振り向くと、直垂ひたたれ姿に男装した長身の美女が、両手で頬を押さえ、立ちすくんでいた。

 木曽軍最強の女武者、ともえ御前である。

「なんだ、巴か。どうした、そんな女子のような声をだして」


「は?」

 切れ長の双眸を細め義仲を睨んだ巴は、一瞬で距離を詰め、右手を一閃させた。

「ような、ではなく、わたしは女です!」

 部屋の隅まで吹っ飛んだ義仲を見下ろし、巴は胸を張った。


 ☆


「だから。あの猫は何だろうな、という話をしていたのだ」

 鼻血を押さえ、義仲は言った。

「え? それは分かり切ったことではないですか」

 不思議そうに巴は首をかしげた。怜悧な容貌に、呆れ果てた表情を浮かべている。 


「おお、さすが巴。お前も気付いていたか」

 義仲は満足げに頷いた。

「これはきっと後白河が背後に……」

「あれは、というのですよ、義仲さま」

 言いかけた義仲を巴はさえぎって宣言した。


 得意げな巴を前に、義仲は愕然と目を見開き、兼平はそっと顔をそむけた。

「いや、巴よ。これは、そういう話では……」

「え?」



「そ、そうだな。たしかに三毛猫だった。うん、うん」

「分かればいいのです。女に恥をかかせるものではありませんよ、義仲さま」

 目の周りに大きな青あざをつくった義仲は、巴に胸ぐらを掴まれ、がくがくと頷く。隣の兼平は、しきりに冷や汗を拭っている。


「さて、冗談はさておき。古来より、鳥や動物に官位を授けた例は存在しますから」

 巴は義仲から手を離して言った。

「どこからが、冗談なんだ……」

 小さな声で義仲は呟く。


「なかでも醍醐天皇の御代のゴイサギ(鷺)が有名です」

 だから猫の中納言も、この都では有り得ない事ではないのかもしれない。

「なるほど。おまえは何でも知っているな」



「それより、猫間さまに何か召し上がって頂かないと」

「そうか、もう昼時か」

 義仲もすぐに賛同した。巴に逆らう愚かさは十分、身に沁みていた。

「だが、猫のエサを入れるような器があったかな?」


「そう云えば、そうですね」

 この屋敷にはまだ余分な什器が無いのだった。

 すると巴は、ぽんと手を叩いた。


「義仲さまが使っているお椀があるじゃないですか。あれが丁度いいです」

「え、ああ。まあ……そう、だな」

 哀しい顔で義仲は俯いた。


 巴は、義仲お気に入りの漆塗りの大ぶりな椀に、飯や茸、魚の切れ端などを山盛りにして、猫間中納言の前に差し出した。

 しかし猫は、それをちらりと見ただけで、ぷいと顔をそむける。


「あら、お気に召しませんか。大丈夫ですよ、汚い器じゃありませんから」

 義仲は、もの言いたげに口をもごもごさせる。それを横から兼平が突っつき、黙らせた。

 

 ちょっとだけ口をつけた猫は、そのまま丸くなった。

「あら。こんなに残して。これがいわゆる『猫おろし』というものですね」


 巴は残念そうに、片頬に人差し指をあて、首をかしげた。

「せっかく無塩の平茸が手に入りましたのに。……まあ、よろしいです」

 巴は笑みを浮かべて態勢を低くする。


「ん? 巴、何をしている」

 義仲が眉をひそめた。目尻を下げた巴が、丸くなって眠る猫の傍へ、じわじわと擦り寄っていく。そういえば巴は無類の猫好きだった。


 巴がそっと手を伸ばすと、気配を察した猫は目をあけた。じっと見つめ返す猫に、にへっ、と巴は笑み崩れる。

「なんて可愛いっ!」


「おそれながら。お身体を撫でてもいいですか、猫間さま」

 応えるように猫は頭を差し出す。

「おほう♡」

 頭のすべすべの毛並みと、ぴこぴこと動く耳。そして、あごの辺りのふわふわとした柔らかい毛の感触を巴は堪能する。

 猫も、のどをゴロゴロと鳴らし、巴の手に頭を擦り付けてくる。


「もう、もう我慢なりませんっ!」

 息も荒く、巴は猫を横ざまに押し倒した。

 無抵抗に仰向けになった猫のお腹をわしゃわしゃ、と撫でまわす。


「ふはは。ふはははは」

 猫の腹に顔を押し当て、大きく息を吸い込んでは、その度におかしな声をあげる巴の姿から、男ふたりはそっと目を逸らす。


「どれ。そんなに馴れているなら、おれも撫でてみようか」

 どしどし、と足音をたてて義仲が近づくと、猫はさっと腹這いの体勢になる。耳を横に向けて、明らかに警戒をはじめた。

 巴が義仲を責めるような目付きで見た。猫は急に動く物や、大きな音を嫌うのだ。


 猫は義仲に背中を触られ、小さく唸り声をあげた。逃げ出しこそしないものの、瞳孔を真ん丸に見開き、尻尾をばたんばたんと乱暴に振り回し始めた。

 これは、明らかに嫌がっているのだった。


「ほう。意外と可愛いものだな」

 それに全く気付かず、のんきに笑っている義仲の手を、猫は素早く前脚で捉えた。

「おや?」

 あぶない、と巴が声を掛ける間も無かった。


「うぎゃ」

 猫は、肉球で固定した義仲の手にがじがじと噛みつき、更に爪を出した後ろ脚で蹴りを入れる。


「いて、いてて。これ、やめろ、猫っ!」

 散々に嚙みつかれ、引っ掻かれて涙目の義仲は手を離した。猫は巴の横をすり抜け、縁側から走って逃げ去って行った。

「ああ、猫間さまぁ」


「おのれ。今度、猫間が来たら水をぶっ掛けて追い払え」

 憮然とした表情で、義仲は家人に命じた。


 ☆


「なに、木曽はそなたを屋敷にも入れず、水を掛けて追い払ったと?」

 後白河法皇は驚いた。


「それはもう、野良猫でも追うように、門前払いでございました」

 びしょ濡れになった猫間中納言光高は、泣き声で訴えた。

「約束の時刻に、ほんの少し遅れただけですのに」


「あやつの増上慢もここまで来たか。これは放っておけぬ」

 後白河法皇は顎に手をやり考え込んだ。しかしその顔には愉し気な笑みが浮かんでいる。平家に続き、如何にして木曽を追い落とすかを思案している表情である。


「ここはやはり、であろうな」

 法皇は低く笑い声を洩らした。そして鎌倉の源頼朝もまた、その裡に火種を抱えているらしい。これは謀略の巡らし甲斐があるというものだった。

「楽しいのう、乱世という時代は」



 この事件以降、木曽義仲の勢力は衰退して行った。

 彼は、源義経を先鋒とした鎌倉の頼朝軍に敗れ、粟津の松原において今井兼平と共に討ち死にする事になるのだが、……それはまた別の物語である。



 ―― 終 ――



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