急場を凌げ!

そうざ

Respond to Emergencies

 地下鉄の階段を上がってE4の出口から地上に出た途端、逃げ惑う人波に巻き込まれ、俺は歩道に格好悪く転げた。

 目抜き通りの彼方、雑居ビルを両脇にした怪獣が雄叫びを上げている。程なくアンモニアと硫黄を混ぜたような突風が俺の全身を撫でながら吹きすさんだ。

 選りに選ってこんな時にこんな場所で出くわすとは――舌打ちが止まらない。

 油断していた。油断していた自分自身にも舌打ちをした。

 怪獣がビルに手を掛ける。ビルは薄い発泡スチロールのように容易く壊れて行く。足に絡まった電線が火花を散らす。

 俺は階段を引き返した。

 怪獣の歩幅が縦揺れの地震を起こし、地下街の天上が罅割れ、照明が点滅する。


 改札の側にトイレがあった筈だ。

 通路の彼方此方で蹲った人々が悲鳴を上げながら怯えている。

 もう少しの辛抱だ――俺は心の中で善良な市民達を勇気付けた。

 駆け付けた改札では、駅員達が集まって右往左往していた。それを横目に俺は男子トイレに駆け込み、個室のドアを勢い良く開け放った。

 和式だった。

 隣の個室も和式だった。その隣は洋式だったが、肝心のものがない。そのまた隣は――

「くっそ!」

 掃除用具入れだった。

 女子トイレの仕様も同じだろう。多目的トイレのドアはひしゃげて開かなかった。

 俺はさっさと見切りを付けて地上を目指した。


 地上は大混乱の最中にあった。

 瓦礫の山に災と黒煙、無数のサイレンが駆け回る。

 逃げ遅れた人達が怪獣に踏み潰されたり、握り潰されたりしている。

 以前はいつ怪獣が現れても対応出来るよう、外出には必ず携帯用お尻洗浄器を持つようにしていたが、当時付き合い始めた女が軽く引いていたのできっぱりと携帯を止めてしまった。

 そうなると、怪獣が出現する度にトイレを探して奔走する事になる。

 これが偶々デート中だったら更に面倒だ。

「早く逃げるんだ」

「一緒に逃げないのっ?」

「ここは俺に任せて先に行けっ」

「何よそれっ、逃げましょうよっ!」

「俺はっ……トイレに寄ってから逃げるから」

 今迄、何人の女と似たようなやり取りをして振られた事か。

 どういう訳か、正体をばらしてはならないという不文律おやくそくが俺を縛る。法治国家にあっては正義の名を騙る私的制裁は禁じられているらしい。が、実際は有名税を納付したくないが為の節税対策の一環なのだ。


 上階の潰れた建物を片っ端に回るが、古い雑居ビルが多いエリアの所為か、何処もシャワートイレは完備されていなかった。

 こうなったら苦肉の策だ。

 破壊を免れた洗面台を見付け、ズボンとパンツを下ろして台の上にしゃがみ、蛇口ハンドルを一気に捻った。

 ――ちょろちょろちょろ。

 配管の何処かで漏水しているらしい。


 再び街中へ出ると、消防車が駆け付けていた。消火栓にホースを連結し、懸命な消火作業に当たっている。かなりの水圧だろうが、だろう。

「あのぅ、済みません」

「危険ですっ、離れて下さいっ!」

「ホースの水を……」

「急く避難して下さいっ!」

 既に出動していた自衛隊員が寄って集って俺を排除しようとする。

 いつだって最終的に事態を収拾するのはこの俺なのに、どいつもこいつも何も解っていない。

 隊員の手を振り解き、その場を後にする。

 どうするどうするどうする――瓦礫を乗り越えながら当て所なく街路を走り回る。木々の集まるエリアに出る。

 公園だ。

 辺り一面に煙が立ち込め、霞が掛かったようだった。噎せながらきょろきょろと捜し回り、遂に水飲み場を発見。全速力で飛び付く。

 ――蛇口ハンドルがない。偶にこういう事があるが、選りに選って今か。

「誰が持ってったっ!」

 詮なき罵倒が声になる。

「公共物だぞっ!」

 罵倒を足してみる。

 俺はその場にしゃがみ込み、途方に暮れた。口の中が塵と埃でじゃりじゃりだ。何度も唾を吐く。

 自宅に帰って使い慣れたトイレを――でも、電車で一時間は掛かる。そもそも交通機関は全て止まっているだろう。

 終わった。

 今回は怪獣の完全勝利、正義が負けるの巻だ。

 生乾きの汗が気持ち悪い。きっと汗疹が出来る、そして風邪を引く、即ち今日の予定は台なしだ。

 ――煙った視界の先に何かが屹立しているのが見えた。

 子供――その下半身から水流。

「うっは!」

 転がるように駆け付けると、円い泉の真ん中で、台座の上の小便小僧が暢気に放尿していた。

 背に腹は代えられないが、シャワートイレは小便に代えられる。

 ズボンとパンツを同時に下ろし、下半身丸出しで体前屈の姿勢を取る。肛門を小便の落下地点にセットアップ、そして微調整。

「はふぅ……」

 正に都会のど真ん中で見付けたオアシス。

 が、如何せん勢いがない。方々で行われている消火作業の影響で水圧が下がっているのか、そもそも子供がきの小便はこの程度なのか。

 こんな水流では変身は叶わない――聞いてくれる人は居ないが説明しよう。俺は肛門括約筋に的確な水射をする事で得られた刺激を利用して変身するスーパーヒーローである、決して括約と活躍の駄洒落ではない、最も丁度良い刺激はT社製シャワートイレのレベル3の水射、何故こんな七面倒臭い変身プロセスを踏まなければならないのかについては俺のプライバシーに大きく抵触するので口が裂けても言えないのである、ご清聴感謝、以上。

 前屈のまま爪先立ちをし、少しでも生殖器ちんことの距離を縮めようと試みる。身体が安定しない。産まれ立ての子鹿という奴だ。

 逃げ遅れた集団が目の前を通り過ぎる。

「きゃ! 何してんのっ、あの人っ!」

「水射!」

「緊急事態で性癖が爆発したんだっ!」

「水射!」

「ああやって囮になってくれてんだろっ!」

「水射!」

「後は彼に任せようっ!」

 忌憚のない感想を残して行く。

「もっと激しく注げっ……くっそっ、イイ感じに気持ち良いでやんのっ……水射っ、水射っ!」

 変身ワードが虚しく響き、求めていない心地好さが肛門から総身へと浸透する。こうなると変身どころではない。優先順位が変わってしまう。怪獣なんてどうでも良くなってしまう。

 破壊の限りを尽くした怪獣の影が、高層ビル郡の向こうまで遠退いて行く。今更、変身したところでもう遅いかも知れない。

 快感に身を任せている内に思考がぼんやりして来る。歴代の彼女が逃げ惑う姿が脳裏を掠めた瞬間、遠くの高層ビルが轟音と共にゆっくり横倒しになった。


 怪獣はやりたい放題の果てに去って行った。偶には奴に花を持たせてやるのも良いだろう。

 俺は泉の中で大の字になりながら、愉しみにしていた風俗店もこの騒ぎで臨時休業だろうな、でももう充分だ、と思った。

「いつも正義が勝つと思うなよっ!!」

 思い付きの捨て台詞が蒼天に呑み込まれて消えた。

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急場を凌げ! そうざ @so-za

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