羞ずれば鬱ぎ

安条序那

梅雨枯れの貴女さま


「あ〃、困っちまったなあ」

 ある梅雨の止み上がった午後、斜向かいの混凝土コンクリートの白線の上に、景気の悪い顔をした二十四、五の女がひとり、いつまでも辛気臭い顔をして立ち尽くしていた。

 その女は手に幼子を一つ抱きかかえて、白いストロウハットを被ったまま、雨もないのに一杯降られたような顔をしている。此処は志那湖のいっとき橋を渡った大迎にあたる位置で、馬や車がなくておいそれとは近寄れぬようになっている。それで荻布はぎの屋の大慈は大いに困った。店の前でああも辛気臭い顔をされては商いもただならぬ。志那唯一の船屋である荻布屋の若番頭、大慈は生粋のお節介であった。

 最初は迷い人かと思い慣れぬ笑顔一つ返してみたが、見られたか見られぬかわからぬような心地で、むしろギクシャクしてしまい、見ぬふりをしようとして手元が狂ってビスを一つすっ飛ばし、やをら自らの性分を恨みつつもやはり振り返ると、凝っとしてその女はそこに居るのである。

 かれこれ二、三十分は経っており、止み上がった空も愈々いよいよ乾々照りの様相を呈しており、とてもじゃないがこの人夫は困っていた。呼び水も出ようという陽気である。

「やい、やい、そこのお嬢さん」

 ようやく大慈が手を伸ばし、声を上げその女を呼んだのが今しがたである。時計がきっかり真上差し古臭い赤樫の大時計が鳴ったとなれば、遂に松部まつのべの爺から頼まれていた締切に追われる大慈もまた呼ばれるように痺れ切らし、すると口は思わず声を掛けていたのであった。

「そこな日向にいりゃあ、お子さんも暑うございましょ。この軒でお休みいかが」

 大声を張ると、御婦人はしなやかな含羞草のように緩やかに腰を折れ、一つ笑顔でこちらの軒にやってくるかと思いきや、そこの白線の上に留まっており、ただ頬を上げて今度はにこにことしてお辞儀ばかりすると恥ずかしそうにするので、大慈はいよいよおかしく思い聾唖ろうあ者であろうかと疑いを立て、店からい出てその女の元へ寄ろうと自ら店の外に踏み出そうとする。

 古い框の軋み上がって半分崩れた軒先に一本歯下駄突っかけ、敷居を跨いで日向に出ると、大慈も手のひらのひさしをかけて眉根を顰め、つい向こうの白線まで歩んでいく。混凝土コンクリートはじりじり焼けて数十歩すうじっぽの歩みは鈍かった。

「如何されました。暑いですから、ほら、いらっしゃい」

 なるほど大慈は納得いき、やはりこの若いお嬢さんは気の毒に、聾唖であることは間違いない。それも偉くおっかなびっくりと頭を下げ下げ、まるでこちらが悪いことをしているようにさえ感じるほどで、いつもは頭を下げるばかりのこの男も些か驚き、なんだか申し訳ない気持ちにさえなって、ご丁寧にお手を引いて引いて、びっこを引くか、それとも蝸牛が通り過ぎるみたいに歩くので、いそいそ車でやってきた隣のタコ屋の親爺が「いいよいいよ、先におゆきなすって」などと普段の癇癪ぶりもどこへやら素通りで行ってしまったくらいであった。

 やれ、そうしてようやく荻布屋の看板の下、汚い軒先にやってきたはいいものの、お嬢さんは左右見回してやはり大慈のなんの威厳もない顔を見てぺこぺこ頭を振るのでもうきっかり困ってしまって、大慈も釣られて頭を下げていたらお嬢さんも息が上がっており、屋根裏から急いで来客用の座布団を持ってき、框の上にぽんと置いて見さえすればお嬢さんは困っていて、いいからいいから、と宥めてようやく座ったのであった。

 大慈も暇ではない身だけれど、この辺りで見かけたことはないから片田舎にやってきた身の上一つでお子君までいらっしゃるお嬢さんが聾唖と来たらほうっておくこともできず、茶に氷菓子に、お子の調子はどうかいねと甲斐甲斐しく世話してしまって、駐在さんにお電話差し上げて旦那様お探し頂くべきかなどとやはり気を回して回して仕事などもうとうに頭からすっぽ抜けて、玄翁は地べたに寝転がったままであった。

 お嬢さんは人懐こく、目はぴたと閉じた糸のような幸薄い人だったけれども、よくこちらの顔をじいっと見ており、なにか言われてはお辞儀し、子供さんは静かな子で良い子だねと言われればなにかわかるのか嬉しそうにし、愛らしくいるのであった。

 暫くしていると機関車からもぎ取ったような大きな雲が眼の前の通りに影となって浮いてきて、晴れていても黒い混凝土コンクリートが余計に黒くなって薄くなり、お嬢さんの居た白線の向こうは蜃気楼があがるまでになっていた。

「旦那様はどこにいらっしゃるんで。お嬢さんほど器量良い方だ、きっと良い旦那様だから、今頃お探しされていらっしゃるだろうけど」

 大慈は思いついて筆と紙を渡すと、お嬢さんはまた困って、大慈が目の前で何かを書いて見せると、それも無垢に喜び、渡された紙に貰った筆で丸に点の付いた子供の落書きめいた顔を書いて見せた。ほとほとに困り果てていると、向かいの山から温い風が潤おいを伴って降りてき、波のさざめくような音が外を鼓ち、窓から望む湖が泡立っている。これは一つ大雨が降りようとしているなと大慈は思い、お嬢さんを見て手振りしながら戸を締めますよと伝えて見せる。

「お嬢さん、戸を締めますが、よろしいね」

 そう聞かれると、お嬢さんは急にひたと首を横に振り、これには流石の大慈も困った。これでは内に湿気が入り、金物をやっている萩布屋では錆が付いていけない。だけれどお人好しはやはりこういうところで出るもので、嫌と言われるとどうしてもできぬ。親爺に店番を任されて早くも十年になるが、お客のワガママにはついぞ口答えできた試しもなく、この男は二束三文でなんでも任されてしまう悪癖があった。この間なぞタコ屋の爺が、分前半分という取決めをして、三人の孫を荻布屋に預けて船賭博に行き、大慈は乳飲み子二人と指を咥えて泣くことしかできぬ子三人を負ぶるに抱えてんてこ舞いをしながら、その日の夕まで、と言付けられた電動船の舳先の修理をなんとか間に合わせ、空腹に泣く子供の面倒を実母のようにし、ようやくタコ爺がほろ酔いで帰ってくれば、三人の子供と大慈が川の字になって眠っているということがあった。これはなんとも可哀想に思ったタコ爺が大慈を起こし、荒稼ぎの半分、いや、七分は渡してやろうなどと意気込んでいたところ、あいや贔屓してもらってるから分前なんて要らねえなんて言うものだから、タコ爺も遂に示しが付かず、ばかやろう貰うってんのに喜ばんやつがいるかと大癇癪を起こし、そこでようやく帰って来たタコ爺の婆さんが爺をひっぱたいて漸く丸く収まったなんてことがあった。結局大慈はなんにも貰えず、タコ爺も示しが付かず、引っ込められずしかし出ず、と子供の面倒だけのタダ働きをし、しかし満足して扇風機の風だけ浴びて満足気に寝て過ごしたなんてことがあり、そんなことは茶飯事とみて相違なかった。

「あいあい、ほんじゃあこれだけお持ちなせ」

 大慈は亡くなった大婆の嫁入り道具の中にあったいっとう良い張紙を使った傘をお嬢さんに持たせ、土嚢で水入りを防いで自分は打たせっぱなしでいるもんだから、お嬢さんも心配なすったようでその傘を大慈も入るようにあい差して、ありがてえななどとどちらが家の主人かわからないようなことを宣っていたのであった。

 そうして軒下一つで座っているのもやはり落ち着かず、今度は泡立っていた湖を見ると湖面はあばだの祭りになってはいるけれどその下にいやにはっきりとした透明で長く、大きな何かが通ったような気がして小心者の大慈は震え上がっていた。

 なんとか気を紛らわせようと大してなんにもない台所に立ち寄り、今朝方頂いた牛の乳と粥でも食べようと持って框に戻ると、えらく期待した目で大慈を眺めるお嬢さんがおり、大慈はさっきまでぶるぶる震えそうだったのをきっかり忘れてしまって、にこにこしながら、つまらねえもんですが、と木杓と手に持った食べ物を渡すと、それを二人がほんの少しずつ分けながらちまちまと鳥が突くように食べるのをほんの幸せそうに眺めていた。そうともしていると、大慈は裏の湖がばたばたとまるで大物が掛かった水面みたいに暴れ出しており、これは愈々雨とは違う。出ていった爺から小耳に聞いたことはあるがひょっともするとヌシかも知れぬ、と大慈は思い、爺曰く大雨の折、湖のど真ん中の社様の辺りで跳ねる姿を見たという者がいるが、その大きさもまちまちで、中には一里ほどもあったと言うものも、五間程度で湖釣りの名士が五人纏まれば太刀打ちできぬこともないだろうとも言うものあり、しかし大慈の見立てではこれは一里では済まないかも知れぬとさえ思い、走って隣のタコ爺のところへ行き、息を荒げて誰かいるかと叫んだが、なんにもいないようで安心して濡れて戻り、萩布屋の暖簾をくぐると椀の中身も瓶も空で、漸く落ち着いたと言わんがようにお嬢さんは稚児を抱えて器用に船を漕いでおり、横におなりなさいといい、も一つ座布団を敷いてやり寝かせてやった。するとこんな雨の中湖の方から一つ足音があり、それがぴたと萩布屋の前で止まり、大慈の胃の腑はなんにもないのにひっくり返りそうになり、何者が来たのかと思うと恐ろしく、暖簾の向こうにある人の足元を見てそれがどうも紺地の青海波を設えた着物であるらしいことを認めるとひっ、と声を出し、自らの人指し指を一本立てて蝋燭のように吹き消し、眠りに入った二人を庇うように意を決して、腹に力をえいと込め、声を出した。

「ど、どちら様でぇ」

「えい、名乗らず申し訳ない。某は志那ケしながもり冨総とみうさ左近太夫さこんのたいふ贏可えいかと申す。娘が踏み惑い、此処に居ると聞き参じ候」

 武人めいた腹に力のこもった声がぴしゃんと雷のように返ってきたものだから大慈は驚き竦んで思わず障子を突き破りそうになって堪えてようやくと言った様子で言葉を返した。

「そ、そうでございますか。お嬢様は今おやすみになられてございます」

 えらい名乗りの方がいらっしゃった、傘も持たずに、と大慈は異様な気配の客人に首を傾げ傾げ、けれどこんなたいそう仰々しい名乗りをされているのであればいやはやどのように返すのが正しいだろう。

「失礼ながら、えー、えー。しなが様。私めは萩布屋の大慈と呼ばれておりまする。重ねて失礼致しまするが……」

 こんな仰々しい言葉は初めて大慈は口にするので、舌も回らず、頭も切れず、やや吃りがちにようやっと言葉を返した。

「お嬢様にはお子様がいらしておりまするか?」

あい、相違ない」

「え、えー。これはもう失礼に失礼に失礼を重ねて申し上げに申し上げにくいのですが……」

「良い、言問こととへ」

 大慈は一生分かと思うほどの玉簾のような汗をかき、なんと申し上げればよいか順繰り順繰り頭を回し、しかし田吾作の大慈とは子供の時分にはよく言われた男である。うまい言い回しもやはり思いつかず、しかし問わずとするには人違いの気があるかも知れぬ。どん詰まりにどん詰まって、もう濡れたのか汗なのか漏らしたのかわからないようになりながら結局真っ当に聞くしかないと思い、頬を張り叩き赤くし、ようやく口を開けた。

「ほっ、ほっ」

「如何様にされた」

「いえ。なんでもございませぬ。気合に気合を、えいやと込めましただけにございまする」

「左様か」

「ええ、お嬢様は聾唖者でございましょうか。大変御失礼相分かりまするが、人違いにて気を落とされるよりかは良いかとございまして……」

「相、相。相違ない」

「左様でございまするか。ではでは、今しがたお嬢様を起こしますので、お待ちあれ」

「子等はぬか」

「はい、はい、左様で。お疲れなさったようで。ほら、お嬢さん、お迎えが来なすったよ。お父様が来なすったよ」

 そっと肩を揺らし揺らし、お嬢さんはゆっくりと背を起こすと一つ伸び、枕元の稚児を再び抱き、そっと傘をお返しになり、歩いて暖簾を潜ると、雨の音は静かになり、お嬢さんの足音はどこぞへ小さくなり、やがて消え入ってしまい、大慈はこれにたいそう驚いて、ようやくべたりと土間に座り込んだ。

 そうして一陣の風がさあさあと柳のように吹き、しかし旦那の足元だけはややに消えず、もう一度声があってからようやく大慈は立ち上がり、不思議に思って質問をする。

「旦那様、他にも何か御用ございますでしょうか。うちは船屋にございまする」

「否、否。件において報謝ほうしゃ致す。望みはあるか」

「へえ、いえいえ。お嬢様がいらっしゃって、身の上寂しいもんで、お嬢様がいらっしゃって大層楽しゅうございました。何も頂けません。ぜひ労ってあげてくださいませ」

 頭を下げ下げ旦那に返すと、気がつけば暖簾の向こうの足元はなくなっており、代わりに裏の湖の方でぽちゃんと涼し気な音が聞こえ、ようやっと大慈は胸を撫で下ろし、漸く握り込まれたように縮こまっていた肝が膨らんでいくような気がして手洗いに駆け込み、すると今度は窓の外の日差しが傾き始めているのを見てまた驚き、船の舳先をへえへえと喘ぎながら急いで直した。

 その日は運良く下の村でも雨が激しかったのか、いつもは我先にと夕刻と厳しく言付けても昼間から来る松部まつのべの爺が中々来ず、なんとか舳先は直って引き渡し、少ない銭を受け取って紅顔の大慈だったが、夕も過ぎて寝入るところでタコ爺が萩布屋の暖簾をはね揚げてやってきた。

「大慈大慈、おめさん、仕事だ。明日からは忙しいぞ」

「なんだいおやっさん、こんな時間に」

「一雨どわっと降ったでろ」

「それがどうしたんでい」

「それでよ、賭場の船が真っ二つでみんなおじゃんだ。お前のとこに持ってこいって言っといたから、今から来るぞ。さあさ起きろ」

 大慈は頭を掻きながら寝床から出ると、湖から涼し気な音が聞こえ、三つの波紋が沖に帰っていくのを見た。

「あ〃、困っちまったなあ」

 

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