あの夏(4).docx

 その日は朝からよく晴れていて、雨の気配など一欠片もなかった。快晴の空からは突き刺さるように鋭い陽光が差して、あらゆる物の影は世界から切り抜かれたように、黒くはっきりと映えていた。


 だからきっと、私は油断していたのだ。今日に限って、雨など降るはずがないと。 




 神社に続く雑木林の中を、いつものように歩いていた時だった。既に日は傾きかけ、名残惜しげな橙の光が木々の隙間から差し込んでいる。騒がしかったアブラゼミの声はいつの間にかヒグラシの染み入るような声にすり替わり、夏の陽に火照った身体を心なしか冷やしていくようだった。


 それら一切が不意に暗く沈んだのは、本当に突然の事だった。


 は、と空を見上げると巨大な雲が押し潰すように広がっていて、噎せ返るような土の匂いと共に湿った風が吹き抜ける。ぱつん、と雨の最初の一粒が梢を弾いたのを皮切りに、途端に降り出した雨が地面をみるみる染め上げた。


 大粒の雨が身体を叩き、服があっという間に重みを増していく。私は手でひさしを作ると、とにかく屋根のある所へ、と夢中で駆け出した。勢いよく水溜まりを踏みつけて半パンが泥で汚れたのも、ほとんど気にならなかった。


 そうして私が息せき切って辿り着いたのは、夕立に煙る鳥居の前だった。



 私は鳥居の柱に手を添えて、恐る恐る境内をうかがった。


 ――うっかり居ったら、魂さ取られるぞ。


 老婆の言葉を思い出し、ひく、と喉が震える。その間にも雨は強さを増して、スニーカーに染み込んだ水がじっとりと不快感を訴えていた。今から引き返そうにも、ここから集落までは遠すぎる。かじかみ始めた足をゆっくりと動かして、私は鳥居の内へ踏み入った。


 途端、大声が響いた。


「何やってる!」


 離れの縁側から、見慣れた白袴姿の人影が飛び出して来た。裸足のまま駆け寄ってきた神官が、私の腕を掴んで焦った声で言う。


「あれほど近付くなと――」


 薄暗い中にぼんやりと浮かんだ神官の顔を見て、私は軽い違和感を覚えた。離れの方に強く手を引かれて、その拍子にあ、と気付く。


 焦燥の浮かぶ目元と唇には、何故か紅が薄く差してあった。


 私を離れの一室に引き込んで押し入れを開け放った神官は、脱がせたスニーカーを私に押し付けると、鋭い口調で素早く言った。


「上の段の天井が外れて屋根裏に繋がる。そこで隠れて待ってなさい。何が聞こえても声を出しては駄目。まして下りてくるのは絶対に。自分は大丈夫だから」


 私が天井に飛び込み穴を閉じるのとほとんど同時に、がぁん――と、大きな雷鳴が社殿を揺らした。






 轟音で馬鹿になった耳が、ようやく調子を取り戻す。雨音と遠雷の響きが、静かに鼓膜を揺らし始めた。と、それらとは全く異なる音が、下から聞こえてくる事に気が付いた。


 人の、話し声だった。


「――、――」

「――たかったよ。久しく雷が鳴らないから……」

「心配かけた。ごめん」

「紅まで差して待っていたんだ。早く会いたいあまり、雨の中に飛び出して」

「うん」


 私に幾度も語りかけてくれた神官の――巫女と呼ばれた神官の声と、もう一つ、明らかに別人と判る声。私は凍り付いた。生身の人間が、これほど僅かな時間の内に、入って来られる訳がない。


「……自分も、会いたかった」


 年齢の分からない声だった。幼子とも、老人ともつかず、男か女かさえ分からない。やや低く落ち着いたそれは、思わずはっと居住まいを正したくなるような声だった。


 好奇心が、ふと頭をもたげる。ほんの少し、身を乗り出す。

 だが次の一言で、私は動けなくなった。


「――誰か居る」


 神官ではない「誰か」の声。ぞっとするほど平坦な声だった。


「雨に迷った猫か何かだ」

「違うよ。ねえ、誰を入れた?」

「は? 誰、って、」

「何となく知っている。この所よそ者の子供に入れ込んでるって」

「入れ込んでる、なんて、」

「――隠し事は止めて」


 直後、押し殺した悲鳴のような声が聞こえた。息を呑んで耳を澄ます、それを雷鳴が妨げる。下の様子が分からないのが、もどかしくてならなかった。

 悲鳴のような声は絶え間なく続いている。ひ、ひ、とすすり泣く響きさえ混ざり始めた。その合間切れ切れに、神官が抗弁する声が聞こえる。


「――てるっ、だけ、だから、」

「本当?」

「――ほんとう!」


 どさ、と畳に重いものが落ちる音がした。声を上げそうになって唇を噛んだ。雷雲も手伝って酷く暗い。稲光が走る瞬間だけ、板の隙間から光が漏れた。


 やがて、あの不思議な声がした。


「……信じる」


 くすり、と微かに笑う声がした。


「ありがとう。――たとい幾歳を経ようとも、貴方が一番の朋であることは変わらない。だから妬かないで」

「……妬いてなんか」


 重い雷鳴が腹に響き、雨はまだ酷く降っている。会話はパタリと止まって、微かに畳を擦るような音がするばかりになった。


 ――夏の雨は、雨神さんのお帰りの合図さぁね。


 老婆の言葉が、耳の奥に蘇る。

 下に居るのは、誰なのだろうか。


 ゾクリ――と、緊張と好奇心とが再び胸に込み上げる。板を軋ませないように神経を尖らせながら、私は光の漏れる隙間へそっと這い進んだ。


 背を屈め、静かに下を覗き込む。


 そして、悲鳴を飲み込んだ。





 青白い光を放つ人影が、畳の上でうつ伏せていた。肩に羽衣をふわりと掛け、部屋中に広がった長い髪は藍を帯びて渦を巻いている。まるで幽霊のようだが気配は澄み切って鮮烈で、花の香りにも似た濃密な水の匂いが木の狭間から漏れ出していた。


 そんな気高くも異様な気配を漂わせたマレビトの背を、つい、と伸びたしなやかな腕が抱いた。小さく笑いながら身を捩って顔を上げたのは、見た事もないような甘い表情を浮かべた神官だった。


 神官の――巫女の手が雨神の美しい髪を梳いて、その身体を雨神が一層強く抱き寄せる。一つの生き物のように絡み合った二人の肢体が、震え、悶えて、求め合って、







 ――そこから先の記憶は、霞がかったようにはっきりしない。


 次に思い出せるのは、すっかり夕立も止んだ後、柔らかく差し込んでいた橙の光だけである。

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