あの夏(3).docx

「婆さんが言ってたのは本当だよ」

「嘘ぉ」


 思わず弱り切った声を出してしまった私を見て、神官はあははと笑った。カルピスを混ぜていた手を止めて、私のそばにトンと置く。


「この辺の人たちは小さい頃から、夏の雨の日には神社に入るなって言われて育つんだ。普段は子供も沢山遊びに来るけれど、夏だけはあんまり来ないね」

「……そう、なんだ」


 あからさまに落ち込んだ声になってしまったからだろうか。神官はくっく、と喉の奥で笑ってから、でもね、と言った。


「何も夏中来ちゃいけないってわけじゃないんだよ。確かに夕立が降れば一緒にあの人も帰ってくるし、並の人間が顔を合わせるのはまずいのは本当だけれど……やたらめったら怖がる事じゃないんだ。むしろ誰も来ないんじゃあ味気ないから、君が来てくれるのは嬉しいな」

「ほんと?」

「うん」


 澄んだ瞳が、私を映して柔らかく細められる。どうしてだか落ち着かない気分になって、私は目を伏せて両手の指を絡めた。


「――でも、雨の日は絶対に駄目だ」


 硬い声に、驚いて顔を上げる。見上げた表情は、思った以上に真剣だった。


「魂取られるの?」

「そんなもんかな。まあ――人間が踏み込んじゃあならない神域ってのは、実際あるものだからね」

「……じゃあ、神官さんはどうなの」


 町の人ならともかく、この人はここに住んでいるのだ。万が一雨神さまに鉢合わせしてしまったら、どうするのだろう。

 口の中が妙に乾いて、私はすっかり汗を掻いたグラスに口を付けた。酸っぱい。氷が融けてしまっている。


「――そう、だねぇ」


 神官はうっすらと微笑んで欅の方へ目をやった。何故か私は、その横顔にぞくりとした。――目の前にいるその人が、不意にとても遠くの存在のように思われたのだ。


 目を伏せた神官が、自分は大丈夫なんだよ、と静かに言った。

 慣れきって気にも留めなくなっていたはずの蝉の声が、やけに大きく聞こえた。





「今日は外行かんのか」

「だって雨だもん」


 夏休みに入って初めての、まとまった雨だった。雨樋からバシャバシャと溢れ落ちる雨水を眺めながら、雨神さまは今日来るのかな、とぼんやり思う。


「叔父さん」

「お?」

「山の方の神社分かる?」

「雨神さんか」

「そ。――あそこに雨の日行っちゃいけないって、本当?」


 朝から点きっぱなしのテレビは、まだ少し見慣れない地方のCMを流している。東京より冠婚葬祭のCMが目に付くのは田舎だからか。リビングのちゃぶ台の上には白いノートと何冊かの本。神官の話を自由研究として提出してしまおうという魂胆だった。


「あァ、俺もな――そう聞いて育ったぞ。雨神さんの邪魔したら、脳天に雷落ちるぞって」

「邪魔? 何の?」

「おっと、聞いとらんかったか」叔父さんがカメラのレンズを拭く手を止め、うん、と伸びして首を回した。「というかそもそも、誰に聞いたんだ?」

「道で会ったお婆さんから……あと、あそこの神官さん」

「あ? 神官さん?」

「うん。あそこに住んでる、白袴で背の高い……三十歳に行くか行かないかくらいの」


 この町の昔話を教えてもらっている、と説明する。格好良くて優しいとは、恥ずかしくて言えなかった。


「あの神社の……」


 叔父さんは顎を抓んで何か考えていたが、やがて言った。


「お前、そりゃあ巫女さんだ」

「巫女さぁん?」

「おうよ、何せ――」


 遠くでごぉんと雷鳴が轟いた。

 エアコンで冷やされるだけ冷やされた湿っぽい空気を、扇風機が大儀そうに揺らした。

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