あの夏(2).docx
その日から私は、ほとんど毎日のように神社へ通った。黄金がかった瞳を細めながらその人の口から紡がれる物語はどれも面白くて、決して尽きる事がなかった。時々、氷水で冷やした西瓜を切ってくれることもあった。
この神社に祀られている雨神は、昔は気まぐれで我儘な荒神だったそうだ。村人は困って、色々な物を捧げた。食物に衣、お社、果ては人身御供――生け贄まで。しかしある時、神は変わった。人間の子供と友達になって、人間を愛する事を知ったのだ。荒神は田畑に甘露の雨を注ぐ、美しい神になった。
流行病でその子供が死んでしまった時には丸一ヶ月泣き通し、その時に降った雨が病をもたらしていた物の怪を押し流して、村を救ったという。
「それで雨神さまは村の守り神になって、今でもこの村を見守っているんだ」
「……友だちがいなくなってからも?」
「そうだよ」
「――偉いね」
初めてその伝承を聞いた時、本当のところ、少し意外だった。
人を愛する事こそ知ったものの、その子供に出会ってからも神の本質は変わっていなかったような気がしていた。その子がいたからこそ、神は雨を呼び地を潤した。「村の人々」ではなく、友人ただ一人を喜ばせようとしたのだ。だからその子が死んでしまったら元の荒神に戻ってしまいそうな気がしたのに、どうも違ったらしい。
「うーん」
私の言葉に、なぜだか神官はあいまいに微笑んで言葉を濁した。
並んで足を浸していた金だらいの水を、整った形の足先がゆるりと掻き回した。
確か数日経った頃の、昼過ぎだったと思う。蝉が五月蠅く鳴いていて、それ以上に風がごうごうと強かったのを覚えている。
いつものように神社への道を歩いていた私は、草むらから不意に投げられた声に仰天して棒立ちになった。
「――わりゃ、そこの、」
「はいっ」
モンペ姿の小柄な老婆が、私の方を見ていた。腰は歳月に曲がり、背中には大きすぎるくらいの山菜かごを背負っている。かごが大きいんじゃなくてあの人が小さいのか、とぼんやり思うと、また老婆は叫んで寄越した。
「わりゃ街から来たか」
「えと、東京から」
「雨神さんのとこ行くんか」
「そうです」
「ほいたら、今日は長う居ちゃあいかんぜ。夕立が来やる」
「ありがとうございます。――でも、もし降ってきたらあそこで雨宿りしますから」
「んあ? いかんいかん」
慌てたように両手を振って、老婆は言った。
「夏の雨は、雨神さんのお帰りの合図さぁね。――うっかり居ったら、魂さ取られるぞ」
魂を? と思う。神官からは、聞いた事も無い話だった。それでも老婆の表情が余りに真剣だったから、私は素直に叫び返す。
「わかりました。気をつけます」
ごう、と音を立てて、雑木林へ吹く風が草むらを抜けた。
「早よう戻るんやぜ、絶対やぜ」
私は何となく薄ら寒い気持ちがして、顔を伏せて神社へ急いだ。
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