逢瀬に夕立

木月陽

あの夏(1).docx

 今となっては夢か現かも解らない、昔々の話だ。



 私は麦わら帽を被って雑木林へ続く道を歩いている。ジワジワと鳴く蝉の声さえも陽光が肌を焦がす音に聞こえる、蒸し暑い夏の日である。


 かさかさ、と夏草をかき分けながら歩くと馬鹿でかいバッタが飛び出して服の裾にしがみつき、思わず私は立ちすくむ。直には触れたくないのでおっかなびっくり身を捩ると、ギャッと羽音を立てて茂みに消えた。忙しなく鳴る胸を押さえ、細い道を急ぐ。やがて雑木林に入ると、日差しがスゥと和らいだ。それでも深呼吸をすれば、出入りするのは熱い空気だけ。止めどなく汗の伝う首筋をとっくに濡れそぼった袖口で拭った時、ようやく目的の場所が見えてきた。


 す、と見上げれば朱の剥げかけた鳥居が木漏れ日を遮っている。その間を生温い風が吹き、注連縄の残骸らしき紙切れを揺らしている。蝉の声もどこか遠く、境内の木々に吸い込まれているかのようである。



 手持ち無沙汰に漫ろ歩いていた私が古びた神社を見つけたのは、この町に来てから一週間ほど経った頃だった。


 私は小学校の高学年だった。両親の仕事の都合で夏の間叔母の家に預けられることになって、始めは物珍しかった景色にも飽きてきた頃。村に毛が生えた程度のこの町には娯楽の一つも無く、見渡す限りの青い山。学校も夏休みで、新しい友だちを作る機会も逸してしまった。


 雑木林を少し分け入った先にあるこの空間を、私は一目で気に入った。本殿にも狛犬の台座にもしっとりと苔が絡みつき、本殿に下がる二つの鈴は半ば錆びて、かつては紅白だったであろう綱は白茶けた色味を晒している。境内の空気全体が穏やかに朽ちていく気配を湛え、中央あたりに立つ欅の大樹だけが歳月にねじくれながら枝葉を力強く伸ばしている。この静かな空気が心地良く、広くもない町を歩き回る道のりの最後に火照った足をこの神社に向けるのも、もう三日目の事だった。




 昔は人が住んでいたのか、境内には離れのような小さな平屋がある。その縁側に腰掛けてぼうっと時間を過ごし、やがて家路につくのが最近の習慣だった。だからその時も私は砂っぽい板の上に尻を乗せ、緩慢な風が梢を揺らすのを眺めながら足をぶらつかせていた。


 突然、背後で破れ障子が鳴った。


「えっ」

 反射的に立ち上がるも逃げ込める場所はない。障子が軋みながら少しずつ開いていくのを、呆然と見守るしかなかった。

 たん、と最後は軽い音で、ついに障子が開ききった。


「――ん、」

 白袴姿の人物が、障子に手をかけたままの姿勢で、少し驚いたように目を見開いて固まっていた。ばっちりと合ってしまった瞳が日差しの中で明るくきらめき、立ち去ろうにも目が離せない。


 凜とした立ち姿の人だった。胸元まである栗色の髪を一つに括り、たすき掛けして捲った袖からは程よく日焼けしたしなやかな腕がすんなりと伸びている。年齢は三十前くらいか。くっきりとした眉の下で、切れ長の目がぱちぱちと瞬いていた。


「あ、あの、その」

「こんにちは」


 金魚のように口をぱくぱくさせていた私に、その人はからりと言った。眉が下がって優しげな表情になる。一瞬で心を許してしまいそうになる笑顔だった。


「君、近所の子?」

「は、はい! 来たばかり、ですが」

「この神社が好きなの?」

「え、と……はい」


 そりゃ嬉しいね、とさらに笑顔になった。私の視線に気付き、ああ、と言う。


「ここで働いてるんだ」


 上下とも白色だったせいで気が付かなかったが、よく見ると袴姿は巫女装束によく似ていた。そういう事か、とほっとする。幽霊か何かかと思う所だった。


「最近表に出れてなかったからね。誰も住んでないと思ってたんだろう」

「はい」

「鯱張らなくて良いよ。この辺の子は皆タメ口で喋ってる」

「え、」


 戸惑う私を置いて、その人は身軽な動作で縁側に座ると隣の床をとんとんと叩いた。隣においで、という事らしい。おずおずと隣に腰を下ろすと、取り込んだばかりの洗濯物に似た日差しの香りがふわりと漂った。


 横目でそっと見遣ると、光に透ける瞳は黄金にも似た薄い茶色だった。木々の緑が映り込み、きらきらと揺らめいている。そんな瞳を細めて「良い所だろう」とその人は言った。


「ここは寂れちゃあいるけど、自然が元気だから。何より水が良い。雨神さまのお膝元なんだ」

「あめがみ」

「雨の神様。ここで祀ってる神様の事。龍神って言った方が分かる?」

「……龍神」

「そう。――ほら、見てごらん。あの欅。あそこに雨神さまは下りてくるんだ。雷と一緒にね。昔は所構わず下りて村人を困らせていたけれど、欅を植えてからは、あれを通って行き来するようになった」


 ――落ち着いた声で話すその人は、この神社の神官だと名乗った。都会から来て手持ち無沙汰だと言うと、話し相手になろうかと言ってくれた。


「伝承の類は好き? ここにはそういう話が集まってるから、拙い語りで良ければ幾らでも話せる」

「聞きたい」


 民話や昔話は小さい頃から大好きだ。神官は私の食いつきっぷりに驚いた表情を一瞬浮かべてから、すぐに破顔して私の頭を撫でた。

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