雨雪の祈り

汐海有真(白木犀)

雨雪の祈り

 千を越えた辺りから、わたしは終わらない七月六日を数えるのを終わりにした。


 何度繰り返しても夏の暑さに慣れることはなくて、わたしは今日も透明な汗の粒を幾つも浮かべながら、一つ年上のお姉ちゃんとカフェのテラス席に座っていた。

 このカフェはいつも混んでいて、涼しい店内は幸せな人間たちが占領している。一度くらい、彼等を殺してしまおうか? そうしても別にいいような気がした。あふれた真っ赤な血は、今日が終わればまたするすると彼等の身体に戻っていくのだから。


雨音あまねちゃん?」


 声を掛けられて、わたしはお姉ちゃんと視線を合わせた。

 黒曜石を溶かしたような長髪は、片側に寄せられて一纏ひとまとめにされている。ぱっちりとした深い茶色の瞳は、わたしの姿を淡く反射しながら、時折瞬きによって目蓋まぶたの奥に隠されている。夏だというのに白く透き通った肌は、彼女の「雪奈ゆきな」という名前に相応ふさわしいように思えた。


「……どうかした、お姉ちゃん?」

「ああ、いや、何でもないのよ。ただ何だか……とても、暗い目をしていたから」


 この人は、さとい。

 かすみのようにぼんやりとした誰かの感情を丁寧に拾って、心配することのできる尊い優しさを持っている。お姉ちゃんの脳は綺麗な桃色をしているから、そういう機能も発達しているのかもしれない。姉妹のはずなのに、お姉ちゃんとわたしには埋められない差がある。


「ああ、別に何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」

「そうなの? それならいいんだけれど……」


 お姉ちゃんはほのかに俯いて、冷えたミルクティーを口にした。前回来たときはカフェラテを飲んでいて、さらにその前は林檎りんごのジュースを飲んでいた気がする。

 同じ日々が少しずつ異なっているのが救いだった。全てが何も変わらなければ、わたしはより深く狂っていただろう。ただ針を回転し続けるだけの時計が、段々壊れていくのと同じように。


「そういえば、雨音ちゃん」

「何?」

「雨音ちゃんはさ、好きな人とかいるの?」


 お姉ちゃんは時折、こういう話を持ち掛けてくる。

 わたしは彼女と目を合わせるのをやめて、少しだけ視線を落とした。柔らかく膨らんだ桜色の唇を、見る。……見つめてしまう。


 最近、破壊の願望がある。それは恐らく二つの要因があって、代わり映えのない日々への拒否反応と、何をしても時間に許されてしまうという安心感だ。

 わたしは、お姉ちゃんとわたしの関係性を壊してしまいたかった。姉妹であるわたしたちを、人は皆姉妹というレッテルを貼り付けて眺める。それによってわたしがどれほど苦しんだかも知らずに。

 わたしは微かに頬を歪めながら、笑った。


「内緒だよ」


 お姉ちゃんは、少しだけ残念そうに微笑んだ。


「……雨音ちゃんは、いつもそうやって言うのね」


 わたしはその言葉に返答することをせずに、自分の分の冷えたミルクティーを口にする。本当は紅茶に何も入れない方が好きだけれど、仕方ない。お姉ちゃんと同じものを飲むという行為に、強い意味が存在するのだから。


 *


 十七歳の七月六日は、最初から終わらなかった訳ではない。一度は確かに過ぎ去った。今ではその正しかった七月六日のことなど、数多の日々に塗り替えられて殆ど忘れてしまった。


 ……でも、あの七月七日の記憶は、ずっと、ずっと脳に纏わり付いている。


 日曜日だった。夏の洋服を未だに買い足していなかったわたしは、それを口実にお姉ちゃんを外出に誘った。彼女は快諾かいだくしてくれて、わたしは澄ました顔をしながら心の中で途方もない喜びを感じていた。

 殺意を感じるような暑さだった。それなのにわたしは適当な理由を付けて、お姉ちゃんと手を繋いだ。体温と体温が絡まって、少しだけ苦しい幸福だった。


「ねえ、雨音ちゃん」

「どうかした?」

「今日が何の日か知ってる?」


 お姉ちゃんはほのかに首を傾げながら、そう尋ねる。そんな何気ない動作までもが、愛おしかった。


「知ってるよ。七夕でしょ?」

「わあ、流石雨音ちゃん! そうそう、七夕なのよ。何か短冊にお願い事はした?」

「……してない」


 していたけれど、わたしは嘘をつく。

 お姉ちゃんは微かに寂しそうに、「そっか」と言った。わたしは胸の中を確かな罪悪感に汚されながら、彼女の手をそっと強く握った。

 言えるはずがない。こんな願い事を……お姉ちゃんに、言えるはずがない。


「お姉ちゃんは何か書いたの?」


 その質問には、自分でも制御できないくらいの期待が含まれていた。


「うん、したわよ。家族の皆が、健康に生きられますようにって」


 お姉ちゃんはとても温かな笑顔で、そう言う。

 自分のことを願ってくれていたという嬉しさは、この感情が一方通行だということを突きつけられたような落胆にすぐ流されていった。できることなら、願い事を内緒にしてほしかった。そうすればわたしは、すがることができたかもしれない。


「……? 雨音ちゃん、大丈夫?」


 お姉ちゃんはすぐ気付く。それなのに彼女は、わたしの一番大きな秘密に気付くことができない。それが可笑おかしかった。きっとそれほどまでに、わたしの秘密は間違っているのだろう。

 赤信号の交差点を待ちながら、全てが壊れてしまえばいいのになと思った。そうすればわたしの間違いは間違いでなくなり、正しくなる。そのはずだ……そう考えていたときだった。


 手が離れた。

 大きな音がした。

 お姉ちゃんは微笑んでいた。

 瞳は陽光を綺麗に映し出していた。



 ――ああ、すべてにきづいたころには、すべてがおわっていた。



 お姉ちゃんはトラックの近くで真っ赤なお姉ちゃんになっていた。わたしは地面に転がっていて、恐る恐る起き上がりながら、「これは悪い夢」と呟いた。お姉ちゃんに近付いていく。「これは悪い夢」赤い液体の上に桃色が零れている。「これは悪い夢」その桃色はお姉ちゃんの頭から溢れている。「これは悪い夢」嘘だ。「これは悪い夢」あの祈りは嘘だった。「これは悪い夢!」わたしの本当の祈りは破壊ではなくて、「……これは、わるい、ゆめ」愛だった、のに。


 それからのことは、もう余り思い出したくない。

 夜空の記憶だけを語れば、充分だ。


 わたしは、住んでいるマンションの屋上に立ち尽くしていた。右手にはかつて自分が書いた短冊が握られている。都会だからか星は殆ど見えなかったけれど、どこかに天の川が隠れている。彦星と織姫を分けた呪いの川だ。


 天の川は少しばかりの勇気と狂気があれば、簡単に壊すことができる。


 わたしは屋上のへりに立って、にじんだ視界で世界を見つめた。もうこの世界に用はない。お姉ちゃんがいない場所に意味はない。わたしはふと短冊を見た。思わず笑ってしまうほどにどうしようもない祈り。でもこれこそが、わたしの正しい祈りだ。


 片足を浮かせたら、やはり怖かった。

 けれどそれを遥かに上回るほどに、わたしの愛は大きかった。

 目を閉じる。

 祈りを、口にする。



「……お姉ちゃんと、ずっと一緒にいられますように」


 *


 結局わたしの祈りは、空に届いてしまう。

 わたしは自室のベッドの上で目を覚ます。枕元のデジタル時計を見れば、「7月6日」という文字が浮かんでいた。

 愚かなわたしは過去に戻ってやり直す機会を与えられたのだと思い、安堵あんどで涙を流しながら微笑んだ。


 ――それは大きな間違いで、七月六日は永遠の牢獄ろうごくとなった。


 わたし以外の誰もこの日が繰り返されていることに気付かないし、これから気付く未来も訪れないのだろう。


 *


 昼下がりに飲んだ冷たいミルクティーの味を、ぼんやりと思い出していた。


 わたしは自室の机に突っ伏しながら、無秩序むちつじょな呼吸を繰り返していた。この夜が終わればまた終わらない朝が来る。数え切れないほどこの日を巡っても、わたしにはその事実が未だに恐ろしい。全ての感情を殺してしまって、ただお姉ちゃんへの愛だけを身体に循環じゅんかんさせたかった。


 居ても立っても居られなくなって、わたしは机の端に置かれているノートを開いた。ページの白さを見つめながら、横たわっているシャープペンシルを強い力で握る。それから衝動に任せるように、黒い芯でその白をけがした。

 そうしていると、少しだけれど正常な自分に戻れるような気がした。でもわたしは元から間違っていたのだろうか、元から狂っていたのだろうか、わたしの愛は可笑しいのだろうか?


 お姉ちゃんを好きになったことに、特別な理由は何もなかった。外見も内面も美しいお姉ちゃんに恋をしてしまうことが、どうしていけないのだろうか。

 普通の人はきょうだいに恋愛感情を抱かないのだという。でもそれは、ある種とても歪な取り決めではないだろうか。素敵な人を素敵だと思って何が悪い。家族を、同性を好きになって、何が悪い。あなたたちの「普通」を、わたしに押し付けないでくれ!


 ぼきり、とシャープペンシルの芯が折れる。

 小さな黒い芯がころころと転がっているのを見ていたわたしは、ふと思う。


 ――壊してしまおうか。


 自分の呼吸が少しずつ、少しずつ荒くなっていく。ぐちゃぐちゃの黒い筆跡で汚くなったノートがわたしのことを見つめている。


 わたしはお姉ちゃんへの愛を、ずっと心の牢獄に閉じ込めていた。

 そうしていなければ、お姉ちゃんは自己や他者の「普通」に絡め取られ、わたしのことを家族としてさえ愛してくれなくなるかもしれないから。臆病なわたしはその未来を恐れて、彼女のことを妹として愛してきた。


 けれどもう、未来を怖がらなくていい。

 だってこれからもこの世界はずっと、七月六日なのだから。


 気付けばわたしは、笑っていた。小さな部屋にわたしの笑い声が響いていた。笑いは止まらないのに何故か苦しくて、その辛さをき消すようにわたしは一段と大きな声で笑った。


 *


 お姉ちゃんの部屋の扉は閉じられていた。

 わたしは自身の右手を軽く握り、その扉を叩こうとする。そのとき、違和感に気付いた。わたしはしばしの間呆然としてから、耳を扉に付けた。

 冷えた木の温度を越えて聞こえてくるのは、すすり泣くような声。どうして? そうわたしは思う。だってお姉ちゃんはいつもわたしに笑いかけてくれて、それは深刻な悩みなど何も持ち合わせていないような笑顔で……


 気付けばわたしは、衝動に任せて扉を開いていた。

 ベッドの上で体育座りになったお姉ちゃんは、埋めていた顔を上げると驚いたように瞬きを繰り返した。真っ黒の長髪は微かに乱れている。目の辺りには涙を流した痕跡こんせきがある。こんな状況なのに、わたしはそんな些細ささいな変化に色香を感じていた。

 お姉ちゃんはそっと、桜色の柔らかそうな唇を開いた。


「どうしたの、雨音ちゃん……? 急だったから、驚いたわ」


 彼女はそう言って、微笑む。

 わたしは当初の目的を思い出す。自分の口角が淡く歪んだような気がした。お姉ちゃんの側に立って、左肩に手を伸ばす。近くで見ると瞳はうるんでいた。ああ、どうしてお姉ちゃんは泣いていたの……? 青色の心配と赤色の欲望が混ざり合って、気味の悪い紫色の感情がわたしの心を波打たせている。


「……何で、泣いていたの」


 わたしの瞳から、お姉ちゃんはほのかに目を背けた。


「別に、何でもないわ。悲しいことがあっただけよ」

「悲しいことって、何?」

「……内緒よ」


 わたしは自分の唇を噛んだ。教えて貰えないことが信頼されていない証のように思えて、無性に苛立いらだった。


 ああ、もう、壊してしまってもいいような気がする――


 右肩を押してしまえば、後はもう一瞬だった。状況が掴めていないような顔をしてベッドの上に横たわるお姉ちゃんを、わたしはすぐ側で見つめていた。わたしたちの視線は丁寧に重なり合っている。お姉ちゃんの顔が、くしゃりと歪んだ。


「ああ……ごめんなさい、本当にごめんなさい、雨音ちゃん」


 お姉ちゃんはそう言って、子どものように声を上げて泣き出した。何故謝られたのかがわからなくて、わたしはただお姉ちゃんの嗚咽おえつを聞いていた。

 お姉ちゃんは何度も、ごめんなさいという言葉を譫言うわごとのように繰り返している。ああ、何一つわからないのに、伝染したようにわたしまで悲しくなってしまう。


 やがてお姉ちゃんは、涙をぬぐいながら口を開いた。


「……こんなこと言われても、理解できないと思うけれど。私、雨音ちゃんを、閉じ込めてしまったの」

「どこに?」

「七月、六日に」


 わたしは、目を見開いた。


「ごめんね、こんなこと言われても困っちゃうわよね。だって雨音ちゃんは、一日が終われば、全て忘れちゃうものね」


 自分の背筋に、悪寒が走ったのがわかった。


「今日の貴女にはもう会えないと思うけれど、言わせてほしいの。私たちはね、この七月六日をずっと、ずっと繰り返しているのよ」


 知っている。


「全ては私のせいなの。私ね……七月七日に、車にかれたの」


 知っているよ。


「そのとき、願ってしまったの。雨音ちゃんとお別れなんて嫌だって。離れたくないって。深く、深く祈ってしまったの。……多分、それが間違いだった」


 ああ……そういうこと、だったのか。


「ごめんなさい、雨音ちゃん。私、貴女から未来を奪ってしまった。許されないのはわかっているけれど、どうか今の貴女にだけでも、許されたい……」


 お姉ちゃんは泣き疲れたように、目を閉じた。


 きっとこれは、わたしたちへの罰なのだろう。大切に思ってくれていた人々を残して死にながら、それでも自分本位な祈りを世界に溶かしたことへの罰。お姉ちゃんとわたしの祈りは強固に絡み合っておりとなり、七月六日を牢獄へと変貌へんぼうさせてしまったのだ。


 けれどわたしは今、深く安堵していた。

 この世界にはもう、お姉ちゃんとわたししかいない。他の人間は皆、一日生きては全てを忘れる存在だ。それならばもう恐れないでいい、怖がらなくていい、怯えなくていい! いつかお姉ちゃんに認めてさえ貰えれば、わたしの愛はようやく正しくなる。


 大丈夫だ。最早もはやわたしたちは、孤独になることを選べないのだから。


「……許すよ、お姉ちゃん」


 そう告げてから、わたしは自分の唇を、お姉ちゃんの唇に重ねた。

 その感触は想像していたよりも平凡で、でもわたしにとっては途方もない特別だった。

 お姉ちゃんは目を開く。世界中の誰のものよりも美しい、眼球だ。


「だからどうか、わたしのことも……許してほしい」


 自分の口から出た言葉は、思ったよりも弱々しくて情けない響きだった。

 それを隠すかのように、わたしはもう一度だけ、くちづけをした。

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