シュリーヴィジャヤ

 解説から引用します。



シュリーヴィジャヤは、7~14世紀頃スマトラ島のパレンバンを中心に形成された王国。11世紀頃までが繁栄期であった。その支配領域はマラッカ・スンダ両海峡をおさえ、当時の海上貿易をリードした。7世紀の唐僧義浄は3度ここを訪れて「南海寄帰内法伝」をここでまとめ、大乗仏教の一大中心地であったことを伝えた。9世紀中頃ジャワから興起したシャイレーンドラ朝が合体し、10世紀の最盛期を現出、西部ジャワからマライ半島南部を治めたが、11世紀初頭、東部ジャワとの相克が激化する中で、南インドのチョーラ朝の攻撃をうけ、パレンバンも一時占領される状況となり、地方政権に転落した。14世紀、ジャワのマジャパヒト王国の攻撃をうけ、その傘下に入った。



 資料なのですが、5つの資料が少しずつ引用されています。(1)義浄著『南海寄帰内法伝』 (2)ジャヤナーシァ王の文化事業を伝える碑文 (3)アブー=サイド=アル=ハサン著『地理書』ペルシア人地理学者の916年の描写 (4)マスウーディ著『旅行記』これはアラビア人の995年のもの (5)宋の役人が13世紀初頭に書いた『諸蕃志』



(1) シュリーヴィジャヤには千人以上の仏僧がいて、学問と托鉢が重視されている。彼らはインドとことなることなく、あらゆる教理を考究し、追求している。


(2)「公園の建設および王のすべての慈善の功徳は、すべての生き者に分かち与えられ、そして、人々に悟りへの道を開こうと願いをこめて……」


(3)「ザーバグの城市は、中国と向かい合い、その間の距離は、順風ならば少なくとも海路1か月である。この城市の王は、マハーラージャの名前で知られ、同時に、千パラサンジ(約6250キロ)以上の範囲にまたがる多くの島々の支配者でもある。オーマンの船がおもむくのは、その港市であり、オーマン行きの船が出帆するのも、その港市からである。マハーラージャの居住する島は、世界の土地と同じく沃野である。この国の雄鶏が夜明けを告げるとき、村々が隣接し、綿々とつながっているので、100パラサンジ、またそれより広い範囲にわたって互いに鳴き合っている。」


(4)「マハーラージャのこの帝国は、膨大な人口と、数え切れないほどの兵員がある。最も早い船であれば、人の住んでいる全部の島々を回るのに2年もかからない。王は、ほかのどの国の王も持っていない各種の香料や芳香剤を使い、これらの地域では樟脳(しょうのう)・蘆薈(ろかい)・丁香・白檀・肉豆蔲(にくずく)・しょうが・ひっちょうか などがとれる。」


(5)「もし商船が過ぎてはいらざれば、すぐ船を出して合戦す。」



 中国、ペルシア、アラビアと色々な資料がありますね。(5)は私には意味不明です。商船が港に入らないで行き過ぎれば攻撃していたのでしょうか?


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世界史資料を読んでみた 火浦マリ @marihiura100

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