紫禁城の音楽教室

第32話 

 若汐ルオシーが幼い頃の話である。

彼女は初めからピアノの才能がある人間というわけではなかった。

 どちらかと言えば、落ちこぼれ。

 楽譜を読むと言うのも遅く、ピアノの練習もしていてもなかなか上達するという事はなかったのだ。

 今から見れば考えられない事だろう。

恐らくその事を郎世寧に話をしたとしても信じる事はあるまい。

 それらの事は全てピアノの教師の指導が良くなかったと言うものがある。

 だからこそ若汐は『出来ない人』の気持ちというのが嫌でも分かる人物だった。

ピアノの指導も現代では上手いと言われていたのもその為だった。同じ『出來ない』という視点から見る事が出来る人間だからである。

 才能に開花してもそれに驕る事なく努力を続けてこれたのはその『出来ない人』だったからだった。

 未だに自分の事をこの時代に置いて凄い事をしているという自覚は持ってはいない。

 嫉妬やいじめにも遭っていたせいか、音楽の自己評価というものがとても低かった。

 過去に縛り付けられているところがあった。

もちろん、ピアニストとしてのプライドはある。

 譲れないものが確かにある。

だが、過去はどうしても変えられない。

 タイムスリップしたのがどうしてこの時代なのか、若汐は考えてしまうような時があった。

 もしこんな事が本当に起こるなら、自身の過去に戻りたかったと。

だからこそ彼女は気がつく事がない。

 自らの音楽の魅力というものを。


「娘娘。これで正しいでしょうか。」


 若汐は嫻妃に清朝時代の中国語の漢字を教わっていた。

 今は習字を教わっており、お手本を見ながら書いては覚えるという作業を繰り返している。

 令貴人として封じられてから教養を身につけるべく時間を見つけては皇后や嫻妃、愉嬪に何かしら教わっていた。

 全く出来ない状態から3人は厳しくすることもなく優しく、分かりやすく教えてくれた。

 おかげで全く書けなかった漢字も大分書けるようになり、書物も読む事が出来るようになった。

その為に詩も暗記できるようになってきたのである。


「ええ。随分と上手になったわね。最近は詩も読めるようになってきたと聞いたわ。」

「皆様のおかげです。」

「貴女の筋が良いのよ。さて、もう少し難しいのに挑戦してみましょう。」

「はい。ありがとうございます。」


 筋が良いというのは間違いである。

 若汐は寝殿に戻ってもずっと机に向かって習った事を復習していたからだ。

 最低限の教養を身につけるという目標を掲げている若汐は努力する手を止める事はなかった。

 目標があると人間というものは止まらなくなるものだ。

 実はもう、最低限の教養という目標を達成しているという事はやはり本人は気がついてない。

 若汐という人物は自身の事はとことん鈍いのである。

 今の教養はお嬢様達が当たり前に習うようなものを学習している事を彼女は知らない。

 皇帝の妃嬪として相応しい人物になってきていたのである。

それは現代人の彼女が知るよしもない事で仕方のない事だった。


「上手よ。もう習う必要もないんじゃないかしら。」

「そのような事はございません。まだまだです。」


若汐が好きな詩に『飲水詞』というものがあった。

かつて康熙帝に仕えた清朝最高の詩人と言われた人物。

名を納蘭性徳のうらんせいとく

若汐なりに日本語訳してみると、こうなる。


山への旅

水への旅

羊羹のほとりを歩く

夜は深く、千のテントが灯される。

ある夜、風が吹き

そして雪

ふるさとの夢がとまらない

故郷にはそんな音はない。


 直訳するとこのようになる。

 もっと他のお嬢様方なら上手く翻訳できたのかもしれないが、今の若汐にはこれが精一杯だった。

 それは故郷への想いをのせた詩で、若汐自身も身にしみるほど理解出来てしまうものだった。


 自分はいつ元の時代に帰る事が出来るのだろうか。

 自分はこのまま帰れずに死んでしまう運命なのだろうか。

 あのアパートの部屋に帰りたい。

 本来の自分として生きたい。

 自由に生きたい。


 そんな想いは募らないわけがなく。

だが誰にもそれを悟らせてはいけない。

 誰にも話してはならない。

誰にも吐き出せないその想いは胸に仕舞っておくしかない。

 歴史を知っていたとしても、若汐は無力だ。

何か大きな事を出来るわけではない。

 彼女が出来るのはせいぜいピアノが弾ける程度だ。

何も出来ない。

 人間とは未来から来たとしてもその程度なのだ。漫画みたいに誰かの未来を変えたりすることなんて、実際には出来たりするものではない。

 だってただの人間なのだから。

ちっぽけで何の力も何もない。

 だが、そこで立ち止まるかどうかがその人間の真価というものが問われるものだろう。

若汐という人間は立ち止まる事は選ばなかった。


「ここまで書けるようになったならこの書も読めるはずよ。素敵だから是非読んでみて。」

「ありがとうございます。頂戴致します。」


 想いは胸にしっかりと仕舞い込み、いつものように笑顔を見せる。

書物を受け取り、開いてみる。

 言われた通り以前より随分と読むことが出来るようになっていた。

若汐の努力の成果が現れていた。


「そういえば、若汐は永琪えいきの事は知っているわよね?」

「はい。愉嬪娘娘のご子息ですよね。女官の頃から聞いて知っております。それが如何致しましたか?」

「あの子にピアノを教えてあげる事って出来るかしら?」

「…え?」


 突然の展開についていけない若汐。

どうしていつもこうなるのだろうか、と苦笑いにらならいよう必死に表情を保つ。

 だが、いつもの笑顔が少しだけ困惑の表情に変わってしまっていた。








































































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円明園のピアニスト 天羽ヒフミ @hihumi6123

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