第4話 カプグラ症候群

 それから時代は少し流れていた。武則が交通事故に遭った時もあったが、世の中は、かつての好景気を思わせるさらなる好景気に浮かれていた。歴史上、空前の好景気の後には絶対に大きな不況が襲ってくるということが証明されているにも関わらず、人というのは学習をしないのか、それともその時がよければ、いやいい時にこそ、できるだけ蓄えようとするのか、つまりは自分のことだけしか考えていないような状態になってしまう。

 それを、

「感覚がマヒしている」

 という一言で片づけてしまうのは危険だろう。

 しかし、そのことを頭の中だけで理解しようとするのは、自分のことだけを考えて貯蓄に走る人たちとさほど変わっているようには思えない。この意見はあまりにも時代を浅いところでしか見ていないからなのかも知れないが、深く掘り下げたからと言って、このスパイラルを解決できるわけではない。解決策が何か見つかったとしても、経済界を担う世界はあまりにも大きすぎるのだ。

 時代はいわゆる、

「バブル経済」

 に湧いていた。

「バブル」

 つまり実態のない泡である。

 それを回すことで経済を活性化させるというものなのだが、これこそ、自分たちだけがよければいいという発想の表れから生まれたものではないかと武則は思っていた。

 あまりにも乱暴であるのは分かっているが、実際にバブル経済の真っ最中に、誰もそんなことは考えない。

「今ならどうすれば儲かるか」

 そればかりを考えているのだ。

 膨れ上がる泡というものには、しょせん中身に限界があった。誰もがバブルに限界はなく膨れ続けるものだと思っていたのかも知れない、いや、バブルが弾けてしまうまでに自分だけは助かるように貯蓄に走るというやり方が蔓延していたのだろう。

 バブルが弾けることは、経済学者には分かっていたかも知れない。どこまで分かっていたのかは疑問だが、それをいきなり発表してしまうとどうなるか、考えられることは二つだろう。

 一つは、いきなり重大発表をすることで、世の中がパニックになるということである。一人が発表すると、きっと他の経済学者の中にも同じことを想っていた人がいれば、彼らもその意見を裏付ける話を始める。

「誰が最初に発表するか」

 ということが重要なのだ。

 こんなことを発表するには勇気がいる。警鐘を鳴らして、その解決方法まで提示できれば、その人はノーベル賞ものであろう。ただ、それで経済が混乱しなければの話である。

 しかし、何んらの解決法を示すこともなく、ただ警鐘だけを鳴らしてしまうと、本当に混乱だけしか招かないことになる。それは実に危険なことである。

 またもう一つは、バブルに浮かれている人たちが、警鐘を鳴らす人に対して、まともにその言葉を信じるかということである。

 ひょっとすれば、ここまでは思っていなくとも漠然とバブルが危険だということに気付いている人がいても、なるべく目を瞑って、自分だけが何とかなればいいと思って貯蓄に走っている人からすれば、

「何をバカなことを言ってるんだ。そんなことあるはずないだろう」

 と、最初から聞く耳を持たないような態度を取るに違いない。

 その人にとって警鐘者の言葉は、

「ありがた迷惑」

 以外の何物でもないのだ。

 しかも、専門家が口を揃えて、警鐘者の言葉を、

「なんの根拠も持たないデマだ」

 として言及すれば、多数決という観点からも、皆が彼のことをほら吹きのように罵ることで、完全に、

「出る杭は打たれる」

 という状況になってしまう。

 武則も、バブルに対して一抹の不安を抱えていたが、他の多くの人と同様、

「自分だけは困らないように」

 という思いから、貯蓄に走っていた。

 だが、貯蓄と言っても、普通の経済流通のように、形のあるものを売って、その代価を得るというものではない。バブルの根本は、

「形のないもの」

 である。

 例えば土地の売買などは、相場というものがあり、高い時もあれば安い時もある。普通に考えれば、土地の売買で儲けようと思うと、

「安い時に買って、高い時に売る」

 というものであろう。

 それは土地に限らず、株券のような有価証券にも言えること。そうなると、たくさん安い時に買って、高くなってから売りに出すというのが当然であった。

 しかし、自分だけがバブルを考えているわけではなく。まわりの皆が同じ発想をしているのだ。

「高くなって売り出されたものを、買う人はいない」

 というのが当たり前で、

 いくらたくさん持っていたとしても、誰も買う人がいなければ、ただの紙切れというべきである。

 そのうちに、モノがどんどん高価になってくる。気が付けば、バブルは弾けてしまっていた。

 武則はその頃に生まれていなかったが、年配の人が思い出すのは、

「戦後の新円の発行」

 ではないだろうか。

 大東亜戦争での日本の敗戦により、世の中は物がないという極度のインフレに陥ってしまった。

 それを解決する案として政府が出したのは、

「新円の発行」

 だった。

 貨幣価値を根本から変えることで、極度のインフレを解消しようというものだが、それまでしこたま持っていたお金は、そのほとんどが紙屑同然になってしまった。それを知っている人からすれば、

「あの時と同じだ」

 と考えたかも知れない。

 実際に同じかどうかは分からない。ひょっとするとまったく違ったものなのかも知れない。

 少なくとも新円の発行は政府の意図したことであるが、今回のバブルの崩壊は、予知はできたとしても、防ぐことのできない一種の「自然現象」のようなものだという解釈も成り立つのではないだろうか。

 世の中は、今までの考え方を根本から考え直さなければいけなくなった。それまではどの会社も尾、

「いけいけドンドン」

 つまりは、働けば働くほど儲かったのだ。

 だが、バブルが弾けてからは、働けば働くほど思った以上に儲からないことで経費の方が嵩んでくる。そのために、生まれた言葉として、

「リストラ」

 であった。

 一番の経費である人件費を削ること、それが企業が生き残るための方法である。

 バブルの時代には、優秀な人材を抱え込むのは当たり喘のことだが、人海戦術を駆使するために、「兵隊」も必要だったのだ。

 バブルが弾けると、まずはその兵隊がリストラされる。次には、それまで年功序列でエレベーター式に出世してきた人の能力が見極められ、本当に優秀な人以外は、人件費削減のターゲットになった。つまり中間管理職の大幅リストラである。

 さらに続いたのは、会社が生き残るための、

「吸収合併」

 である。

 いかに会社を存続させるか、零細企業などは中小企業がつぶれれば連鎖倒産を余儀なくされる。中小企業としても、安泰ではない、何といっても、それまで絶対に瞑れることはないという神話が存在していた銀行などが、平気で倒産してしまう時代に突入してしまったのだ。

 バブルが弾ける時代を大雑把に書いたが、実際には他にもいろいろな要因があり、いろいろな事態を招き、何とかしようとしている人も存在していたのは事実だろう。しかし、それをくどくど話をしても埒が明かない。ここでは、

「そんな時代だった」

 ということを示すだけにしよう。

 武則の会社ももちろん、バブル崩壊の煽りを受けないわけはない。実際には結構いろいろ考え、もがいてはみたが、時代の巨大な流れに逆らうことはできず、首の皮一枚で繋がっている状態だった。

 だが、武則の中では、もうすでに会社は倒産したような気になっていた。要するにすでに精神的には弱気になっていて立ち直ることは不可能な状態だったのだ。

「なんで、こんなことに」

 と言ってみたところで、状況は自分だけの問題ではなく、社会全体がそうだったのだ。

 自分だけが損をしていると思うのもきついものがあるが、まわりがそうだというのは、

――自分が悪いわけではない――

 という自己弁護はできるが、実際にはどうにもならないことでのジレンマが強くなってくるだけだった。

 今までにもジレンマというのを何度も味わってきたが、その都度感じるのは、

「なんで、こんなことを感じなければいけないんだ?」

 ということだった。

 その時の武則も同じ気持ちで、それこそ若い頃に感じた「自殺」を考えてしまいそうな自分がいることに気付いたのだ。

 その頃になると、自分がかつて自殺をしようと試みたことなど忘れかかっていた。完全に忘れてしまったわけではないが、さすがにバブルという浮かれたような時代背景は、過去という時間を忘却の彼方にさらっていくだけの力を十分に要していたのだ。

 武則は、自殺菌という発想も忘れていた。記憶の奥に封印していたのかも知れないが、実際に自殺を考えるようになってから、自殺菌という発想を思い浮かべることもなかったのだ。

 ただ、その頃の武則には、妻もいれば子供もいる。そんな家族を残して自殺を試みるなど、すぐに決められるものではない。

 逆に言えば、家族がいなければ、即行で自殺を試みていても不思議のないほどの状況で、会社はほとんど火の車だった。

 さらに、一番大切なことは、

「何を信じていいのか分からない」

 という思いが強くあるからだった。

 少しでも信じられるものが残っていれば、自殺など考えないかも知れない。一度は自殺しようとして辞めた時のことを想い出すと、

「死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものではない」

 と思い、死を意識することは金輪際ないだろうと、若い頃には思ったものだ。

 その時の感覚は今でも覚えている。自殺を試みようとしたことは覚えていないのに、自殺を思いとどまった時の感覚だけを覚えているというのも、実におかしなものだった。

 あの時、感じたのは、

――自殺してしまうのが怖い――

 という思いだった。

 自殺するまでに散々考えてきたはずだった。損得関係から、この世への未練、そして生き残ったとしても待っているものが何であるかということを含めて、すべてを考えたうえで、自殺するしかないと思ったはずだった。

 自殺するには当然のことだが勇気がいる。

「死んでしまったらおしまいだ」

 という言葉通り、どんなに後悔しても収まらない。

 しかし、後悔するのはこの世ではない。想像がつくはずもない。それよりももっとリアルなところで怖さがあるというものだ。どんな死に方をしたとしても、それは恐怖しかないことは分かっている。苦しみや痛みを伴う。即死だったとしても、その苦しみや痛みが肉体と離れた精神に乗り移っているかも知れない。

 そもそも、死んだら魂が肉体と離れてしまうというのは本当であろうか。そう考えた方が辻褄が合うということで言われ続けてきただけのことではないのだろうか。死の世界を見た人はいない。あくまでも創造でしかない世界を、いかに創造したとしても、それは架空の世界でしかないのだ。

 ただ、考え方はこの世にいるからできることである。あの世というものが存在し、そちらに魂が行ったとして、魂は何を思うというのか、天国と地獄という発想にしても、誰も見たことがない。冷静に考えれば宗教の教えとして天国と地獄という発想があった方がやりやすいというのも事実に違いないだろう。

 死を目の前にして、そんなことをいろいろ考えるのは、ほとんど初めてと言っていいほど、死に直面するのが初めてだったからだ。

 しかも、まだ二十代前半だったあの頃は、自分でも理屈っぽかったと思っている。

「自殺菌」などという発想も、死に対しての恐怖心を少しでも和らげるという発想から生まれたものだった。それを思うと、武則は自分が死を選ぶことに今日ふぉを感じていたのは間違いない。ただ、その頃には恐怖がどこから来るのか分かっていなかったので、漠然とした恐怖から、いろいろな発想が生まれていたことだろう。

 死を目の前にした人は、その瞬間、

「気が狂ってしまったのではないか」

 という発想がある。

 武則は、きっとそこまで行っていなかったから、自殺することができなかったのではないか。

「思いとどまった」

 といえば聞こえがいいが、究極の死の世界を垣間見ることができなかったから、死ぬことができなかったのかも知れない。

 そう思えば自殺を、「無事?」に遂げることができた人には、死の瞬間、死後の世界を見ることができたのかも知れない。そういう意味では、

「死の世界を見ることができるのは、死を目の前にした人が、死ぬ直前の一瞬で見るものなのかも知れない」

 という思いがあった

 これを考えた時、夢という発想が思い浮かんできた。

「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める直前の一瞬で見るものだ」

 という話を聞いたことがあり、武則はそれをかなりの信憑性を持って感じていた。

 話を聞いた時には、

――そんなバカな――

 と思ったが、その聞いた話がなかなか頭から離れないのを自分でも不思議に思っていた。

 夢を見た時にも、夢を見るということを考えている自分がいて、どこか矛盾を感じさせることから、

――何かのパラドックスではないか――

 と思うようになった。

 パラドックスというのは、「逆説」という意味である。矛盾なことをづべて「パラドックス」で片づけられるとは言えないかも知れないが、矛盾と言われることのほとんどは「パラドックス」として考えてもいいのではないかと思っていた。

 武則はパラドックスの基本は、

「堂々巡りではないか」

 と思うようになっていた。

 特に思うのは、タイムマシンなどの異次元を考えた時、例えば過去にタイムトラベルした時、歴史を変えてしまうとどうなるかという発想に似たものがある。当然歴史は変わってしまい、自分も生まれるかどうか分からない。ということは、自分が過去に戻って歴史を変えるということも矛盾となるはずだ。これが、

「矛盾の堂々巡り」

 である。

 ただ、この場合はどちらに重きを置くかということであるが、堂々巡りを繰り返すことは絶対だとすれば、矛盾をいかに説明するかということであり、矛盾が前提だとすれば、堂々巡りではないことになる。そうなると、説明がつかないことは、前者よりもたくさんあるのではないだろうか。

 その理屈として考えられるのが、

「パラレルワールド」

 という考え方である。

 パラレルワールドは、

「今があって、次の瞬間には無限の可能性がある。さらに次の瞬間には……」

 というもので、一種のネズミ算的に増えていく考え方である。

 そもそも、無限の次に無限が広がっているという考え方もおかしなもので、無限が一番大きなものだという発想を果たしていないように感じられる。それを思うとどこかに堂々巡りが存在し、最後にはつじつまを合わせるようにできているのではないかと思うと、理屈としては成り立つのだが、これを納得するように説明することは困難ではないだろうか?

 ある意味不可能に近いことに思う。それを「パラドックス」という言葉で表しているのではないかと武則は思っていた。

 これは一度自殺を考えたから、思い立った発想であった。学者の偉い先生であれば、これくらいの発想は思いつくのだろうが、彼らは資料があって勉強しているから理解もできるのだろうし、柔軟な頭が理解させるのだろう。しかし、勉強もしておらず、頭が石のように硬い自分に、こんな発想が生まれるなど、明らかに死を意識したことで何かが弾けたのだと言えるのではないだろうか。

 学者が勉強した資料としても、過去の偉人と呼ばれる人が発想したことである。ただ、彼らが当時本当に偉い学者だったのかどうか、疑わしい。ほとんどの人はそうだったのかも知れないが、中には本人が存命中には散々バカにされて、白痴呼ばわりされた人も少なくないだろう。それを後年の学者が彼の発想を裏付ける発想をして、やっと彼の功績が認められることになったということもあったに違いない。

 世の中とはそんなものであり、

「死んで花実が咲くものか」

 とよく言われるが、本当にそうなのか疑問であった。

 武則の息子の武敏は、これと似たような発想を持っていた。

 というよりも、まだ学生であったが、すでにこの世でのことを考えていることが多かった。

 ただこの考え方は、元々の武則の遺伝子の中に組み込まれていて、それが息子である武敏に遺伝したのではないかという発想も成り立つのではないだろうか。

 大学生の彼は、他の大学生のように、

「大学と言うところは、勉強だけではなく、友達をたくさん作って、サークル活動やバイトなどをして、今しかできない楽しみを味わうところだ」

 という発想とは少し違っていた。

「大学云々ではないが、同じ人生を歩むのであれば、自分にしかできない何かであったり、形として自分が作ったものを何か残すことが大切なのではないか」

 と思うようになっていた。

 友達を作るのもいいし、サークル活動も悪くはないが、それよりも一人で何かに勤しむ方がいいと思っていた。

 そのため、彼は芸術的なことを志していた。絵画に文学、そして音楽と、いろいろとやってみた。

 それも、文学であれば、小説などの執筆であったり、音楽であれば錯視や作曲という分野である。

 一番最初に挫折したのは音楽だった。どうにも楽譜というものに馴染むことができず、楽器の演奏も思ったようにできていなかった。しかも、楽器を教えてくれる人がいたのだが、その人は楽器の演奏に一種独特の発想を持っていて、作曲とは縁遠い、演奏に特化した教え方しかできなかった。

 それは作曲を第一目標とする武則には容認できる発想ではなかった。先生とちょっとしたことで仲たがいをし、お互いに言いたいことをぶつけてしまったことで、気まずい雰囲気になってしまった。

 先生の方も元々武敏の教えてもらうという姿勢に疑問を持っていた。

――この人は、真剣に楽器に向き合っているのだろうか?

 と感じていたのだ。

 一度そんな疑念を抱いた相手に対し、武敏のような気持ちを素直に表に出す人間の態度は、次第に相手に対して敵対心を抱かせる結果になっていた。

 武敏はその先生とは結局そのあと一度も心を通じ合わせることができずに、別れてしまうことになった。

――これでよかったんだ――

 と武敏は思ったが、きっとその考えは正解だったのかも知れない。

 武敏はその後、小説の執筆に勤しむことにした。

 小説の執筆というのは、ある意味自由である。文章の最低限な作法というのは存在するが、実際にどのように書こうが、読む人が分かりやすければそれでいい。もっと言えば、読者のことなど考える必要もない。大多数の人が読みやすいと思うのと、大多数の人が酷評をしても、一部に熱血的なファンがいれば、それはそれで優秀作品なのだという発想を武敏は持っていた。

 彼はむしろ後者のような作品を作りたいと思っていた。それは存命中には評価されず、後年に現れた学者が証明してくれて晴れて日の目を見る自分の発想のようなものではないかと思うからだ。

 武敏は自分そのまま小説執筆に没頭した。読書としては、中学時代から高校生の頃まで昔のミステリーを読んでいた。大正末期から戦後すぐくらいまでの小説家の小説である。猟奇の世界であったり、変質的な内容であったりと、今の世界では受け入れられるには時間が掛かりそうな内容であるが、中学時代には読み漁ったものだった。

 五百ページの長編小説を一日で読破したこともあった。それこそ、

「食事もいそんで」

 というほどである。

 ミステリーの中でも猟奇的なものと、本格ミステリーと、一人の作家の対照的な作品を読むことで、自分の中に何かが生まれてくるのを感じた。

 武敏は、

――自分にはミステリーは描けない――

 と思っていた。

 描くとすれば、「奇妙な味」と呼ばれるジャンルの作品で、しいてどうしても既存のジャンルで分けるとすれば、「オカルト」になるのではないかと思っていた。オカルトというのは、都市伝説のような非現実的な話の総称のようなイメージで、ホラーやミステリーや、SFの要素さえあるものだと解釈していたのである。

 武敏は自分で作品を書いて、片っ端から出版社系の新人賞に応募してみた。しかしなかなか難しいもので、一次審査にすら通らない。

「俺には才能がないのかな」

 と落ち込んでもみたが、せっかく始めたことをやめようとは思わなかった。

「今は認められなくとも、そのうちに……」

 と思っていたからだ。

 だが、もう一つ思ったのは、元々小説を書き始めたきっかけだった。

「この世に存在した証を残したいという思いがあったからだ」

 それを思い出すと、人から認められる認められないは関係ない。

「いかに自分の作品を残すかということだ」

 と考えるようになった。

 まず考えたのは、

「質よりも量だ」

 ということだ。

 認められる作品を模索していい作品を書くという努力をするのも一つの姿勢であるが、武敏は自分の姿勢として、まわりがどう感じようが関係ない。あくまでも自分の作品をたくさん残すかということだと考えるようになると、発想がどんどん生まれてくるのを感じた。

――これって、ひょっとすると俺の才能なのかも知れないな――

 と感じた。

 いい作品ばかりを模索していると、一年にどれだけの作品が残せるというのか、二十歳からいくら生きても八十過ぎ、この間一年に一作品と考えれば、百にもいかない。それよりも一年に数作品と考えれば、どんな作家の残した作品よりもたくさんになる。

「どうせ世間に認められないのであれば、量だけでも秀でていればいいんじゃないか」

 と思うようになった。

「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」

 と言われるが。まさにその通りだ。

 ひょっとすると、存命中に誰かの目に留まり、日の目を見ることになるかも知れないと思うと、期待はしていないが、それはそれでいいことだと、まるで他人事のように思ったのだ。

 そんな発想を持ったのは、やはり父親からの遺伝であろうか、それともまったく違う父親への反発であろうか。武敏はハッキリとは分からなかった。

 バブルが弾けて、本当に世の中に未曽有ともいえる不況が襲ってくる。武則のような会社は本当に綱渡りのような状態だった。しかも、貯蓄をしていたものがどうやら役に立たないと分かった時の武則のショックは計り知れないものがあっただろう。

 そういう意味では武敏の、

「自分が生きた証を、どんな形でもいいから残したい」

 という思い、さらには、

「質より量」

 という考え方は遺伝に他ならないだろう。

 だが、そんな武敏を父親は毛嫌いしていた。小説を書いているということも気に食わないようだったし、

「どうせなら、世に知らしめるような作品を作ればいいのによ」

 と、吐き捨てるような言い方しかしない父親を、武敏の方も毛嫌いしていた。

 ちょっとしたことで歯車が狂っているだけなのかも知れないが、一度離れてしまった歯車が噛み合うことは難しいようだ。しかも、お互いにかするようなところで接点がある。その接点をお互いに認めたくないというちょっとした意地が、お互いを許せないに違いない。

 そんな二人を母親は、歯がゆい気持ちで見ていたことだろう。それぞれの本心までは分からないが、ちょっとどちらかが歩み寄れば、元々考え方は似ていると思っているだけに、これほど歯がゆい思いはないというものだった。

 武敏は父親の苦労を分かっているつもりだが、どうすることもできない。その憤りが自分の世界に閉じ込めてしまうのだろうが、武敏は自分の人生を自分でどのように生きてもいいだろうという考えがあることから、歩み寄りに積極的になれない。

 父親にも意地がある。何とかできるだけ自分でできることをするというのが、武則の考えだった。

 そんな武則が行方不明になったのは、会社が二進も三進もいかずになり、自己破産を申し立ててからすぐのことだった。

 妻としても、どこに行ったのか見当がつかない。

 以前に自殺を試みたが自殺しなかったことで、

「まさか、また考えたりはしないでしょうね」

 と思ったが、

「人間何度も死を意識することなんかできない」

 と言っていた夫の言葉を思い起こさせるのだった。

 だが、今回はさすがに自分の会社が倒産し、自分も破産ということになってしまった。息子もいれば自分もいる。そんな簡単に自殺などを想わないと考えていたが、一抹の不安を払しょくすることはできなかった。

「そういえば、あの人、『自殺菌』なんて言葉を口にしていたことがあったわね」

 と静代は息子の武敏に言った。

 武敏は自分の小説の中で、奇しくも「自殺菌」について書いたことがあった。これは偶然であろうか?

 自殺菌なる言葉は母親からはおろか、父親からも聞いたことがなかった。ただ、

――俺が発想できるくらいだから、世の中には自殺菌なるものを信じている人は結構たくさんいるんじゃないかな?

 とも思っていた。

 確かに同じ発想は、一度ミステリーを読んでいる時に出てきたことがあったが、その小説ではただのエッセンスとして描かれているだけで、自殺菌のなんたるかというところまでは言及していなかった。もしその自殺菌という発想が世間一般に出回っていれば、武敏は逆に意識はしなかったに違いない。

――人の垢で汚れたネタを、自分の作品に生かそうなんて思ったりしないさ――

 と考えたからだ。

 だが、自殺菌という考えは頭の中から消えることはなかった。

「誰も描こうとしない作品」

 そんな作品を模索して見るのも面白かった。

 何も人から褒められる作品だけがいい作品ではない。あくまでも自分で納得しないと始まらない。

 つまり武敏としては、

「自己満足できる作品」

 これを目指して小説を書いているのだった。

 武敏はその小説の中で、「自殺菌」を書こうかどうか迷っていた。ただ以前にも書いたことがあり、その内容をあまり覚えていなかったことから、今回は少し違った内容にしようと思った。

 奇妙な味を題材にしていると、どんな話を書こうかというのは、ある程度絞れてくるのだが、今回はふとしたことから聞いた話を思い出したことで、これと自殺についての関係について書いてみることにした。

「親父が行方不明になっているのに、自殺について書くなんて、不謹慎ではないだろうか?」

 とも考えたが、逆に福江不明というだけで死んだかどうか分からないだけに、自殺について考えてみるというのも悪くないことだと思うようになっていた。

 今回の話は、ある医者から聞いた話である。元々医者のような高貴な人に知り合いがいたわけではないが、その人は精神内科の医者だった。しかもその先生は会話も達者で、結構分かりやすく話をしてくれる。

 神経内科の先生と言うと、どうしても理屈っぽくなってしまうのではないかと思っていたが、そんなことはない。出会った場所が同窓会の場所だったというのも気分を和らげるにはよかったかも知れない。

 そういう意味では精神内科の先生と言ってもまだ新人で、いわゆる知識だけは豊富だが、経験が伴っていないという感じで、経験が伴っていないだけに、余計理屈っぽくなりそうだったが、元々が気さくな性格なのだろう。話をしていると、まわりに女の子も寄ってきて、そのおかげか、話も半分面白おかしく聞けたものだった。

 その時の話として聞いたものが、

「カプグラ症候群」

 というものだった。

「カプグラ症候群? 何それ?」

 と、女の子は茶化すような感じで言った。

 適当にアルコールも入っているので、女の子も饒舌で、少しホラー的な話をしても、聞いている女の子は酔いに任せて、さほど怖がっている様子はない。それよりも話を興味津々で聞いていると言った方がいいだろう。

 先生は続けた。

「カプグラ症候群というのは、一種の被害妄想のようなものだって言ってもいい。例えば自分の肉親だったり、親密な人が誰のまわりにだっているだろう?」

「ええ」

 話し手の声のトーンに合わせて、相槌を打つ女の子の声のトーンも少し低めだった。

「その人たちのことを普通の人はまったく疑うことなく過ごしているんだけど、急に自分のまわりにいる親近者が、本当は偽物で、自分の知らない間に入れ替わっているんじゃないかっていう疑念を抱くことがあるんだ。それをカプグラ症候群っていうんだけどね」

 と先生が言うと、誰もすぐには相槌を打つ人はいなかった。

 武敏もその話を聞いて、

――まるでドラマ化小説のような話だ――

 と感じた。

 誰もがすぐに返事をしなかったのは、話を聞いて、話の内容は何となく分かるし理解もできるのだが、

――本当にそんなことがあるのか?

 という疑念が頭に浮かぶから、すぐに返事ができなかったに違いない。

「そんな恐ろしいこと」

 少ししてから、一人の女の子がそう呟くと、それに皆同調したのか、さらに雰囲気が暗くなっていた。その場が凍り付いてしまったと言ってもいいくらいだが、それはきっと皆がそれぞれに自分がそうなってしまったら、どうしようという意識があったからに違いない。

「今から九十年くらい前に発見された症候群で、発見者の名前を取ってこの名前になったんですよ。でも、症例も結構あるようで、自分も真正の患者を見たことはないのですが、それに近い状況の人は見たことがあります。この症状を知らない人はその人の気が触れてしまったと思うんじゃないでしょうか?」

「確かにそうですよね。普通では考えられない状況ですよね」

 と女の子の一人がそういったが、

「でも、ドラマや映画では、似たような話をテーマにしたものもありますよね。特に特撮なんかでは、子供の頃に見たことがあるような気がします」

 と、武敏は言った。

 そう、あれは特撮の戦隊ものだっただろうか、それともアニメでだっただろうか、世界征服を目論む「悪の結社」が世の中に人間の形に似せた人を送りこんできた話だったんだけど、そのうちにその人たちが、自分のまわりの人と入れ替わるという話だったように思う。正直子供心に怖いと思ったのを覚えているし、気持ち悪かったという印象も強かった。映像のおかげで、本当の恐怖心を味合わずに済んだともいえる。やはり子供番組なだけに、本当の恐怖までは表現できないのだろう。

 それを思い出すと、ゾッとしてしまい、前に考えた自殺菌の発想よりも、さらに恐怖を感じた。

――いや、自殺菌の発想があるから、余計にカプグラ症候群の話に信憑性を感じているのかも知れない――

 武敏は、カプグラ症候群の話を聞いて、それを自分の小説に組み込もうと考えた。話はホラーであるが、ファンタジー系を取り入れる形で、ドロドロした感覚を少しでも打和らげられればと思った。もっとも、誰かに読ませるために書くものではなく、自己満足でもいいと思っているだけに気は楽だった。

 小説は書くだけ書いて、後はアップするだけ、推敲もほとんどすることはないので、一度書き終えてしまうと、すぐに次の作品の構想に入る。

 そして、構想もカチッとしたものができていなくても、プロットと言えるほどのものがなくても、アイデアとコンセプトさえあれば書くことができる。「起承転結」などの段落は書いているうちにできてくるものだと思っているからだ。

 武敏は、カプグラ症候群の話をある程度まで書いてくると、話が勝手に頭の中で組みあがってくるのを感じた。

――こんなこと、今までになかったのに――

 と思う。

 まるで見えない何かに操られているかのような発想があり、書き終えた時に感じる満足感まで、想像できるほどだった。

 ただ、書き終えた作品は、本当に自分が望んだような作品とは少し違っているような気がする。しかし、知り合いに見せたところ、

「これは面白い」

 と言ってくれた。

 まだ完成はしておらず、「転」のあたりまで書いたところで見てもらった結果だったのだが、なぜ人に見せようと思ったのかも、自分で思い返してその時の心境を図り知ることはできなかった。

 まもなく小説を書き終えようとした時のことだった。

「武敏、お父さんが見つかったって」

 と言われた。

 どうやら、警察から母親に電話が入ったようで、

「どこにいたんだい?」

 と聞くと、どうやら、珠海を彷徨っていたところを発見されたようだ。

「極度に興奮していて病院に収容されたんだけど、自分のこともよく分かっていないようなんだけど、どうも、家族やまわりの人間が皆化け物に見えるって言ってるらしいの」

 武敏は腰が抜けそうになった。

――これって、完全にカプグラ症候群じゃないか――

 と思ったが、武敏は自分の小説で最後はカプグラ症候群に掛かった人が行方不明になって、発見されるところで終わるというものを描いていた。

 完全に中途半端な内容であるが、それがこの作品のホラー的な部分であり、ファンタジーっぽくしてしまったことへの自分なりの辻褄合わせだった。

 それが功を奏したのか、父が見つかったという。しかし、父親の掛かったカプグラ症候群がどの程度のものか、話を聞いているだけでは分からない。自分たちを見て、怯えの境地に陥ることで立ち直れなくなるかも知れない。

 武敏は父が自殺を試みたと思っていたが、それが本当に自殺だったのか疑問に思う。

――自殺菌とカプグラ症候群、この関連性は永遠の謎かも知れないな――

 そう思うと、自分の書いた小説をアップする気には、どうしてもなれなかったのだ……。


                  (  完  )

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自殺と症候群 森本 晃次 @kakku

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