第3話 夢遊病
たった一日だけの入院だったが、武則にとってはそれで済まされなかった。自分が交通事故に遭い、交通事故を目撃した時のイメージを思い出したりなどしたからであろうか、その晩の武則は明らかにおかしかった。
それに気づいたのは、看護師の一人、真崎という女性看護師だった。彼女はその日当直で、当直での見回りはいつも二人でやっているが、夜中の定時の見回りは、相手によってやり方が違っていた。
彼女はまだ入ってから二年目ということで新人の部類だった。そのため、一緒に当直に入る人は皆先輩で、先輩には先輩のやり方があるようだった。
基本的に共通しているのは、一日に何度かある見回りを、二つのエリヤに分けるところまでで、その分けた地域を誰が回るかということが人によって違っている。と言っても二種類しかないのだが、それは一人の人がいつも同じエリアを担当するというものだが、もう一つのパターンは時間帯によって、それを入れ替えるというものだった。
本当であれば、自分が担当の患者がいるところを巡るのが一番いいのだろうが、相手が一定しているわけではないので、隣の病室がペアになった人の受け持ちかも分からないので、一律に同じところばかりだとしても、それはあまり意味がないようだった。
ただ、その日一緒にペアになった先輩は、同じところを一日その人が担当するというやり方をする人だったので、真崎看護師もそのやり方に異議を唱えるつもりはなかった。
「じゃあ、今日は真崎さんがA領域ね」
と言って、見回り地域はすぐに決まった。
分けられる範囲は全員の間で共通していて、皆の不公平のないように決められていた。この病院は大病院というわけでもないので、看護師二人が当直でも、見回りにそれほど時間が掛からなかった。実は当直にはもう一人いて、もう一人というのは、ナースステーションにずっといる人で、その人がいないと、ナースコールが分からないからだったのだ。
真崎が担当しているA領域に、武則は入院していた。時刻は午後十時、普通に生活をしていれば、まだ宵の口と言ってもいいくらいの時間だったが、入院病棟は真夜中と化している。午後九時には消灯となるので、早く値付ける人にとっては、すでに真夜中だった。
入院を余儀なくされた連中の中にはまだまだ元気な人もいる。武則も初めての入院だったので、
「午後九時なんかに眠れるわけはない」
と思っていたが、実際に寝付いてしまうと、これが不思議なもので、思ったよりも眠れるものだった。幸いにも手術を受けているにも関わらず、身体に痛みは残っていなかった。事故に遭ってから数時間しか経っていないのに、自分ではいろいろなことがあったと感じているので、事故に遭ったということ自体がまるで夢のようだった。
そのわりに痛みを感じないことから、気疲れだけはあったようだ。それが横になると睡魔が襲ってきたという理由なのかも知れない。
さらにまわりは結構皆すんなりと眠りに就いていた。眠れない人もいるようだったが、気持ちよさそうに寝息を立てているのを聞くと、自分も睡魔が襲ってきていることを意識したとしても、それは無理もないことだった。
眠れない人が寝返っているのか、布団のガサガサという音が聞こえる。それが逆に武則の睡魔を誘う原因の一つになったのだから、何が幸いするか分からないものである。
武則はすぐに眠ってしまったようだ。
午後十時に病室を見回っていた真崎看護師にも、武則が気持ちよさそうに寝息を立てているのを見て、安心した。元々念のための入院だということは分かっていたが、事故に遭ってからするには何も異常のなかった人が、急に痛みを訴えるということも少なくはないと思っていたからだ。
――それにしても、気持ちよさそうな寝顔――
自分は看護師とはいえ、ずっと朝から勤務を続けてきて、夜中まで患者を見なければいけないということで、気持ちよさそうな寝息を立てている患者を見ると羨ましく感じてしまう。
――いいなぁーー
とは思ったが、看護師は自分が目指した仕事でもあるし、お給料ももらっているという意識があるので、羨ましくは思ったが、それだけのことだった。
その日の入院患者は、思っていたよりも皆静かだったような気がした。真崎看護師が見回りを担当する日は、もう少し賑やかだったと思う。眠れない患者同士が一人のベッドのところでヒソヒソ話をしていたり、入院患者の中には、見回りの看護師に簡単な悪戯を企む人もいた。
もちろん、脅かすようなことはしない。シーンと静まり返った病室で、悲鳴のようなものを挙げられれば、間違いなく悪戯をした人にロクなことはない。看護師からの顰蹙だけではなく、他の入院患者からも白い目で見られることが分かっていたからだ。
孤独な入院生活では、同室の仲間とのコミュニケーションは大切だ。嫌われてしまっては元も子もない。
その日は、武則の病室は、皆が寝静まっていて、起きている人はいなかった。午後十時の見回りも、この病室をほとんど意識することもなく、あっという間に見回った真崎看護師は、自分で午後十時に見回ったということすら記憶にないほど、平和だったのだ。
次の見回りは、午後一時だった。
その頃になると、今度は病室には少し変化が見られた。入った瞬間、いきなり何を感じたのかというと、
――何ていびきなんだ――
というものだった。
病室のメンツに関してはよく分かっているだけに、どの人のいびきなのか、大体の想像はついた。
「久保さんのいびきね」
と分かっていたので、さっそく久保と呼ばれた患者のベッドを最初に確認すると、果たしてそのいびきの主はやはりその久保であった。
――相変わらずすごいんだから、私がこの部屋に入院していたら、きっと耳栓をしていないと眠れないレベルね――
と感じたが、同じことを想っている同室の人もいただろう。
実際に耳栓をして眠りに就いている患者もいて、用意の良さというべきか、それともそこまで追い詰められているというべきか、他人事とはいえ、いびきの酷さはかなりのものであることは察しがついた。
それなのに、隣に入院している武則は、
「そんなことはまったく関係ない」
と言わんばかりに、気持ちよさそうに寝ている。
その姿は先ほど午後十時に見回った時と同じで、見ていてまたしても、睡魔に襲われそうに思えた真崎看護師は、その光景を見て、まるでデジャブに襲われたような感じがしていた。
――これ、さっきもまったくおんなじことを感じたのよね――
と思い、気持ちよさそうに眠っている武則を覗き込んだ。
すると、よほど深い眠りに就いているのか、武則はまったく意識がないように見えた。
「あれ?」
その時、真崎看護師は目の前で眠っている武則を見て、
「この人、本当に生きているの?」
と、思わず声に出して言ってみた。
顔を近づけてみるが、相手はまったく気づこうとはしない。
点滴を打っている手を触ってみると、普通に体温も感じるし、脈も感じられた。だが、顔を見ていると、次第に最初に感じた
「気持ちよさそうな寝顔」
という感覚がなくなってきた。
ずっと見ていたのだから、表情が変わったのであれば感じるというものだが、表情が変わってきたという印象はなかった。まったく表情が変わっているわけでもないのに、最初とその表情から受け取る感覚が違っているのだ。
それを思うと、真崎看護師は背筋に寒いものを覚えて、自分がどうかしてしまったのではないかという錯覚に陥っていた。
武則の表情は明らかな無表情であった。笑顔でもなければ、苦痛でもない。喜怒哀楽はまったく感じられず、
「死んだように眠っている」
という表現がピッタリではないかと思えた。
まだ病院に勤めてから二年しか経っていない真崎看護師だったが、今までに患者の死というものに何度か向き合ってきた。
この病院が死亡率が高いというわけではなく、入院患者に結構な高齢者が多いというのがその理由でもある。一つは今でこそそこそこの大きな病院になっているが、昔はこのあたりに一つしかなかった貴重な総合病院で、そこの院長が今の院長の先々代にあたる。昔からの患者が、
「入院するならこの病院」
ということで入院してくることが多かった。
そういう意味で、この病院で息を引き取る患者も多かったが、そのほとんどは、自分から望んだもので、患者の家族も、
「最後を看取っていただいて、ありがとうございました」
というセリフで、先生や看護師の労をねぎらってくれるのがありがたかった。
それでも人の死ということには変わりはなく、少しの間は気が滅入ってしまうが、毎日の忙しさを一日でも味わうと、またしても真剣モードに戻ってしまう。それは仕方のないことであり、それでいいともいえるだろう。
真崎看護師が勤める、そして武則が入院した病院というのは、そういう病院だった。
真崎看護師は、この二年間で感じたことのない不気味な感覚を、その時に感じていた。もう一人の看護師か、ナースセンターにつめている看護師にこのことを話そうか迷った。しかし、れっきとした何かがあるのであれば当然報告の儀実が発生するだろうが、根拠も信憑性もないことで緊張を必要とする入院患者を抱えた夜勤を引っ掻き回すことは許されない気がした。
もし、自分が相手の立場で、新人の看護師から余計なことを言われ、それがただの勘違いであったとすれば、いい加減にしてほしいと思うだろう。悪い冗談も言っていい時と悪い時がある。明らかに今は悪い時であり、緊張感を破ってしまい、ペースを崩してしまうと、本当に緊急事態に陥った時、冷静に行動できるかどうか分からなくなってしまうから
だ。
真崎看護師は、少し冷静になってみると、
――これは私のただの思い過ごしだ――
と思うようになった。
冷静になっていない時に確認した症状に悪いところはなかった。ただ表情だけが自分の中で納得のいかなかったというだけのことで、冷静になれば、
「なあんだ」
ということを感じて、それで疑惑は終わりになってしまうのだ。
その証拠に、その後三回あった起床時間までの見回りの間に、武則の様子が変わっていたわけではなかった。
もし、少しでもおかしかったら、きっと彼の身体を揺するようにして、
「荻原さん」
と声を掛けるか何かして、起こそうとしたからである。
――そこまではいくら何でも――
という意識があったことから、勘違いだったのは明らかな気がした。
もし、起こさなかったとしても、どうしようかと考えた時点で、
――もし起こさずにそのままにして、取り返しのつかないことが起こってしまったらどうしよう――
と、悩むはずだからである。
あれから三回も見回りの機会があり、一度もそう感じなかったということは、やはり勘違いだったと思うのが妥当ではないだろうか。
無事に朝を迎えて、患者も起床してきた。その中に普通に皆に朝の挨拶をしている武則を見たことで、
「よかった」
と安心した気分になった真崎看護師は、身体中から力が抜けてくるのを感じた。
「おはようございます」
と、真崎看護師が笑顔で武則に挨拶をしたが、
「おはようございます」
と言って挨拶を返してくれた派いいが、その表情は何か驚きのようなものが潜んでいるように感じられた。
――どうしてかしら?
昨日、彼に対して変な気持ちを持ったことで、自分が彼を見る目に対して、彼の方で違和感を感じたのではないかと思ったのだ。
だが、武則が真崎看護師をじっと見たのはその時が最後で、そのまま振り返ることもなく病室に戻った。真崎看護師も一瞬不思議な感覚に見舞われたが、それ以上は何も感じなかった。その日はそのまま明けになり、真崎看護師は家に帰ったのだが、次の勤務が二日後の日勤だったので、
――もうあの患者さんと会うことはないかも知れないわね――
と感じたが、二日後に出勤してみると、まだ武則は入院していた。
「あれ? あの患者さん、一日だけの念のための入院じゃなかったの?」
と他の看護師に耳打ちすると、
「そうだったんだけど、延期になったみたいよ、その原因については私も詳しくは分からないんだけどね。どうやら、交通事故の後遺症のようなものかどうか分からないけど、少しあるって話なのよ」
と言われた。
真崎看護師は少し不気味な感覚があったが、それがどこから来るものなのか、分からなかった。入院の見回りの時に感じた感覚を忘れてしまっているようだった。
その後遺症の件だが、少ししてから真崎看護師にもその情報が伝わった。どうやらあの冠者は、「夢遊病」の気があるというのだ。それを交通事故の後遺症によるものとするのか、それとも実際に既往性があり、たまたま今まで誰にも気づかれなかっただけだというのか、そのあたりも含めて調査するとのことだった。幸い、この病院には脳神経かあるので、調査もそちらで行うとのこと、真崎看護師としては脳神経に関してはまったくの素人なのでよく分からなかったが、その調査結果が出るまでの入院ということだった。
――でも、既往性って、本当に既往性があったとすれば、今まで誰にも発見されなかったというのはどういうことなのかしら?
と感じた。
既往性があるということは、常習性があったということなのか、それとも、何かの状況になれば、っ夢遊病を起こすということなのか、後者であれば、それは能神経に関係した何かであろうが、脳神経でどのような調査が行われるというのか興味があった。
彼女が最初に考えたのは、
「催眠療法」
であり、眠っている間に潜在意識を引き出すというものだが、夢遊病という症状には持って来いではないか。真崎看護師も夢遊病というのがどのようなものかよくは分かっていないが、少なくとも潜在意識が関係しているということくらいは想像がつく。そもそも夢というものが、潜在意識のなせる業だということを分かっているからだった。
武則の夢遊病の症状は単純なもののようだった。いつも同じ時間に、同じ場所に赴く。それを皆は、
「何か一つ気になることがあって、それを探しに行っているんじゃないかしら?」
というものだった。
真崎看護師もその意見には賛成だったが、検査結果が出るとその意見は崩れてしまった。何と、検査結果では脳内に異変は何も見られないということだったのだ。
ということは原因は他にあるというのか、真崎看護師だけではなく、彼に関わった人皆が何かモヤモヤした気分になっていた。ただそれは武則本人にとってもそうだったし、家族も同じ思いだった。
別に異常はないということで武則は退院した。そして、それから夢遊病という症状はまったく起こることがなく、
「あの時だけ、どうかしていたのよ」
という結論を見出すしかない状況だった。
武則もまるでキツネにつままれたような気分になったが、夢遊病を起こしたということは事実なだけに、簡単に頭の中から離れるということはなかった。
武則が夢遊病を起こした時に、医者から、
「何か夢を見ましたか?」
と聞かれた時、
「見たような気がするんですが、思い出せないんです」
と答えた。
それは本心だった。夢というものは、目が覚めるにしたがって忘れていくものなので、医者も武則も、覚えていないということに言及することはなかった。確かに武則は医者に聞かれた時は覚えていなかったのだし、医者の考えとしても、その時に見た夢というのが夢遊病に至る原因としてどこまで大きなものか疑問だったのだろう。
武則は医者に聞かれた時は確かに夢の内容を覚えていなかった。だが、検査結果が翌日には出て、すぐに退院ということになったのだが、その日の夢、つまり、夢遊病を起こしたとされる次の日に見た夢の内容は覚えていたのだ。
次の日に見た夢というのは、実に怖い夢だった。夢の中に、「もう一人の自分」が出てきたのだ。別に何をするというわけでもなく、自分をじっと見つめている。そして、その時の自分は誰もいない真っ暗な仲を徘徊していたのだ。
――まるで夢遊病じゃないか――
と思ったところで目が覚めた。
目が覚めるとまわりには誰もいなかった。額からはかなりの汗を掻いていて、すぐに手ぬぐいで額を拭った。しばらくして看護師が入ってきたが、その時には精神的に落ち着いていて、武則が怖い夢を見たということを悟られることもなかった。
武則はその日に見た夢を目が覚めても忘れなかった。
「もう一人の自分が出てくる夢」
それが今までに見た夢の中でも覚えているもので一番怖いものだった。
今までにも何度かあった、
「もう一人の自分が出てくるという夢」
武則が見た夢を覚えている時というのは、そのほとんど、いやすべてと言ってもいいだろうが、怖い夢だったのだ。その中でも一番怖い夢が、
「もう一人の自分」
が出てくる夢だったのだ。
その夢を思い出すと、今度は、その時に見た夢を、ごく最近見たのを思い出してきた。そが思い出そうとして思い出せなかった時だと気付くと、いわゆる夢遊病だと言われたあの日に見た夢であるということに気付いたのだ。
――怖い夢だったにも関わらず、思い出せないこともあるんだ――
と感じた。
覚えている夢のほとんどすべてが怖い夢だったというのはほぼ間違いにないことだ。しかし、怖い夢を見た時の夢を確実に覚えているのかと聞かれると、それは証明のしようがない。なぜなら、
「覚えていないものがどんな夢だったのか分からない」
という当たり前のことだからだ。
そんな当たり前のことをいまさらながらに考えてみる。もちろん、当たり前だと思っていたことだけに、考えるということをしなかったのも当然といえば当然だ。それを思うと、
「世の中で当たり前だと思われていることを再考してみるのも大切なことなのかも知れない」
と感じた。
武則にとって、今回の夢遊病が何か自分の人生に大きな影を落とすのではないかと怯えるようになっていた……。
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