「イーヴァ!」

 アディソンは母親の寝室の扉を開け放たつと、大きな声でイーヴァを呼んだ。


 しかし、何の返答もない。いつものイーヴァならばきっと、「おかえりなさい、愛しい人」と小川のせせらぎのような、人のこころを落ち着かせる優しい声で話しかけてくれるはずだ。


「イーヴァ?どうしたの、イーヴァ。」

 

 矢張り声が返ってこない。アディソンは嫌な胸騒ぎをこころに抱きながら、寝室に怖怖と足を踏み入れた。灯りのともされていない寝室は嫌に暗く、何も見えない。記憶を頼りに、母親のドレッサーのある辺り――そこに魔法の鏡は置かれていたのだ――まで慎重に足を進めた。


「え……。鏡がない。」

 あるはずのアンティークの姿見が其処にはなかった。魔法の鏡。あれがなければイーヴァと話ができないというのに。アディソンは頭がまっしろになった。


 ――鏡。

 ――何処にいったの、魔法の鏡!


 アディソンは手当たり次第に物を引っくり返した。寝台ベッドに被せられたリネンを引き剥がし、下に収納された洋服棚を引き摺り出した。クローゼットに吊られた母親の洋服を全て外へ放り、一心不乱にイーヴァを探した。


「こら、何をしているの。アディソン!」

 ネグリジェを着た母親が声を上げた。物音がして、何事かと様子を見に来たのかもしれない。まだ母親の寝る時間ではない。アディソンは鬼の形相で母親へ詰め寄り、声を張った。


「マム、魔法の鏡を何処へやったの!?」

 

「魔法の鏡ですって?」

 

「そうよ。ここにおいてあったでしょう。」

 

「あの鏡だったら庭よ。明日ゴミに出すつもりで……。」


 ――庭ですって?

 

 イーヴァを穢らわしい土の上に寝かせるだなんて。地を這う蟲や汚染物質を含んだ雨を、あのイーヴァの躯に近寄らせるつもりか。醜い女のやることは卑劣極まりない。アディソンは母親を突き飛ばし、庭へと走った。


 母親の育てている薔薇と花壇の傍に、魔法の鏡は横たえられていた。上から粗末な布を掛けられている。アディソンは其の布を取り去った。少し湿り気を帯びた、木彫りの鏡が顔を覗かせた。


「イーヴァ!」

 

「アディソン!」


 変わらず美しい女が涙を浮かべ、名前を呼んだ。少しひび割れ、土埃のついた鏡面ですら綺羅々と輝いて見える程に彼女の微笑った顔は眩しく、愛おしい。


「アディソン、ずっと待っていたのよ。」

 

「ごめんよ、イーヴァ。わたしが悪かったわ!」


 二人はおいおいと泣いた。イーヴァの流す涙は真珠のようで、儚く、美しかった。アディソンはそっと、鏡に映る彼女に口付けた。



          ✙



「愛しているわ、イーヴァ。」


「それはわたしもよ、アディソン。」


 麗らかな朝陽を浴びて、楽しげに愛を囁く娘。朝起きて一番はじめに見る奇っ怪な光景。


 エイブリーはクロワッサンを焼き、ポーチドエッグを作り、ミルクティーを淹れながら、溜め息を付いた。娘のアディソンの様子が日に日に酷くなっていく。


 幸せそうに、鏡と向き合うアディソンの姿。一頃は、自分の姿が少しでも移されると発狂していたのに、今では晴やかな笑顔を浮かべている。それだけならば構わないのだ。だがしかし――。其の気味悪さに耐えきれず、エイブリーはフォスター氏に電話をした。


「はい、エイブリー。どうしたのかな、こんな朝早くから。」

 

「フォスター先生。娘の、娘のアディソンの様子が可怪しいのです。」

 

 昨夜、突然暴れ出し、部屋に閉じこもってしまった。鏡が置いてあるのを見つけて怒り狂ったのかと思い、頻りに「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って、娘に赦しを乞うたのだが、娘は錯乱して母親であるエイブリーを部屋の外へ追い出した。


 少し時間を置けば落ち着くであろうと思い、そっとしておいたのだが、今度はエイブリーの寝室の中で暴れ、散らかしていた。何度も何度も「鏡はどこ?」、「イーヴァはどこ?」と叫んで。あんなにも鏡を嫌っていたのに。


「あの子、鏡に名前を付けているんです。」

 

「ふむ。人形に名前を付けるように、気に入りのものに愛称を付けることもあるでしょう。」

 

「いいえ、いいえ。違うんです。」

 娘は「イーヴァ」と名付けた鏡をうっとりと眺め、あろうことか、口づけまでするのです。


 もともと、で、思い込みも激しい子どもだった。だから、ある程度のは片目を瞑っていた。


「わたしがあんなにも不細工に生んでしまったからなのでしょうか。きっとわたしが悪いのよ!」

 エイブリーはしくしくと涙を流した。

 

 アディソンは男のような見目の自分を酷く嫌っていた。アディソンは両親の悪いところばかりを引き継いでしまった。

 

「いいえ、奥さま。奥さまは悪くありません。ひとはみな、望んだ姿で生まれてくるわけではありません。神が望まれた姿をするのですよ。」

 

 牧師のように穏やかに諭すフォスター氏の声に、エイブリーは堰を切ったように咽び泣いた。

 

「それにきっと、アディソンは鏡に名前をつけて逃避しているわけではありません。」

 

 フォスター氏は続ける。

 

「アディソンはきっと、鏡に映った自分を愛しているのですよ。彼女は自分嫌いを克服したのです!」

 

 エイブリーの視線の先には、鏡に映った、鼻ぺちゃで頬骨の出た顔のアディソンに、アディソンが微笑みかけ愛を語らっていた。

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プラシーボの悪魔はひそやかに。 花野井あす @asu_hana

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