第七章 失うもの
数週間か、数か月、あるいは数年が経った。新しく現代を代表すると言われた音楽家は今も曲を世に放ち続けていた。決して衰えることのないその人気に、多くの人間が魅了された。世間は知らなかった。男が見た景色を。世界でたった1人しか知らないその景色を。そして、今となっては永遠に空になったその玉座に座ったものがどうなってしまうのかすら、世間が知ることはなかった。存在しない絶対的な目標は、これからも世界を照らし続ける。全ての人に希望を与え続ける。男ただ一人を除いて。
都内某所。周りの住宅街には似つかわしくないところどころ古びた小さな一軒家。その男は美しくもどこか不気味さのあるその家を前に、帰ろうかと悩んでいた。右手に持った手紙をもう一度見て、自分の中で繰り返しても仕方がない問いを巡らせる。手紙の差出人は知らない女性の名前だった。普通なら得体の知れない手紙など間違いかなにかだろうと思って処分する。だがその時男は何故かそうしなかった。一つの希望があったから。数ヶ月前、何も言わず突然姿を消した友人。もしかしたらと手紙を開けると、中身は期待した通りだった。あるかないかも分からない小さな希望だったからこそ、男はむしろ気味悪さを感じたのだ。手紙とその家を交互に見て、うんと唸る。静かに考え事をしていると、周りの音がやけに大きく聞こえるもので、その瞬間。男は家から小さなピアノの音が聞こえてくることに気がついた。聞き覚えがあった。一気に鼓動が早くなる。間違いない。ここにいる。嘘じゃなかった。男は考えるよりも先に震える手でインターホンを鳴らした。ノイズがかった少し大きめの音がピアノの音を邪魔する。ピアノは止まることはなかった。聞こえていないのかと思って、男がもう一度インターホンを鳴らそうとしたその時、家のドアが開いて一人の女性が現れた。
「お待ちしておりました。中へ」
知らない女だった。互いに名乗ってもいないのに、男は何故かその女が手紙の差出人で、彼が雇った家政婦かなにかだろうと直感で理解した。言われるがまま家の中に入り、女の後を追う。ピアノの音が大きくなる。同時に自分の鼓動音も大きくなって、狂ったふたつの拍子に男は頭がおかしくなりそうだった。女は少し歩いてから他より少し大きな扉の前で止まった。ピアノの音は確かにその部屋から聞こえていた。そして、ノックもせず、まるで自分の部屋かのように扉を開けた。グランドピアノが見えて、同時にそこに座っている男が目に入った。そこに座っていたのは、目と耳を失い、誰も知らない曲を静かに奏でている一人の男だった。
凡人 天野和希 @KazuAma05
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