第六章 かわるもの
「お、つながった。もしもし、今日飲み行かん?」
ズボンの後ろ側のポケットに入れたスマホが鳴って、男は立ち止まり電話に出た。薄暮の中、高くそびえるビル群は屋外ビジョンで鮮やかに飾られていたがそれはどこか不気味で、誘蛾灯のように同じような服を着た烏合の衆を集めていた。人混みの中突然足を止めた男に、すぐ後ろを歩いていたサラリーマンらしき男が舌打ちをする。男は朝起きてそのまま家を出てきたのかと思うほど軽装で、いま手に持っているスマホと、左のポケットに入ったイヤホン以外特に何も持たず、目的すらも持たずにただそこにいた。電話の向こうで友人Aがもう一度もしもしと言って、男はやっと口を開いた。
「あぁ、ごめん。いいよ。ちょうどぼくも飲みに行きたかった。どこにしようか」
「そういや聞いたぞ、新曲。まただいぶ方向性変えたな。お前がつくった曲じゃないみたいだ」
少しアルコールが入って饒舌になってきたところで、友人Aが男に向かって、箸できゅうりをつつきながら言った。
「ぼくじゃない」
「え?」
「その曲。多分、僕じゃない」
「たぶん? どういうことだよ」
男が相当おかしなことを言っているのは傍から見ても確かだった。しかし友人Aは特に驚いた素振りも見せなかった。慣れていた。男は音楽のこととなると時々おかしな言動を見せる。今回のも、それに準じたものだろうと思ったのだ。
「音楽、やめたんだ。作れなくなった。その曲は、きっと事務所がたてたゴーストライターだ。引っ越しもしたし、仕事用のスマホも捨てた。あいつら、僕を探せなくて、世間にバレるのも惜しかったから他の音楽家に作らせたんだよ」
口をはさんでこようとする友人を気にも留めず、男はただ淡々と事実を連ねた。
「さっき、渋谷で流れてるのを聞いた。僕が新曲を出したってさ。馬鹿みたいだよな。みんな足を止めて。ほんとに、馬鹿みたいだ」
そこまで言って、男は手に持っていた酒を飲み干した。友人は男の表情から感情を読み取るのに苦労していた。まるで機械のような、起こっていることは、男のセリフは、全ては悲しげであるべきなのに、男の表情からは何も感じ取れなかった。
「……そうか。何があったか、俺は知らないけど。まぁ、色々あったんだな」
「あぁ、そうだな。色々あった」
「大丈夫なのか」
「楽だよ、今は。大丈夫だ」
「そうか」
男がつくったはずの曲は、リリースと同時に日本中を取り囲んだ。テレビを見ていても、YouTubeを見ていても、街を歩いていても、何もしてなくても、男の音楽は流れていた。多くの人の頭に残った。名前を聞かない日は無かった。彼らは、気付かなかった。男はいつかの同業者を思い出した。それから、彼を妬んだ。彼はきっと、自分のように音楽がつくれなくなることはないだろうから。男には、それが心底羨ましかった。殺してでも奪ってしまいたいくらいに。もう何もないのだから。一つくらい、奪ってもいいだろ。そんな考えが浮かぶ自分のことを男は嘲笑った。
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