第五章 孤独

「聞きましたか。君が憧れだって言ってた彼ら、引退するらしいですよ」

 その時は突然訪れた。とある仕事で事務所に足を運んでいた時、打ち合わせの休憩中にマネージャーから何の前触れも無く告げられたのだ。男は一瞬、何のことか分からなかった。別に憧れの彼らを忘れたわけじゃない。むしろずっと追ってきた。目標にしていた。忘れるわけが無い。ただ、そうじゃない。がむしゃらに音楽をする中で、ずっと足元を見て登り続けてきたせいで、いつしか彼らは妄想の類になっていた。はるか上の方に見える彼らを直視はせず、男は自分の中にを作っていたのだった。だから、彼らの現状を、真に目指すべき彼らの姿をすぐに受け入れることができなかった。

「おーい、聞いてます? あれ、そんなショックでした?」

 マネージャーが男の顔をのぞき込むようにして、男はようやく我に返った。

「あ……、すみません。ちょっと衝撃的で……」

「まぁなかなか急でしたからねぇ。あ、ちなみにこれまだはっきり公表はしてないんで、これで」

 マネージャーは少しバツが悪そうに人差し指を立てて自分の口に当てた。そう言えば、この男は大手音楽事務所のマネージャーのくせして口が軽い。よくこんなやつで成り立ってるな、と男は呆れ気味に思った。憧れの彼らが引退をすることは確かに男にとってショックであった。だがそれはどこか他人行儀で、特別大きな感情を持っているかと言われるとそうではなかった。普通のファンと同じくらい、普通に悲しんだ。男は憧れの彼らと関わることを分かりやすく拒んでいた。特別な感情を持たなかったのはそれが原因の一つとして大きい。仕事が来ても、その延長線上で裏の繋がりができそうでも、男はアンテナを高く張って警戒した。改めて理由を聞かれると難しい。だが強いて言うならひとつ。邪魔をしたくなかったのだ。男は彼らの創作に、自分が入ることを拒絶した。きっと、それ故の行動だった。

 男が彼らの引退を知ってから数週間が経った。代わり映えのしない毎日。男はいつも通りひたすらに音楽を作っていた。ギター一本持って机に座って、思いついたフレーズをただひたすら弾いて歌う。思いつかなくても手を止めずに。時々数少ない友人の一人、中学生の時からの腐れ縁の友人Aから連絡が来て、たまに遊びに行く。その繰り返しだった。ある日、いつも通りスマホでネットニュースを見ていた時。エンタメ欄のトップにあったニュースが男の目に止まった。

「今を代表する音楽ユニット、人気絶頂の中引退へ」

 少し前マネージャーが言っていたことを思い出した。何度かその文字列を目でなぞって、時間をおいて飲み込む。

「そうか」

 誰もいない部屋で、男はただ一言ぽつりと呟いた。換気扇の音が嫌に大きく聞こえて、男はなぜか突然果てしなく広い空に一人で放り投げだされた感覚に襲われた。


 暗い部屋で、男はただ座っていた。隣に置かれた黒いギターが月明かりを反射させている。男が座る前に置かれたパソコンは長時間放置されたせいかひとりでにスリープモードになって、モニターは青い画面に白抜き文字で「No Signal」と表示させている。男の顔にその青い光が写って、どこか不気味だった。思い立ったようにすくっと立ち上がり、男は部屋の電気をつけた。パッと部屋が明るくなって男を照らす。また椅子に座って、おもむろに携帯を手に取った。何個か操作を繰り返して、特に迷う様子もなく発信ボタンを押す。

「あもしもし? お疲れ様ですー。どうされましたこんな時間に。あ、もしかして出来ました? 例のプロモーション曲。やだなぁわざわざ電話じゃなくてメールでいいのに。……あれ、もしもし? 聞こえてます?」

「……」

「おーい、いたずらすか? 趣味悪いですよまったく」

「……いや、違いますよ」

「うわびっくりした。自分から電話かけてずっと黙るとかやめてくださいよ」

「……私、引退します」

「は?」

「音楽、もうやめようと思って。それだけです。夜も遅いので、寝ます。おやすみなさい」

「え? いやちょっとま……」

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