第3話

 あの日の先輩と同じようにピットを離れながら、わたしは思い出したことがあった。


 幼いころ、観戦したレースで一着を取っていたのは、もしかしたら不動先輩だったのかもしれない。実際のところはどうだかわからない。先輩に聞けばわかるかなって思ったけども、先輩らしきあのレーサーと話をしたわけでもなしに、わかるはずもなかった。


 そんな過去の話を抜きにしたって、先輩は先輩には変わりない。


 特訓つけてもらったお礼もしなくちゃならないし。


 エンジンの出力を上げていく。


 競艇で使用されるボートは、パワーボートとも呼ばれ、通常のそれとはまったく違う。その中でもハイドロブレーンと呼ばれ、水面を滑るように進んでいくのが特徴だ。舵がないからハンドルでモーターを動かし、曲がる。その結果、ドリフトみたいに滑っていくのだ。


 月下の水面の上を軽く一周回る。月が映りこむほど静か。コンディションはこれまでにないくらい最高だ。中央のコーンも地面の上に置かれているみたいに止まっている。


 黒々とした水面に、白い線が伸びていく。それはわたしの背後へずっと伸びていき、白い円となる。


 その円を塗りつぶすように、ボートを動かす。先ほどよりも、速度を上げてコースを回る。徐々に徐々に加速していく。そうして最高速度までもっていく。本来ならこんなことせずに、直線で加速するのだけども、安定させるためらしい。いつもよりも外側を通っているのはそのためだ。


 ぐるぐるぐるぐる。


 ハムスターみたいに、同じところを回り続ける。簡単なようで意外と難しい。一人だから、違和感もある。


 そうしていると、不意にボートが揺れ始めた。そもそも揺れてはいた。だけど、それは速度が上がった中でターンをしていたから。


 それとは違う。人為的なものというよりは、不規則な揺れ。


 先ほどまでなかった波が、やってきている。


 視線を上げると、キラキラとしたしぶき。それは、ナイター灯に照らされた海水ではなく、光そのもの。


 海面が金色に輝いている。ボート場が光を放っているわけではなく、ボート場そのものがなくなっていた。


 あるのは、先へと向かっていく光の流れ。


 左右へ視線を振れば、帯のように光は広がっている。


 川。


 時の流れ。


 わたしはスロットルから手を放す。時流に乗ってしまえば、完全に停止しなければ大丈夫らしい。停止すれば、この空間から弾かれてしまう。未来、もしくは過去にタイムスリップしてしまう――ということはないらしい。


 時の川に落ちてしまったら、どうなるかはわからない。


 だとしたら、先輩だってそうなのではないか。


 ハンドルを握る手に、力がこもる。


 金色の奔流の中を、ゆっくり進んでいく。レースとは違い、一方向にしか流れていないから楽ではある。だけど、途中で渦を巻いている。飲み込まれたら、どうなってしまうのだろう。いけない好奇心がむくむくと頭をもたげてくる。


 先輩が飲み込まれていないといいんだけど……。


 わたしはハンドルを動かしながら、周囲へと視線を向ける。


 光の川の中に、先輩の姿はない。少なくとも、わたしがやってくるまで、この川は存在していないのと同じだったらしい。わたしがいるからこそ、時の流れは未来へと流れているのだとか。ちょっとよくわからない。


 ただ、そのおかげで、先輩がおぼれずに生きている可能性がある。


 しかし、なかなか見つからない。前後には絶えず流れる時の川。光がしぶきを上げ、波が渦を巻くばかりで、そのほかには何もなかった。これだけ見通しがいいのに、先輩の姿はどこにもない。まさか、もうすでに飲まれてしまったのだろうか。


 そんなわけがない。


 そう信じて、わたしはスロットルを倒す。呼応するように、ボートが速度を上げる。


 先に、物体が見えた。小さな点だったそれは、次第に大きくなる。


 ボート。


 わたしは最大まで速くして、ボートへと近づいていく。


 くるくると回転するボートに、人はいない。


 先輩はいなかった。


 船上には、ジャケットがかけられていた。先輩が着ていたものだ。ボートを近づけ、手に取ってみるとほんのりと温かかった。


 水面を見下ろしても、そこには変化のない流れがあるばかり。川底が見えることはなく、ただただ、深い時間の川が横たわっているだけ。


 しばらくの間、川を眺めていた。


 やはり、怒りも悲しみもなかった。心に穴が開いて、感情そのものが漏れていったみたい。


 何も感じない。


「そっか」


 先輩はもういない。たぶん、会うことはないだろう。そんな気がする。


 ジャケットを手にし、片手でハンドルを動かす。


 ボートを避けて、ターン。


 過去へと遡上していく。


 別に、川の上流へと向かっていく必要はない。モーターを止めてしまえば、すぐにでも現在へと戻ることができる。


 だけど、わたしはボートを動かす。


 先輩の乗っていたボートから離れたかったから。


 ボートに乗っていることで、先輩がいなくなったという事実を考えずにいられるから。


 と。


 前方。つまり、過去から音が聞こえてきた。どどど、という重低音はエンジンの音。


 聞きなじみのある、ボートのエンジン音。


 まもなく、正面からボートがやってきた。光に包まれたボートは、実験用のボートではなく、レースに用いるもので、時の流れに乗ることができないもののはず。


 それなのに、そのボートはまっすぐやってくる。


 ボートに乗っていたのは、先輩だ。


「先輩!」


 わたしは叫ぶ。静かな時流の上で、わたしの声は間違いなく先輩の耳に届いたはずだ。だけども、返事はやってこない。それどころか、わたしの脇を通り過ぎていった。


 振り返ると、その姿はあっという間に見えなくなった。


 正面を振り返れば、また、エンジン音がした。前方からボートがやってきている。


 そのボートに乗っているのはやはり先輩で、でも、先ほどよりかは、ちょっと若返っているように見えた。


 その次も、その次も。

 次々やってくる先輩は、そのたびにどんどん若返っている。いや違う。若返っているのではなくて、過去の先輩がやってきてるんだ。


 なにがどうなってそうなっているのかはわからない。研究者なら、もしくは先輩本人ならわかるのかもしれないけど、今ここに、答えてくれそうな人はいなかった。


 考えている間にも、先輩は過去へとさかのぼっていって。


「あ……」

 何人目かの先輩を見た時、思わず声が出た。


 あの時のボートレーサーがやってくる。こどものころに見た、女性。あれはやっぱり先輩だったんだ。


 わたしは手を上げる。


 やってきた過去の先輩もまた手を上げてくれる。――そういえば、あの時の先輩はガッツポーズをして、空へ手を伸ばしていた。


 でも、もしかしたら、未来のわたしとハイタッチしていたのかもしれない。


 手と手が触れる。パチンと音がする。


 わたしはスロットルから手を放す。ボートは速度を緩め、そして、止まった。


 背後から聞こえてくるエンジン音は次第に小さくなっていく。


 前方からやってくるセーラー服姿の先輩は、その輪郭をぼんやりとさせていた。わたしが速度を落としたからだろう。


 先輩は時流の中で生きている。


 わたしは現実の世界で生きている。


 別の世界の人間で、わたしは、その世界を出て行こうとしている。


 二度と会えないかもしれない。――わざわざこんなことをしないと会えないのだ。少なくとも歩いて会いに行ける距離には、先輩はいないのだ。


 どうしてそんなことになってしまったのか。


 頭によぎった考えを、わたしは振り払う。


 たぶん、先輩は望んだんだと思う。こうなることを。


 この世界で生きることを。


 先輩のジャケットを、抱きしめる。


 光がわたしを包み込み、わたしは時の流れというあやふやなものから弾き出される。


 その瞬間、先輩の声を聴いた気がした。


 ――あなたならできるから。


 わたしの芽から涙が零れ落ちる。それは、頬を伝って、光を失った夜の海に、波紋をつくった。

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時の川面で先輩と 藤原くう @erevestakiba

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