第2話

 結局、わたしは不動先輩の提案を飲んでいた。


 実験に興味があったわけではない。時の波に乗るだなんて胡乱な実験、信じられるわけがないだろう。

 でも、不動先輩が稽古をつけてくれる。

 

 トップレーサーである不動あからその人が直接、である。こんな機会はめったにない。


 そういうわけで、不動先輩の実験とやらに付き合うことにした。


 特訓は、多岐にわたった。量が多かったのは、基礎体力をつけるためのトレーニングだろうか。ウェイトトレーニングとか走り込みとかだ。そういった基本的なことを、わたしは叩きこまれた。


「柳生ちゃんはもうちっと体重増やしたら、吹き飛ばされにくくなると思うよ」


 ボートに乗って練習するというのは、ほとんどなかった。


 ただ一度だけ、模擬レースを行った。その時の不動先輩といったら、レースでもないのに不動明王のごとき表情を浮かべ、爆走していった。名は体を表すとはよく言ったものである。ちなみに、完膚なきまでに負けた。正直なところ、苦手といっているターンにしたって、わたしなんかよりずっといいと思うんだけど、不動先輩は首を振る。


「練習でよくたって意味ないから」


 ストイックな人だ。コーナーの練習へと戻っていくその背中を見ていると、わたしも頑張らなきゃという気持ちがこみあげてくる。


 どうしてコーナーの練習をしているのか。もちろん、不動先輩が苦手としている、というのもあるが、どちらかといえば実験のためであった。


 時流に乗るためには、ボートに乗ってエンジンをふかせばいいわけではない。時速八十キロを維持し続けなければならない。これは、レース中の平均速度とほぼ同じだ。これを維持すること自体は簡単だ。実験中は妨害などがないから。


 しかし、問題はその後。時流に乗ったらどうなるかわからない。少なくとも、川のように流れが存在することは間違いない。事前にドローンが探索してわかっている。。


 時流に飲まれたら、ひとたまりもないということも。


 波に弄ばれたドローンは転覆し、今も時空間の狭間をさまよっているとか。


「どうなるかもわからないのにやるんですか」


「やるよ。誰もやったことがないことだし、それに、柳生ちゃんがいるでしょ」


「?」


「私を転覆させないように、コツを教えて頂戴ね」


 にこやかに、不動先輩は言った。


 ……どうしてそこまで他人を信頼できるのか、わたしには理解できなかった。



 実験当日のことは、あまり覚えていない。


 わたしが最後に不動先輩を見たのは、ピットから、ユリシーズと名付けられたボートが出て行くまさにその瞬間だ。エンジンを始動させて、ピットから出て行く不動先輩は、天へと親指を突き上げていた。


 そろそろとボートは走り出し、ぐるぐるとコースを周回しながら、速度を上げていく。


 ボートが光に包まれ、実験は始まった。


 そうして、不動先輩は光の向こうへと消えてしまったのだ。


 消えたっきり戻ってこなかった。



 実験は、中止になった。


 不動先輩が戻ってきた場合、次に実験を行うことになるのはわたしだったが、実験が失敗に終わった今、簡単に行えない状態となってしまった。


 ボートがなくなってしまったからというのもあるし、世間の目が厳しくなったからというのもある。


 実験を行うまでは、反対の声は少なかったはずなのに、失敗したら、実験に問題はなかったのかなど批判が紛糾した。ニュースでは連日のように報道され、タイムパラドックスがどうとか、人間で実験するのはどうかとか叫ばれた。


 競艇というものがなくなるかと思われたが、そんなことはない。いつものように人はやってきて、わたしたちにお金を賭けていた。


 ボートレーサーも何かが変わったということはなく、いつも通りのレースが行われていた。


 いや、違うことが一つある。


 絶対女王たる不動先輩がいないことにより、一着が固定化されていないということくらい。


 そう考えると、案外ボートレーサーも客も、嬉しいと思っているのかもしれない。


 わたしはどうだろう。


 考えてみたが、よくわからなかった。


 嬉しくもないし悲しくもない。


 普通に考えれば、ライバルが――それも最強だったボート―レーサーがいなくなったのだから、喜ぶのが普通だろう。それを表に出すかは別として。


 ……わたしは違う。


 いつも通り、エンジンを動かし、ハンドルを動かして、ボートを操縦する。


 ただそれだけだ。


 それだけしか、わたしにはないのだから。



 どうしてボートレーサーになんてなったのか、と問われることがある。


 どうしてって言われても、ぱっと見で面白そうだって、思ったんだ。


 幼いころに見たものって、なんであれ、ずっと覚えてるし、何かしら心に感じるものだと思う。わたしにとってのそれが、競艇であり、一人のボートレーサーだったというわけだ。


 その人を憧れてボートレーサーになったというわけでもない。彼女について覚えていることといったら、女性ということと、初勝利を収めたってことくらい。ガッツポーズが印象的だったなあ。空を叩いているみたいで。


 そんな感じだから、面白そうだからとしか答えられないというわけ。


 でも、波の上をカッとんでいくのは好きだ。



 その後もそこそこの回数一着を獲り、私はついに、G1タイトルへの出場権を得た。最年少とか言われていたけども、わたしにはどうでもよかった。


 G1タイトルを獲得し、さらに上へ。


 頭の中はそればっかり。同業者からは、ボートバカとか言われてるけど、どうなんだろうか。


 さて、そんなとき、電話がかかってきた。


 相手は、とある大学の研究者から。


 ――不動あからさんの居場所を突き止めました。


 満月が浮かぶ、静かな夜のことだった。



「時の流れに囚われているのです」


「囚われている……?」


「ええ。時流は、過去から現在そして未来へと流れている。そのため川に例えられますが、川には何があります」


「石とか」


「そうです。もっと大きな、岩もあるでしょう。実際には岩ではないでしょうが、それに類する障害物の存在が観測されました」


「それが、先輩と何の関係が」


「不動さんの反応がなくなったポイントの近くに、時流の乱れ、川でいうところの流れの乱れが見つかったのです。乱れる場所といえば、障害物の近くですから」


「そこに、先輩がいるかもしれない、と」


 研究者が頷いた。


 その後も研究者は、わたしにいろいろなことを話した。たぶん、先輩が生きている確率とか時の流れの中では、時間の概念がないとかなんとかかんとか。方程式とかデータとかが狂喜乱舞して、わたしにはやっぱり理解できない。


 わたしに理解できたのは、先輩が生きているかもしれないってことだけ。


「そこでお願いなのですが」


「実験をしろって言うんでしょう」


「え、あっ、はい……」


「それはいいんだけど、わたしのやりたいようにするから」


 研究者が困惑の声を上げる。ちょっと怪しいやつと思われたかもしれないけども、どうでもいい。


 先輩を助けられるなら、それでいい。

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