時の川面で先輩と
藤原くう
第1話
ぶるんとひと揺れして、後方のエンジンがドドドと低い産声を上げる。一人乗りの小さなボートが振動で揺れて、さざ波をつくる。
まるでわたしの心みたい。
ため息をつき周囲を見わたす。ナイター用のライトが照らす水面に、わたし以外の姿はない。スタンドだって同じだ。いつもだったら観客の熱気が伝わってくるけれど、今夜は小さな水音と冷たい潮風しか感じない。
乗り込んだ船に目を向ける。レース前と同じように、点検は終えていた。何度見ても、競艇用ボートに異常はなかった。
それでも気になるのは、エンジンと繋がっているスクリューだ。鈍く虹色に光るそれは、通常の試合で使用しているものではない。
これから行われる実験に必要なもの。
世界に二つしかないという、時の流れをかくことができるスクリュー。
そこにどのような科学技術が込められているのか、一介のボートレーサーに過ぎないわたしにはわからない。
でも、人が時間の果てへと消えていくその瞬間を目の当たりにしたのは間違いない。
わたしと不動あから先輩が呼び出されたのは、海風が心地よく感じられる初夏のことであった。
呼び出された時に思ったのは、何かやらかしてしまったのか、というショック。わたしは、G1レースで勝利を収めたい一心だった。試合後の人気の少なくなったレース場の一室でイライラしながら待っていると、次にやってきたのは不動選手だったのだ。
「え」
思わず声が出ていた。不動選手の方も驚いたように眉を上げている。不動選手といえば、レディース最強であり、男に交じってSG――G1のさらに上だ――レースに出ている女傑だ。つまりすごいってことだ。
椅子に座っていたわたしの隣にやってきて、座る。
「確か、新人ちゃんだよね」
「はい。柳生ソラです」
「初勝利おめでとう」
「あ、ありがとうございます?」
どうして初勝利のことを知っているのだろう。わたしはボートレーサーとしては、まだ駆け出しなのに。
そんな疑問が顔に浮かんでいたのか、不動先輩が口を開く。
「気になる子だからね。あれだけのコーナリング技術があれば、とんとん調子だと思うよ」
「先輩ほどじゃない」
「あはは。年季が違うからね。でも、私にはないものを持ってるからさ。もしかしたら、ライバルになりそうだし、将来の芽はつぶしておこうかなって」
「…………」
「冗談だから身構えないで。ここへ呼んだのは私だけど、そういうことじゃないからさ」
「不動先輩が……?」
「そ。ちょっとねえ、大学の人たちからお願いされたことがあるんだけど、そのお手伝いをしてもらおうと思って」
「手伝い?」
不動先輩ほどの選手のどこを手伝えばいいというのか。荷物持ちでもすればいいのだろうか――なんてわたしは思っていた。だけども、先輩の口から発せられたのは、とある実験のことである。
その実験は、時を移動するというもの。つまりはタイムマシンに乗って、移動してくれってことらしい。
「どうしてそんな実験をわたしたちに?」
「そのタイムマシンがボートの形をしているからさ」
時の流れというのは、比喩でもなんでもない。時は過去から現在を通り未来へ至る。山から海へと流れる川と同じだ。流れの穏やかな場所があれば激しい場所もあり、時流というのもは思いのほか混沌としているそうだ。
「それならカヌーの選手の方が最適」
「人力じゃあ時の流れに乗ることができないの。加速しないと」
「……ヨット乗りなら」
「大きすぎて無理ね。今回はテスト用のものだからスクリューが小さいのよ」
「ドローンでも使えばいい」
「もうやったって。実験は成功したらしいわ」
「…………」
「誤解しないで。柳生ちゃんに実験しろって言ってるわけじゃない。そのボートに乗って、時の流れってやつに立ち向かうのは私」
だけど、ちょっと不安なことがあってね。
不動先輩は、背後を振り返る。
窓があって、その向こうには、ボートレーサーたちがしぶきを上げぶつかり合うレース場がある。今日はナイターもなく、鏡のような水面に夕日が映りこんでいる。そんな静かな海を眺める不動先輩の横顔には、哀愁のようなものが漂っている。
「私って、コーナーがね。苦手なんだ」
「そうなんですか?」
「うん。差し込むの苦手なんだ。波で弾かれちゃって。だから、外からストレートで」
「得意ですもんね」
「そこでいくと、柳生ちゃんはコーナリングが上手いでしょ? 波の上を滑っていくみたい」
「……別にそんな」
「謙遜しちゃって。もっと自信持ちなって。じゃないと男連中に負けちゃうよ?」
「わたしは、不動先輩とは違います」
「ううん違わない。柳生ちゃんは私と同じくらいには強くなれると思うよ」
不動先輩を見れば、にっこりと笑みを返された。
本気で思っているのだろうか。……わたしが、不動先輩と同じくらい強くなれるだなんて、全く想像できない。今日の試合だってギリギリのところで差せたからこそ勝てたけど、そうじゃなかったら一着なん取れなかった。こんな感じで勝ち進んでいけるのか、G1なんて夢のまた夢なのではないか……。
「そうだ」先輩が手を叩く。「私が稽古つけてあげるよ」
「本気……ですか?」
「ほんきほんき」
「意味が分かりません。どうしてライバルを増やすようなことを」
「そりゃあ、ライバルがいないと張り合いがないからね」
当たり前のように不動先輩は言う。そこには、自らの腕に対する絶対的な自信があった。
同時に、退屈のような感情も見え隠れしていた。
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