シャムの奇才の王妃様
白里りこ
シャムの奇才の王妃様
どうにも、暑い。暑苦しい。
ダーラー・ラッサミーは、外で風に当たって少しでも涼を得ようと思い立った。
広い後宮には、金の装飾や彫刻が施された複数の鮮やかな建物と、手入れの行き届いた美しい庭が備わっているが、そんな中に屋根付きで吹き抜けの区画が幾つかある。日差しを避けながら風を感じられるため、皆に好評の場所だ。
ダーラーが女官たちを引き連れて目的の場所に向かい、優雅に座り込んで女官に団扇で煽いでもらっていると、別の王妃が、これまた女官たちを従えてやってきた。先に場所を取ってしまったのをすまなく思ったダーラーは、謝罪のために口を開きかけたが、相手はやや高慢にも見えるような表情でダーラーを見下ろし、こんなことを言った。
「ご機嫌よう。今日もまた、随分と風変わりなお姿でいらっしゃるのですね。郷に入っては郷に従え、という言葉をご存知かしら?」
ああ、とダーラーは微かに顔をしかめた。またこれか。下らない嫌味。いちいち面倒だし、げんなりするし、腹が立つ。
確かにこの王妃は気位が高い。名門貴族の出身で、しかも立派な大人の女性だ。遠方から嫁いできた幼いダーラーのことを、気に食わないのも頷ける。だが、生家の家柄も、王妃としての地位も、ダーラーの方が上だ。こんな風に馬鹿にされて、侮られて、舐めた口を利かれる筋合いはない。
ダーラーはにこっと笑って王妃を見上げた。
「ご機嫌よう。確かに私のタイ語は、完璧ではないかもしれませんね。しかしあなたが仰った格言はちゃんと知っておりますので、ご心配には及びませんよ」
そばにいる女官たちがそわそわしているのが感じられる。不穏な雰囲気になって動揺しているのだ。しかしダーラーは退くつもりはなかった。無礼なのは相手の方なのだから、多少やり込めて、立場を弁えさせなければならない。
「まあ、そうでしたの。でもその割には、身だしなみが整っていないように見受けられますわ」
「そうですか? それは妙ですね。国王陛下は、シャムとラーンナーは運命共同体であると仰って、この着物や髪型のこともお許しになっているのに……。ひょっとして貴方様は、国王陛下のご意向を、蔑ろになさるおつもりですか?」
「……何か思い違いをなさっていませんか? まあ、貴方様はまだお小さいですから、分からないのも道理でしょうけど。あのですね、国王陛下は外交上のご都合でそう仰らざるを得なかっただけで、本来であれば……」
彼女の言葉の続きは、横から入った「こらこら」の声に遮られた。
見ると、チュラーロンコーン王の妹御で第三王妃でもあるサワーン・ワッタナー妃が、これまた女官を従えて立っていた。部屋の前の廊下はもう人でいっぱいになってしまっている。
「お二人とも、つまらないことで喧嘩をしてはなりません。はしたないですよ」
彼女はそう言って、ダーラーたちをたしなめた。
「王妃たるもの、後宮の風紀はちゃんと守って下さいね。……さあ、貴方様はお行きなさい。そして、お互いにもう意地悪なことを言わないように」
「……はい」
「はい」
二人は神妙な顔をした。
「では、私も他の場所で涼むとしましょう」
サワーン・ワッタナー妃はそう言って、颯爽とその場を後にした。
ダーラー・ラッサミーは、ラーンナー王朝の姫として首都チェンマイで生まれ、十三歳でラタナコーシン朝シャム王国の首都バンコクに移住して、チュラーロンコーン王の第五王妃になった。
世界情勢が非常にきな臭い状況での婚姻だった。東南アジアに欧米列強の勢力が進出しているのだ。シャムも、先王の時代から他国と幾つもの不平等条約を締結させられ、未だ解決には至っていない。加えて、隣国ビルマを植民地化したイギリスが、今度はラーンナーを狙うのではないかという噂が立った。シャムとラーンナーは協力して互いを守るために、結婚を利用して手を結ぶことにしたのだ。実質的にはラーンナーがシャムへ併合されるという形になるが、二つの国は元より関わりが深いので、話はすぐにまとまった。
出自が非常に高貴であることから、ダーラーの立場は他の王妃たちよりは高めだった。とはいえ、シャムで生まれ育った他の者らには、ダーラーが妙ちくりんな田舎者に見えるらしく、からかわれて除け者にされることもままあった。
しかしダーラーは、頑なにシャム式の身なりを拒み続け、常にラーンナーの伝統的な姿でいることにこだわっていた。
例えば、今のシャムでよく見られる髪型は、男女問わず短髪であった。頭頂部が特に短くなるよう独特の形に切り揃えたり、逆にやや長めにしてぴっちりと後ろに撫で付けたりするのが主流だった。しかしダーラーの髪は、とても長い。真っ黒な長髪をいつも丁寧に手入れしてもらっている。朝になったら、髪を後ろに流してこんもりと形を整えてもらい、団子状にまとめ上げさせる。ずっしりとした重量感のある見た目が特徴の髪型だ。
更に服装も、ラーンナーの伝統に則っていた。シャムの女性は、パナンという一枚布の肩掛けと、チョンクラベンという一枚布のズボンを巻きつけることが多いのだが、ダーラーは、いつもパーシンという一枚布のスカートを巻き付けて、上からスアーという薄手の上着を着用していた。
因みに今日のダーラーのいでたちは、もちろん豊かな髪をふんだんに使って丁寧に整えた髪型。服は渋い赤色のパーシンで、裾には、菱形の模様があしらわれた茶色の部分と、鮮やかな赤色の部分があるものだった。色味の強いパーシンとの対比を出すために、スアーは、繊細で可憐な薄桃色のものを選択している。
さて、充分に涼んだダーラーは、座り続けるのにも少し飽きてきたので、おやつでもつまもうかと立ち上がった。ダーラーが何か動作をするたびに、着用している上物の伝統衣装がさやさやと音を立てる。ダーラーはすっかりご満悦だった。好きな姿でいるのは、気分が良い。
他の王妃と明らかに異なる姿をしているダーラーは、当然ながら日頃から目立っていた。更にダーラーは、後宮での自分の女官もチェンマイから連れてきており、彼女らにもラーンナー式の身なりを推奨したため、彼女の周囲だけ明らかに異国の雰囲気が漂っていた。
故に先刻のように、嫌がらせを受けたり悪口を言われたりすることもよくあった。それでもなお、頑固に祖国の衣装を着続けるのには、理由がある。ラーンナーは、この先どんどん弱体化するだろうと、ダーラーは思っていた。この先この地域が列強の植民地になるにしろならないにしろ、既にシャムに取り込まれたラーンナーは、いずれシャムに同化してしまうだろう。ラーンナー文化は衰退の一途を辿ることになる。……もちろん、できる限りのことをして、ラーンナーの衰亡を阻止したいとは思っている。だが、万が一それがうまくいかなかった時のために、備えをしておいた方が良い。──たとえ国が滅びようとも、文化を愛する人々の気持ちはきっと後世にも続いていく。だからせめて、多くの人に、祖国の文化を気に入ってもらいたい。
此度の婚姻は逆に良い機会だ。シャムの人々にラーンナーのことを知ってもらえるきっかけになる。願わくは、ラーンナーの素晴らしい文化が、未来のシャムでも生き残って、継承されていって欲しい。これは二国間の友好関係の進展にも繋がるから、シャムにとっても悪い話ではないと思う。
ただ、この野望のためには、自分たちの見た目だけで満足していてはいけない。もっと、タイ民族や他の民族の人を巻き込んで、ラーンナーの魅力を発信しなければ。
そのためにダーラーは、地元を出る前から心に決めていたことがある。一つは服装のこと。もう一つは、ラーンナー式の舞踊を披露することだった。
ダーラーは元より、音楽や芸術に並々ならぬ関心を抱いており、あらゆる楽器を操れる才能の持ち主でもあった。ジャカイやソーといった弦楽器や、クルイという横笛、グロングやトーンやラマナーといった太鼓、ラナートという木琴まで、何でもござれ。それから当然、踊りや歌も得意だし好きだった。加えて女官たちも、これらの芸能を一通り身に付けている。有能な者たちを選りすぐったのだから当然だ。つまり、ここにいる人々だけで、一応ちゃんとした舞踊を作り上げることが可能だ。
シャムにも多様な舞踊や舞踊劇があるけれど、ラーンナーのものは一味違う。慎ましやかにたおやかに繰り広げられる踊り、ゆったりした素朴な音楽、煌びやかな衣装、舞台に漂う穏やかな風情……。シャムの人々には、是非この機会に異文化体験をしてもらい、ラーンナーに興味を抱かせたい。そうしたらラーンナーだって、北の山岳地帯の田舎の国だと軽んじられることもなくなるかもしれない。
頃合いを見て、計画を実行すると決意したダーラーは、チュラーロンコーン王の元に行き、皆に舞踊を見せて差し上げたいという旨を伝えた。
「舞踊?」
チュラーロンコーン王はやや驚いた様子で、屈んでダーラーの目を覗き込んだ。
「はい。是非、皆様にお披露目する機会を頂きたく」
「そうか……。しかしそれは大変な仕事だろう。指南役として、踊りに詳しい者を付けようか」
「お気遣いありがとうございます。しかし、遠慮致します。私は、ラーンナー式の舞踊をお見せしたいのです。故に、ラーンナーに詳しい者だけで舞台を作りたいのです」
チュラーロンコーン王は、目を細めた。
「そうか。つまり、貴方が企画を主導するのかな?」
「はい」
「なるほど。確かに、そのような挑戦は非常に意義のあるものだ。やってみるといい。私は他の者に、日程調整と場所の確保を命じるとしよう」
「恐れ入ります。よろしくお願いします」
これでよし。あとは練習あるのみである。故郷ではよく自ら実演していたから、きっと滞りなく準備が進むであろう。
このようにしてダーラーが懸命に伝統芸能の周知に踏み出した一方で、チュラーロンコーン王は、シャムの近代化政策を推進していた。彼は西洋風の軍服をビシリと着こなしながら、精力的に改革を実行していた。奴隷解放、教育、官僚、議会、交通網などなど、変革すべきことは盛り沢山だった。これには、シャムが列強に植民地にされるのを防ぐ目的があった。所謂「文明国」であれば──つまり西洋風の国造りをしていれば、イギリスやフランスはその国を占領しづらくなるらしいのだ。
チュラーロンコーン王が苦労しているのを見ると、ダーラーは、列強の連中は何と傲慢なのであろうかと、呆れ返ってしまう。彼らは、自分たちの文化が人類にとって至高のものであると信じ込んでいて、同じような国造りを他国に一方的に押し付けることを、善行か何かと勘違いしているのだ。そこからは、他国の人間や文化を人敬意を払うという配慮が、微塵も窺えない。もちろん西洋の文化には素晴らしいものもあることは承知しているが、他の文化にだって同じくらいの価値があることを忘れないで欲しいものだ。その点、大っぴらに軍事力を使ってラーンナーを滅ぼしたりなどしない今のシャムの人々の方が、余程まともである。
ともかく、このような経緯で、シャムもラーンナーも依然として列強の脅威に晒されている。いつ奴らに蹂躙されるか、分かったものではない。全く、気の抜けない時代になったものだ。
チュラーロンコーン王は、変化を続ける国内外の情勢の中で、ラーンナーとの協力体制が崩れることを大いに危惧していた。ラーンナーが陥落したら次は間違いなくシャムなのだから、王の不安も尤もだ。そこで、せめてもの気休めとして、ダーラーには後宮の中でもチュラーロンコーン王がよくいる建物と近い部屋が与えられた。こうすることで、二ヶ国の代表者が近しい関係にあることを示し、両国の結束力を高める算段らしかった。目的が何であれ、王の側に置いてもらえるのは、ダーラーには嬉しいことだった。これで王妃としての自分の立場にも一層箔が付くというもの。ダーラーを煙たがる他の大勢の王妃たちも、表立って嫌がらせはできなくなるだろう。
さて、後宮での居場所も確保できたところで、本格的な稽古の始まりだ。ダーラーはまだ体が小さいのと、楽器を演奏するのが好きなのとで、今回は踊り手ではなく楽隊の役を担った。ピーナイという縦笛で、主旋律を担当する。それに複数の打楽器などの音が加わって、踊り手たちはそれに合わせて優雅に踊るのだ。
稽古の他に大事なことといえば、衣装を揃えることだ。ダーラーは上質な布でできたラーンナー式の衣装を、踊り手の人数である八人分、用意させた。
こうしてあっという間に時は過ぎ、ダーラーたちは本番の日を迎えた。
チュラーロンコーン王が用意してくれた木張りの舞台に、女官たちが整然と並んだ。観客は、ダーラーが期待していたよりかなり少なく、客席はどことなく閑散としていた。ちらほらとしか人がいない中でも、チュラーロンコーン王やサワーン・ワッタナー妃などは、見に来てくれていた。
ダーラーは簡単な謝辞を述べて舞台から降り、ピーナイの吹き口を口に咥えた。さあ、踊りの始まりだ。
ダーラーが用意したのは、「フォーン・レプ」という伝統舞踊だった。踊り手たちは、非常に長い真鍮製の付け爪を、人差し指から小指まで計八本着用して踊る。こうすることで指先の動きが殊更に優美に見えるのだ。
衣装にも細かいこだわりがある。髪の毛は普段より低い位置でお団子にし、黄色いジャスミンの花で飾り付ける。服装はその花に合うようにと、黄色の縞模様で裾部分が赤色をしたパーシンを選んだ。スアーも落ち着いた黄色。加えて、肩掛けとしてサバイという長い布をひらめかせるのだが、これは赤色のものにした。
揃いの衣装で、踊り手たちはゆったりと舞う。足運びは非常に丁寧で、打楽器に合わせてゆるやかに歩を進める。軽く膝を折る動作もあるのだが、これも微妙な調整のもと、おしとやかな仕草で、尚且つ全員の動きがぴったりと合うように練習させてあった。
しかし見所は何と言っても付け爪の煌めきだ。これを付けた状態では指がとても動かしづらいはずなのに、皆そんなことはものともせずに、あらゆる動きで美しさを演出している。
曲が終わり、ダーラーはそこそこ満足していた。目立った失敗もなく、舞台としては及第点であろうと思われた。
とは言え、大成功だったとはあまり思えなかったのも事実だ。
「珍しいものを見せてもらって興味深かったよ。貴方はまだ若いのに、最後までやり遂げたのは凄いことだ」
チュラーロンコーン王はそう言ってダーラーを労った。
「とても頑張っておられましたね。良いことです」
サワーン・ワッタナー妃も言葉をかけてくれた。彼女は二つの袋を手渡してきた。
「こちらをどうぞ。ご褒美にお菓子を作らせて持ってきたのですよ。カノム・コーです。こちらの袋は貴方様のためのもの。こちらは女官さんたちに差し上げて下さいね」
カノム・コーは、餅米の粉と椰子の砂糖を混ぜて丸めて茹でて、細かくしたココナッツをまぶした甘味だ。パンダンの葉で着色した緑の玉と、蝶豆で着色した青色の玉がある。
「ありがとうございます」
ダーラーは微笑んで答えたが、内心は複雑な思いだった。
ダーラーは、立派な一人の女性として、ラーンナー文化の魅力の体現者になりたかった。だがこれでは、幼い子がお遊戯をするのを大人がにこにこと眺めているような状況だ。こんなお遊びだと思われていたならば、観客が集まらないのも道理である。それに、その歳にしては頑張った、だとかいう評価は、申し訳ないがあまり嬉しくない。ダーラーは、年齢だの努力だのは関係なく、一人前の表現者として、文化を発信していきたかったのだから。己の未熟さを痛感せざるを得ない。
今後、踊りの完成度を上げることはもちろん必要だが、きっとそれだけではいけない。何か工夫をしないと、何度やってもただのお遊びになってしまう……。
その日の夕飯は、ダーラーの好物であるシャムの宮廷料理、カオチェーであった。氷水に浸された米を、辛味や酸味のある複数のおかずと一緒に食べるものだ。この常夏の国において氷は珍かなものだから、よほど高貴な人でないとお目にかかれない料理である。食べ盛りのダーラーだったが、今回ばかりは、料理を完食するのにいつもより時間がかかった。食後に甘ったるいカノム・コーを頬張りながら、ダーラーは、悔しさで胸がざわざわとして落ち着かない気分でいた。
翌日、未だに悶々とした思いを抱えながら、ダーラーはまた涼むために、後宮内を移動していた。
目的の場所に着くと、そこには先客が座っていた。サワーン・ワッタナー妃の一団だ。女官たちが、大きな団扇で、主人に風を送っている。
「あら、貴方様もいらしたの。ごめんなさいね、先に場所を取ってしまって」
サワーン・ワッタナー妃は言った。ダーラーは少しだけ気まずかったが、昨日の今日で何の挨拶もお礼も返事も無いのは失礼だ。何より、常に堂々としていないと、己の姫としての矜持が許さない。
「とんでもないことです、お気になさらず。それより、昨日は私たちの舞台をご覧下さりありがとうございました。頂いたお菓子も大変美味で、皆に好評でした」
「お礼を言うのはこちらの方ですよ。お陰様で、とても素敵な時間を過ごせました」
ダーラーはほんの僅かに、口元をきゅっと引き締めた。
「お褒めに預かり光栄です」
サワーン・ワッタナー妃は、ダーラーの表情が微かに曇ったのを目ざとく見つけて、瞬きをした。
「もしや、何かお悩み事でもおありですか? 差し出がましいようですが、私でよろしければ、お話を伺いますよ」
ダーラーは一瞬だけ体を硬直させた。こうもあっさり胸の内を見抜かれるとは思っていなかったのだ。その後、やや躊躇したが、黙っていても何も進展しないと思い、思い切って胸の内を吐露した。
「そうですね、ではお言葉に甘えて。……私は、ラーンナーが国としての形を失っても、その文化だけは後世に残したいと考えています。そのために行動するのは、王家の末裔の義務だと思うので。そのため、ここでの活動はとても重視しているのです」
「まあ、そうだったのですか」
「はい。しかしいざ舞台をやってみると、あまり上手くいかず……。いえ、決して女官たちのせいではありません。ひとえに私の企画力の問題で……沢山の方々にラーンナーの魅力をお伝えすることができませんでした。私が未熟でした。あれではまるで、幼子の遊びです」
「……なるほど」
サワーン・ワッタナー妃はダーラーをまじまじと見上げると、自分の座っている床を指した。
「とりあえず、そんなところにお立ちになっていないで、こちらへ来てお座りなさいな。共に涼み、共に語りましょう」
「あ、はい。お邪魔します」
ダーラーは内心で遠慮しいしい、サワーン・ワッタナー妃の隣にちょこんと腰を下ろした。サワーン・ワッタナー妃は静かにダーラーを見下ろした。
「貴方様が折角、素直に悩みを伝えて下さったのですから、私も正直に申し上げましょう」
サワーン・ワッタナー妃は言った。
「今の今まで、私は貴方様を見くびっていたようです」
「……そうなのですか?」
「ごめんなさいね。昨日の舞台も、他所から来た小さな子がとても頑張っていて、意外にも素敵な出来栄えだった……という程度の認識でした。しかし今のお話を伺って、印象が変わりました。貴方様の志はもっと気高く、しかも崇高なものだったのですね」
「……。恐れ入ります」
「フフ……。しかし貴方様の仰る通り、未熟な所がおありだったのも確かです。例えば、後宮の大半の方々が昨日いらっしゃらなかったこと……あれは、田舎の子どもがやることなど、高が知れていると思われたからでしょう。きっと準備の段階で何かの不手際があるでしょうし、本番で怖気付いて失敗をしたりするでしょうから、そんな粗末な物を見るのは時間が勿体無い──とお考えの方が多かった。そして貴方様は確かに、そのように決めつけている方々の興味を引くことを怠っていらっしゃった。……素晴らしい踊りを用意しさえすれば、自然と人が集まるだろうと、貴方様はそうお考えだったのでは?」
ダーラーはウッと息を詰めた。
「それは……はい、その通りですね」
「しかし、そのせいで貴方様の才能を見逃すのは勿体ないことです。私は貴方様のことを応援したくなりました。よろしければ、協力させて頂いても?」
ダーラーは目を丸くした。
「誠にございますか」
仲間が少なく孤立しがちなこの後宮において、こんな言葉をかけてもらえるのは、とてもありがたいことだった。これなら、踊りを披露した甲斐も、少しはあったかもしれない。サワーン・ワッタナー妃は優しげに笑った。
「嘘など言いませんよ。……では手始めに、昨日の舞踊はとても良かったと、私からさりげなく皆にお伝えしましょう。この私がそう申し上げれば、貴方様に関心を抱く方々が現れるやもしれませんからね」
「それは……大変嬉しゅうございます。何とお礼を申し上げて良いか」
「大したことではございませんよ。他にも、必要とあらば私を頼って下さいませ。私は貴方様の味方でございますから。……基本的には」
何と親切なお方だろうか。ダーラーはすっかり彼女に好感を抱いていた。基本的には、の意味は図りかねたが、ひとまず味方になってくれるというのだからこれ程心強いことはない。
「それで、何か他に、私に願いはありますか?」
サワーン・ワッタナー妃が尋ねてくれたので、ダーラーはつい前のめりになってこう申し入れた。
「あの、では早速……図々しいようですが、一つお願いをしてもよろしいでしょうか」
「まあ、判断がお早いのですね。流石です」
サワーン・ワッタナー妃は目を細めた。
「どうぞ言ってご覧なさい。できる限り、叶えて差し上げましょう」
「はい。貴方様のお陰で、今し方思い付いたことがあるのです。もしよろしければ、シャムの伝統的な芸術についての概要や分析が記された書物を、ご用意して頂けませんでしょうか」
「あら」
サワーン・ワッタナー妃の黒々とした瞳が、きらっと輝いた。
「シャムの芸術についてですか? ラーンナーではなく」
「はい」
「それはそれは。何やら愉快なことをお考えのようですね」
「そのつもりです。この件は、本来ならば私の女官に命じるべきことですが、彼女たちも皆チェンマイから参りましたので、シャムの文化に詳しくないのです。それに、他の王妃の方々とはまだ親しくなれておりませんので」
「フフ……。そのくらいでしたら、すぐに手配させますよ。少々お待ち下さいね」
「ありがとうございます。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
かくしてダーラーは、取り寄せてもらった書物を読み漁り始めた。シャムの音楽、舞踊、舞踊劇、文学、服飾……調べたいことは山ほどあった。また、実際に演奏会や舞踊劇などの舞台が後宮内で催された時は、必ず参じて、食い入るように鑑賞した。どれだけ情報を集めても足りなかったが、ダーラーは諦めず地道に調査を続けた。同時に、実際に楽器に触れてみたり、歌ってみたり、踊りを真似てみたりと、実践的な研究も行なった。更には、女官たちにもそれらを試してみるよう言い聞かせた。
サワーン・ワッタナー妃は自分から言っていたように、本当に面白いことが好きなようだった。ダーラーが文献の解読について質問しつつ自分なりの解釈を述べたりすると、それはそれは嬉しそうに「フフフフ」と笑った。しかし反対につまらないものは大嫌いらしく、例えばダーラーが弱音を吐いたりすると、「それはつまらない考えですね」と真顔でばっさりと切り捨ててどこかへ行ってしまう。ちょっと変わったお方だな、とダーラーは思ったが、はっきり言ってもらえることはむしろありがたかった。もちろん負けん気の強いダーラーが言われっ放しになるはずもなく、気に入らなければ追い縋って反論することもあった。サワーン・ワッタナー妃はこれによって考えを改めることもあれば、自分の意見を譲らないこともあった。
そうしている内に、時は過ぎた。齢十五になったダーラーは、月経が始まった。最初に腹痛に襲われて股から血が出た時は慌てたが、女官たちが素早く対処してくれたので助かった。
月経が来たということは、体が大人になったということだ。前に聞いた話だと、初潮の後にも体は成長するらしいのだが、少なくとも今のダーラーは子を産める体になった。
「貴方がついに大人になったと聞いたから、お祝いに来たよ」
何日か経過した日のこと、チュラーロンコーン王はわざわざダーラーの部屋に来て直々に言葉をかけた。
「無事に一人前の綺麗な女性に成長したことを祝福しよう。おめでとう。今後とも体には気をつけて、健康で楽しい人生を送るようにね」
「はい。お気遣い、痛み入ります」
ダーラーは合掌して丁寧な礼をした。
その後、ダーラーはチュラーロンコーン王の寵愛を受け、めでたく懐妊した。そこで、歌や踊りの鍛錬などは一旦休止して、とにかく穏やかに健やかに過ごすよう心がけた。書物を読むのも無理にはやらず、読む速さを落としゆっくりと文字を追うようにした。
そうして十六歳の時に、ダーラーは女児を出産した。
ダーラーは彼女に、ウィーモンナーク・ナピーシー、と名付けた。この子は本当に、可愛らしい姫であった。ダーラーは、用意させておいた子ども様のラーンナーの伝統衣装を、手ずから娘に着せてやった。あどけない顔でお乳をねだって泣くその姿の愛おしいことといったら、筆舌に尽くし難いものがあった。あまりに可愛いので、ダーラーまで泣きたくなるくらいであった。
女官たちの甲斐甲斐しい世話のお陰もあって、姫はすくすくと成長した。二年間は。
姫は、二歳の時、病を得て帰らぬ人となってしまった。
子どもは、死にやすい。知識としては知っていても、自分の身に降りかかるとこんなにもつらいものなのかと、ダーラーは愕然とした。その日はずっと、冷たくなった姫に呼びかけをして、滂沱の涙を流した。折しもシャムの季節は乾季、カラッと晴れて比較的過ごしやすい陽気であるのに、ダーラーの心中は大嵐に見舞われていた。
すぐに、チュラーロンコーン王が様子を見にやってきた。ダーラーはこの時ばかりは堂々とした態度でいられるわけもなく、王の御前でもひたすらに取り乱していた。
「すみません、まだ、酷く混乱していて」
「謝る必要は全くない。混乱するのも当然だよ。今は何も気にせずに、存分に泣いた方がいい。気が済むまで嘆き悲しんでいい。私も、あの愛くるしい姫がいなくなってしまったという事実に、とても心を痛めている。私にとってもあの子は、大切な娘だからね」
「はい……はい……」
それから何日かが経過したが、悲嘆の思いは何度もぶりかえして、ダーラーの心を襲った。感情のやり場に困ったダーラーは、姫の写った写真をみんな破いて捨ててしまった。全て廃棄し終えた頃、ようやく涙も枯れ果てて、後には胸の中の空虚な穴が残った。絶望感だけは、いつまでも消えてくれない。
これ以降、ダーラーが子どもを授かることはなかった。ダーラーがしばらく衝撃から立ち直れなかったせいもあるし、チュラーロンコーン王も百五十人ほどの王妃を抱えているからダーラーにばかり構ってはいられないという事情もあった。
「お悔やみ申し上げます。幼子は亡くなりやすいとはいえ、母が子を亡くすのは何よりつらいことですね」
冷たい飲み物を携えてダーラーの見舞いに訪れたサワーン・ワッタナー妃は、こう言ってダーラーに寄り添った。
「私も、幾人もの子を、生まれて間もないまま亡くしました。お気持ちは分かります。さぞや苦しいことでしょう」
ダーラーは俯いて、呟くような声音で、心情を打ち明けた。
「今は……いえ、今だけでなく、これからもずっと、私は何も楽しむ気になれません。私はこれまで、使命感を持って、芸術の研究をして参りましたが……あの子を差し置いて楽しく芸術に勤しむことなど、私にはとてもできません。一生、喪に服して、何もせず、ただあの子を悼んで過ごして、そして早めに死にたい……そんなことを延々と考えてしまうのです……」
サワーン・ワッタナー妃はしばらく黙っていた。長い間、沈黙が続いたので、ダーラーは恐る恐る彼女の顔を窺った。そして小さく息を呑んだ。
サワーン・ワッタナー妃の眼差しは、冷たく、昏く、虚ろであった。少々ぞっとする程に。
ダーラーが若干慄きつつ彼女の顔を見つめていると、彼女はようやく口を開いた。
「お子様を亡くされたことには同情します。しかし……」
彼女はどこまでも深い闇色の目を、ふいとダーラーから逸らした。
「あまり、つまらないことをお考えにならないで下さいね。如何に貴方様でも、面白味がなければ私は応援致しかねますので」
「……え? 今、つまらないかどうかが、何か関係があるのですか? 最愛の子を亡くしたばかりの時に、そのようなことを考えている余裕など、あるわけないですよ」
ついきつい言い方をしてしまったが、サワーン・ワッタナー妃は気にせず続けた。
「関係ならばありますよ。貴方様が全てを投げ出して死のうとなさるなんて、これ以上つまらないことはありません。そのようなお覚悟では、亡き姫にも失礼だと思います」
「失礼、とは……」
「今日はこの辺で失礼致します。どうかお気を確かに持って、くれぐれもお体にはお気を付け下さいね。では」
どことなく事務的な口調でそう言い残すと、サワーン・ワッタナー妃は女官たちを従えて部屋を出て行った。後には、ぽかんとして座り込んでいるダーラーと、そばに置いていた数人の女官たちが残された。
「今のは、激励ですか? それとも罵倒?」
ダーラーは女官たちに尋ねたが、皆不思議そうな顔をするばかりである。
「畏れながら……激励、という風に受け取っては如何でしょう。いえ、その割には、あの方のお言葉はきつくていらっしゃいましたが……しかし、罵倒されたと受け取るよりは、ご主人様もお気が楽になられるかと」
一人がそう言ったので、ダーラーは考え込んだ。
「あの方は確か……姫に失礼、と仰っていましたね」
「はい」
「うーん……では、こういうのはどうでしょうか。長年温めてきた計画を……舞踊劇の準備を、今から実行に移すのです。舞台を、あの子に捧げて、弔うために。これなら、あの子も浮かばれると思いませんか」
女官たちは、重ねて困惑した様子だった。
「あの、では、やはり芸術活動はお続けになるのですか。おつらくはないのですか」
ダーラーはゆっくり頷いた。
「子を喪っても……私の人生はこの先も続くのだと、今し方気が付きました。考えてみれば当たり前のことですが、あまりに衝撃を受けたせいで失念しておりました。……これからも生きなければならないのであれば、私は私の義務を果たします。それに、あの子を弔うためという形を取れば、後ろめたさを感じることなく、真剣に取り組めると思うのです」
「左様でございますか」
女官たちはやや当惑していた。
「……ご無理はなさっていませんか」
一人が尋ねたが、ダーラーはこれを否定した。
「私の切り替えの早いのは昔からですよ。知っているでしょう。無理などしておりませんから、心配は無用です。それにもちろん、あの子のことを忘れることなど片時もありませんよ。今から私は、あの子のために、心を込めて行動するのですから」
その場で素早く考えをまとめたダーラーは、大まかに今後の計画を告げ、この場にいない他の女官にも伝えるよう命じた。
その日から早速、ダーラーは本格的な稽古を開始した。これまでにも女官たちには音楽や歌や踊りなどの特訓をさせてきたし、ダーラーも台本に手を加えたり、曲を作り直したりして、独自色を出すなどの試行錯誤をしてきていた。それに、今は協力を得づらくとも、以前まではサワーン・ワッタナー妃に助言をよく求めていたから、そこで得られた知識も余すことなく使った。これらの不断の努力の成果によって、稽古は滞りなく進んでいった。
今回お披露目するのはフォーンではなく、もっと多様な要素を取り入れた総合芸術──ラコーンという、女性が演じる舞踊劇だ。しかも、伝統的なものではなく、近年流行りの形式のものを採用する。これまで後宮で開かれてきたラコーンは決まった形式のものばかりだったが、チュラーロンコーン王はこれを改革している最中だった。この形式のラコーンでは、古いものだけでなく、新しい物語や有名な文学作品も題材にできるのだ。また、西洋の文化を積極的に学んでいるチュラーロンコーン王は、この舞踊劇において、オペラという西洋の歌劇の要素も取り入れている。今シャムでは正に新しいラコーンが生まれようとしているのである。ダーラーは更にその中に、ラーンナー式の歌や踊りを入れて、斬新な作品に仕上げようとしていた。ヨーロッパとシャムとラーンナーの文化を織り交ぜることで、観客の興味を引くと同時に、ラーンナー文化に少しでも興味を持ってもらおうというのが、ダーラーの狙いだ。
とは言えあくまでシャム式の舞踊劇が基盤であるので、今回ダーラーは外部から、シャムの舞踊劇に詳しい指導者を招いた。やはり専門家の言うことは的確で、学びも多く、皆の動きはみるみる上達していった。
尚、今回やる演目は、『プラ・ロー』という、有名な詩を元に作られた物語だ。詩の方は数百年前に書かれた作者不詳の作品で、一説にはラーンナーが起源だそうだが、シャムでもそれなりに有名な物語である。やはり、馴染みのある物語の方が、観客も集まりやすかろう。
『プラ・ロー』の舞台は、ソンとスアンという名の二つの町だ。どちらの町にも王様がおり、互いに仲が悪く衝突を繰り返していた。しかしある日、ソンの美しきお姫様であるプアンとペーンは、スアンの王子様であるローが絶世の美青年だと聞き、是非お近づきになりたいと考えた。そこで彼女らの召使いたちが恋の魔法の歌を教わるために冒険したり、ローの母親が呪いを使ってそれに対抗したり、色々なことが起こるわけだが、魔法を教えてくれた人物が精霊の軍を出動させ、加えてローに空飛ぶヤシの実を贈って、彼の逃走を手助けした。その後も色々とあるのだが、とうとうローは無事にプアンとペーンと面会、三人は恋仲になる。しかし両王家の対立は根深く、様々な思惑が飛び交った結果として争いが勃発し、ローとプアンとペーンと四人の召使いたちは毒矢によって殺されてしまう。その後二つの王家は和解をし、殺された七人は両家によって丁重に弔われる。以降、二つの町は友好関係を築くようになったという。
主要人物がごっそりと死んでしまう展開であるため、女官たちはダーラーの心の傷についてかなり心配していたが、ダーラーは問題ないと答えた。
「確かにこれは悲劇ですが、最後は彼らの死を悼んだ二つの都市が仲直りをします。シャムとラーンナーの関係性を示すのに、丁度良いお話ではありませんか。それにこの話であれば、最後の葬儀の場面を以って、あの子の死を悼むという文脈に繋げることも可能です」
監督者の考えがこうなので、筋書きの方にまたも変更点が加えられた。主人公たちが死んでしまう場面はより劇的に描かれ、最後に両国が仲良くなるところと、厳かに葬式を開くところは、殊更に強調された。
そして大事なのは、宣伝だ。新しいラコーンをやります、と知らせるだけでは五年前の二の舞。ダーラーは直接、王妃たちのもとに足を運び、歓談を交えつつ、ラコーンを見に来て欲しい旨を伝えた。この頃はダーラーと親しくしてくれる王妃が他にもそこそこいたので、その人たちだけは確実に呼びたかった。
こうしてダーラーたちは着実に準備を進め、遂に再び舞台に上がる日がやってきた。
開演前、ダーラーは客席の様子を見に行った。そして些か驚いた。
観客の数は、ダーラーが声をかけた人数よりも遥かに多かったのだ。幾らチュラーロンコーン王の新しい試みに関わることとは言え、こんなに集まるとは、嬉しい誤算だ。
見渡すと、観客席の最前列に、サワーン・ワッタナー妃が座っていた。ダーラーはどきんとして、思わず彼女の元に小走りで寄って行った。
「ご機嫌よう。貴方様が来て下さるとは思いませんでした。大変嬉しいのですが、その……私はてっきり、もう応援しては下さらないのかと思いました」
「まあ」
サワーン・ワッタナー妃は眉尻を下げた。
「ご機嫌よう。その節は、言い方がまずかったかしら。私の悪い癖ね。苦しい時に突き放すようなことをしてしまって、ごめんなさい。……でも、私は基本的には貴方様の味方だと、最初に申し上げたではありませんか。貴方様がまた面白いことを始められたとあっては、協力しないわけには参りませんよ」
「協力……? ひょっとして、お客様をこんなに呼んで下さったのは、貴方様ですか?」
「まあ、一部はそうでしょうね」
「それは……! ありがとうございます!」
「これだけ集まったのですもの、きっと面白いラコーンにして下さいね」
「それはもう、抜群に面白いものをご覧に入れます」
「フフッ。楽しみにしております」
準備があるので、この辺りで持ち場に戻らなければならなかったが、ダーラーはどことなく心が弾んでいた。サワーン・ワッタナー妃は変わり者で、確かに自分勝手なことをするけれど、味方になってくれればこんなにも頼もしい。それに、仲直りができたのも喜ばしいことだ。
うきうきしながら舞台袖まで向かった。楽隊と合流し、静かにラナートを叩く瞬間を待つ。木製の鍵盤が並び、撥で叩くと特徴的な美しい音がポコポコと鳴るこの楽器は、ラコーンには欠かせないものだった。
準備が整ったとの報告を受けたダーラーは、一つ深呼吸をすると、ラナートを奏で始めた。
今回のラコーンは、全く前例のない形で進行する。
伝統的なラコーンでは、演者はそれは豪華な衣装に身を包み、頭には長いとんがりのある大きな金色の帽子をつける。しかし今、演者たちは皆、ラーンナー式の衣装をまとっていた。例えば二人の姫、プアンとペーンの役者は、上半身には濃い桃色のスアー、腰から下には鮮やかな黄色のパーシン、肩にはくっきりと白いサバイをつけている。髪の毛も複雑な形に編み上げており、桃色の花をふんだんに差している。従来型の、目にも眩しいきらきらとした衣装とは大きく異なるが、こちらの色合いは非常に派手であり目立ちやすく、決して見劣りはしない。
また、ダーラーは踊りの独自性にこだわった。チェンマイの舞踊フォーンは、ラコーンよりゆっくりとしていて、より優雅な印象を与えるのが特徴だ。これについてダーラーは、事前に何度も指導者と意見の擦り合わせをして、音楽の速さや踊り子の動きを研究してきた。
そして、歌。歌詞はタイ語ではなく、チェンマイ語で統一されている。シャムの人々には馴染みがないだろうが、その差は、方言として聞けば意味は取れる程のものだから、理解するのに支障はない。やがて二人の姫がチェンマイ語で歌い出した。ラコーンでは主役級の人物は台詞を喋ることが多いが、ここは西洋の歌劇に倣って、全ての台詞に旋律がついている。合唱隊の歌も加わり、舞踊劇は本格的に盛り上がって来た。王子のローの役者も登場した。この後宮は男子禁制であるため、当然ローも女官が演じている。
ダーラーは一心にラナートを叩いた。長い劇中で、ラナートの音が途切れることはほぼない。そこで、疲れてしまわないよう、役割を分担して演奏することに決めたのだが、重要な場面の演奏はダーラーが引き受けていた。
そして問題の、非常に劇的な死の場面。フォーンのゆったりした動きを活かして、丁寧に丁寧に、息絶える瞬間を演じ切る。そして、彼らの死を悼み、丁重に葬式を上げる両王家の人々。最後の歌は、悲哀を込めつつ、二つの町で二度と悲劇を起こさないという決意を、皆で歌う。
終幕。
ダーラーは挨拶とお礼のために舞台に上がり、はらはらしながら客席の方に目をやった。観客たちの反応は多様だった。じっと舞台を見たまま動けずにいたり、涙を滲ませていたり、感心し切ったように頷いていたりしている。
どうやら上手く行ったらしい、とダーラーはほっとした。そして束の間、目を閉じて、亡き娘、ウィーモンナーク・ナピーシーに思いを馳せる。
──愛しい子。私は、この舞踊劇を以って、貴方が安らかに眠れるよう祈ります。
しばらくして目を開けたダーラーが壇上から降りると、真っ先にサワーン・ワッタナー妃が駆けつけてくれた。
「お疲れ様でございます。本当に素晴らしい出来栄えでしたよ。その若さでここまでのものを作り上げるとは、本当に見事なことです。素敵なものを見せて下さってありがとうございます」
ダーラーは自然に頬が緩むのを感じた。
「こちらこそ、見に来てくださって幸甚です。ご協力、感謝致します」
それから、他の王妃たちもダーラーに声をかけにやってきた。元から仲の良い者もいれば、あまり話したことのない者もいた。ダーラーは疲れていたけれど、目一杯の笑顔で彼女たちの賛辞に応えた。
チュラーロンコーン王も、再び直々に話をしにやってきた。
「よく頑張ったね。貴方の才能は以前から突出していたが、今回のラコーンを観て、才能に磨きがかかっていると感じたよ。本当に立派だった。楽しい時間をありがとう」
「もったいないお言葉にございます。こちらこそ、御礼申し上げます。お楽しみ頂けたようで、何よりです」
ダーラーは少し顔を上気させて言った。
元より自分に自信のあったダーラーだが、今回の成功は更なる自信へと繋がった。ここへの輿入れの時から決めていた、ラーンナー文化の普及活動にもっと力を入れようと、ダーラーは決意を新たにした。
仮にラーンナーがシャムに飲み込まれようとも、仮にシャムが欧米列強に蹂躙されようとも、美しいものや楽しいものは必ず人間の心を動かす。そう信じて、何があっても諦めずに、自分のやるべきことに挑戦し続けよう。
しかし数年後、欧米列強の方は、あまり気にする必要がなくなった。
チュラーロンコーン王の外交努力が実を結んだのだ。
周囲の国々が植民地化されていく中、チュラーロンコーン王は、シャムの領土を少しずつイギリスとフランスに割譲することで、シャムの中心地域を死守してきた。
加えて、イギリスとフランスは、それぞれがこの東南アジア地域で勢力を伸ばしていた。両国はやがて、シャムの地を挟んで敵対するようになった。このままではイギリスとフランスは、東南アジアでの覇権を巡って戦争を始めてしまう。正に一触即発である。
そこで、チュラーロンコーン王の策が活きた。まず、シャムは急速に近代化を成し遂げている最中だから、列強とはいえおいそれと手出しはできない。加えてシャムは、東側をフランスに、北西や南をイギリスに囲まれたまま、依然として多くの領土を保持し、未だに独立を保っている。
この稀有な状況を、逆にイギリスとフランスは利用することにした。両国は無駄な戦争を避けるため、シャムの地を緩衝地帯とすることを決めた。要は、お互いにシャムには立ち入らないという決まりを作って、両国が直に接触する事態を避けたのだ。これで、軍事衝突が勃発する危険は去った。
こうしてシャムは、独立国としての立場を守り切ることに成功したのだった。
後宮の雰囲気は、幾らか楽観的なものに遷移していった。チュラーロンコーン王への敬意も、一層深まった。皆が平和の世に感謝していた。
シャムと同じ括りとして、ラーンナーの地も守られたので、ダーラーも大いに安堵した。年老いた両親も、兄弟も、そして国民たちも、無事でいられることになって本当に良かったと思う。これなら皆、この激動の時代を、生き延びていけるに違いない。
その後ダーラーは、比較的穏やかに後宮や離宮で過ごすことができた。順調に歳を重ねるにつれ、他の王妃たちとも一層馴染むことができて、些細な諍いに巻き込まれることもかなり減った。一度、チェンマイに帰省する許可が与えられたので、ちょっと顔を出しに戻ったこともある。何だか心に余裕ができたような気分である。
この間にもダーラーはラーンナーの文化を守るためにせっせと動いていた。特に、後世になってもラーンナー文化が滅亡しないように、ということに心を砕いていた。そこで、曖昧だったしきたりを整理したり、消えかけていた伝統を復興させたり、シャムの人々にラーンナーの魅力を伝えたりと、どんどんと手を打っていった。
加えてダーラーは芸術だけでなく、国を発展させるための事業への支援にも興味を持ち始めていた。
「近頃はとてもお忙しそうですね」
ダーラーの部屋に上がり込んだサワーン・ワッタナー妃は、ルークチュップというお菓子をつまんだ。これは、緑豆とココナッツミルクと砂糖を練り合わせ、小さく丸めて果物の形にし、色鮮やかに着色して、寒天で覆った、可愛らしいおやつだ。
「そうですね。毎日、充実していますよ」
ダーラーはマンゴー型のルークチュップを手に取った。
「せっかくラーンナーの姫として生まれて、今はシャム王国の第五王妃としての立場なんですもの。この地位をもっと人々のために有効活用すべきだと思ったのです」
「フフッ。貴方様らしいお考えですね」
「忙しいのはちっとも問題ではないのですよ。だって私、芸術の才能がとっても豊かですから。文化の振興など、大した苦労ではありません。空いた時間で新しいことに着手しているだけです」
「……フッ」
サワーン・ワッタナー妃は吹き出した。
「フフフフ……! ああ、貴方様はやはり面白い。それで、新たに何を始めたのです?」
「西洋風の医療や農業を学んでいます」
「まあ、今度は国内の伝統ではなく、国外の新しい分野なのですね」
「ええ」
西洋の文化が絶対ではないとは言え、便利な部分は模倣する方が国民のためになるのに違いない。殊に医療に関しては、情報を集めやすかった。西洋医学はダーラーがまだ幼い時分にシャムとラーンナー双方にある程度伝わっていたので、既に基盤ができていたのだ。
だが、如何に医療技術の発展に力を注いでも、人間のできることには限界があった。
チュラーロンコーン王は病に罹り、五十四歳で崩御した。ダーラーが三十七歳の年のことだった。
皆から慕われていた王の死は、国中に衝撃を与えた。皆がチュラーロンコーン王を悼み、喪に服した。
後宮の雰囲気は、それはそれは重苦しく、沈痛なものになった。ダーラーも、喪失感に苦しんだ。子も夫も亡くしたダーラーは、異郷の地シャムで、寄る辺がなくなってしまった。これまでに王妃たちとの関係構築に努めてきたお陰で、互いに励まし合うことはできたが、そこはかとない疎外感を感じることは避けられなかった。
やがて、新しい王として、亡き第一王妃のご子息、ワチラーウットが即位した。王宮は彼のものになったので、チュラーロンコーン王の王妃たちは、住んでいた後宮から出て行かなくてはならなくなった。多くの者が実家に戻った。ダーラーは特別に、ドゥシット地区にある離宮に数年間滞在する許可をもらっていたが、じきにラーンナーに帰ることになった。
出発前にダーラーは、サワーン・ワッタナー妃に面会して、別れの挨拶を述べた。
「貴方様のお陰で、充実した時間を過ごせましたよ」
サワーン・ワッタナーは穏やかな口調でそう言った。
「私もです。私と親しくして下さって、誠にありがとうございました。もうお会いできなくなるのが、とても寂しゅうございます」
「あら、お会いできなくなるということはありませんよ」
サワーン・ワッタナー妃の発言に、ダーラーは首を傾げた。
「バンコクとチェンマイは、遠いとは言え、川を伝って行き来できるではありませんか。それに今は鉄道だってあります。将来的には、チェンマイまで線路を通す計画も立っているのですよ。これが出来上がれば、私たちは気兼ねなく会うことができるようになります」
「……なるほど」
「私はこれでもラタナコーシンの家の生まれですから、あまり自由に出歩くことはできませんが、いつかチェンマイへの旅行を申請したいと思っています。そしてラーンナーの方は王政を廃されてしまいましたから、貴方様は私よりも自由に行動できるでしょう? いつでもバンコクにいらして下さい。楽しみに待っておりますので」
ダーラーは何とも言えない温かな感情で胸が一杯になった。
「では、きっとまたお邪魔します。チェンマイでの所用が一通り済んだら、すぐにでも旅行の計画を立てますね」
「まあ。あちらでもお忙しくなるのですか?」
「ええ。……私は、ラーンナー文化の守護者として、後宮で色々と活動して参りましたが、やはり地元を直接盛り上げることの方が、効果が大きいのではないかと思っているのです。シャムに同化しつつある故郷の伝統的な文化を、復興させて支援したいです。手始めに、舞踊劇の団体を立ち上げるつもりです。それから、シャムからの観光客の誘致にも力を注いで、経済の発展と文化の周知に貢献します。それに折角、医療と農業を勉強しましたから、これも役立てたくて……。とにかく、やるべきことが数限りなくあるのですよ」
「フフッ」
サワーン・ワッタナー妃は上品に笑った。
「では、私も微力ながら応援させて頂きますね。お仕事が一段落ついたら、また是非お会いしましょう」
「はい。では、またいずれ、近いうちに」
こうしてダーラーは、女官たちを連れて故郷に戻った。この時点で、両親は二人とも亡くなっていたので、ダーラーは幾らか寂しい心地がしたが、やはり馴染みのあるチェンマイの風景には心が安らいだ。数々の仏教寺院と新しい建物が混在する、山岳に囲まれた美しい町。
人々はダーラーのことを喜んで出迎えてくれた。彼らの尊敬の念に応えるためにも、仕事はきっちりこなしたい。ダーラーは改めて気合いを入れ、己がこれから往くべき道を、しっかり歩もうと決心した。
帰還したダーラーの活躍で、ラーンナーは、徐々にシャムに取り込まれながらも、独自の文化を保ち続けることができた。珍しいものを見るために、シャムからの観光客も続々とやってきた。鉄道が通ってからは、その数はぐっと増えた。特に、ダーラーの立ち上げた舞踊劇の団体の公演は非常に人気が高く、皆の注目の的であった。フォーン・レプなどの舞踊もちゃんと評価され始めている。今やチェンマイは、休暇の旅行先として人気を博していた。
ラーンナーの精神は、強かに生き残り、今も確かに息づいているのだ。
仕事が落ち着いてきてからは、ダーラーは年に一度、サワーン・ワッタナー妃に会いにバンコクへ出かけるようになった。立派な別荘に迎え入れてもらって、二人は心置きなく会話を楽しんだ。ダーラーが楽器を奏で、それに合わせてサワーン・ワッタナー妃が歌い踊るというような遊びにも興じた。ダーラーの音楽への興味はとどまるところを知らず、伝統的な古楽器の他にも、西洋の楽器の演奏技術まで、あっという間に習得してしまっていた。サワーン・ワッタナー妃は大いに喜んで、楽しそうに西洋風の曲に耳を傾けた。
「貴方様の能力にはいつも驚かされます」
ある時サワーン・ワッタナー妃はこのようにダーラーを褒めた。
「こんなに沢山の楽器を使えるなんて……。それに、舞踊劇を作り上げる手腕も大したものです。最近も、独自に劇の台本を書いていらっしゃると聞いています。なかなかできることではありませんよ。それに、積極的に勉強をなさる姿勢や、自分の信念を曲げない意志、それに目標を持って迷わず行動できる胆力まで……。私は昔から、感心しきりですよ」
「何を仰いますか」
ダーラーはおかしくなって笑ってしまった。
「貴方様はただ、私が様々なことに手を出すのを、面白がって見ていらっしゃるだけでしょう」
「フフッ。フフフフフ」
サワーン・ワッタナー妃はちっとも悪びれずに笑い声を上げた。
「それは否定しませんが、しかし今のも紛れもない本心ですよ。……母でも妻でもなくなってしまわれた貴方様が、それでもめげることなく、むしろご自分の立場を存分に活用して人々ために尽力なさっている。……一人の女性の生き方として、これは非常に素晴らしいことです。私も見習いたいくらいですよ」
「貴方様だって、前国王陛下もお子様方もみんな亡くされたのに、強く生きていらっしゃるではありませんか」
「それはまあ、確かに……そうかもしれません。であれば私ももっと、シャムの国民のためになるようなお勉強をするのも、悪くないかもしれませんね。世の中はみるみる変わっているのですもの、置いていかれないようにしなくては」
「そうですか。新しいお勉強を始められた時には、是非私にも教えて下さいね。私だって、面白いことは嫌いじゃありませんから」
「ええ、是非ともそう致しましょう」
二人は笑い合った。
屋外では丁度、雨季特有の恵みの豪雨が降り始め、国土に豊かな潤いをもたらしていた。
おわり
シャムの奇才の王妃様 白里りこ @Tomaten
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