松葉のにおいは綺麗_5

 玄関の鍵は開いたままだった。

 日付が変わる直前なのに不用心だなと、そのおかげですぐに暖かい家に入れたのに、心配になりながら、扉を閉めて鍵を掛ける。扉一枚隔てただけなのに、家の中はほっとするほど暖かい。靴を脱いで玄関ホールに上がり、マフラーを解いていると、居間の方から足音がする。「おかえり」と、半纏を着た先生がひょこひょこと歩いてきた。

「校了、終わったん?」

「ええ、なんとか。終電には間に合いました」

「お疲れ様。関東炊きあっためてるよ」

「関東炊き?」

「おでんのこと」

 先生はたまに聞き慣れない言葉を使う。それを聞き返す度に可笑しそうに俺に分かる言葉で言い直す。そういう先生の悪戯げな様子が、嫌いではない。

 玄関ホールのコート掛けに、マフラーとチェスターコートを掛けて、鞄を持って洗面所に向かう。手を洗って、うがいをして、台所の方へ向かった。ひと月も一緒に暮らしていれば、帰った後の行動パターンもおおよそ予想がつくようになる。俺の帰りが遅いときには、先生は、居間で食べられるように、トレイに食事を用意してくれる。台所をのぞくと、案の定、食堂のテーブルの上に、定食屋で見るようなトレイがのっていて、その上に、白米と漬け物が置かれて、まだ空の深皿が置かれていた。

「どれ食べる?」と尋ねてくる先生は、コンロの大鍋の前でお玉を持っている。鞄を食堂の椅子に置いて先生のそばに立つと、出しのいいにおいがする鍋からはもうもうと湯気が立ち上っている。見てすぐに分かる具材は、ちくわにはんぺん、卵、巾着ぐらいか。その下にもぐが沈んでいるかもしれないので「ひととおりお願いします」と伝えると、「ぜいたくやなあ」と先生が笑って、深皿を手に取る。

「ムックはいつ発行?」

「三月の頭には。それより前に持ち帰ってくると思いますけど」

「そう。ちょっとは楽しみやな」

「本を出すなんて珍しくもないでしょう?」

「君が、僕の話を結局どうまとめたんかがえらい気になる」

 先生が、楽しそうに言う。

 結局、心中をせずに帰ってきた。このまま死んでも、この人と死んだのが自分だと何一つ証明出来ないかもしれないと思うと、いまはそのときではないと思った。先生にキスをして、おそるおそる目を開けてから、一緒に帰りましょうと言った。その一瞬、先生の表情は、どちらかと言えば、歓喜に揺れ動いた。自分が選択を間違えなかったことを悟って安堵して、一緒に暮らして、生活して、それから一緒に死にましょうと続けた。つまり結婚やなと先生が笑って、制度上はそういう話になることまで考えが及んでいなくて、すぐには返事ができなかった。結局、引っ越しや互いの仕事の関係で、籍を入れるのは伸ばし伸ばしになっている。でも、そろそろいい加減、はっきりさせたい気がしている。

「それを確認したら、入籍届を出しに行きませんか」

「ええよ。どこの役所に出しにこかなあ」

 あっけらかんと、何でも無いことのように先生が答えた。少しは構えたこちらの緊張など気付いたふりもない。もしくは、先生にとっては既定路線だから、緊張する必要ももうないのかもしれない。深皿には、ちくわとはんぺんと卵と巾着と、大根が二きれと煮崩れたジャガイモがのっている。先生はトレイに深皿を戻す。いっぱいになったトレイを持ち上げると、先生は、湯呑みと急須がのった小さいトレイの方を持ち上げる。湯呑みは二つあったから、お茶を飲みながら、俺の夕食に付き合ってくれるのだろう。

 居間の卓袱台にトレイを置いて、座布団に正座をする。先生が、俺の右隣に、行儀悪く足で座布団をずらしてそこに正座して、卓袱台にトレイを置く。そして、不意に俺の右耳の裏に触れた。

「香水付け直した?」

「……残業が長くなったので、折角なので」

「うれしいわ。パートナー冥利に尽きるね」

 にこにこと先生が話す。先生が選ぶ香水は松のにおい、松葉のにおいがするものだ。会社に持って行く鞄のポケットに、練り香水をしのばせている。遅くなりそうだったから、夜食をとる前に、練り香水を付け直した、そのことを言っているのだろう。

 先生が顔を寄せてくる。思わず目をつむると、額に軽く唇が触れる感触がした後、感嘆したような、安心したような、暖かいため息がした。ゆっくり目を開けると、先生が、眩しいものを見るように少し目を細めている。

「今日も、綺麗」

 わずかにうっとりと先生は言う。そのことをうれしく思う。先生が、松葉のにおいをまとう俺のことを綺麗だと言ってくれるのを、うれしく、得難く思う。どうか、いつかこの人が死ぬその日まで、俺のにおいが綺麗に映っていますようにと、願うでも祈るでもなく、考えた。


《了》

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松葉のにおいは綺麗 ふじこ @fjikijf

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