松葉のにおいは綺麗_4
ホームの端の小さな売店だから、売っているものはごく限られている。柿の葉寿司。奈良県の名物。柿の葉でくるむのは保存性を高めるため、つまり海無し県で魚を食べるための工夫なのだという。先生は、小さなショウウインドウの端から端へ、視線を何往復もさせている。魚に色々種類があって、その組み合わせで悩んでいる、らしい。
「よし、決めた」
自分に聞かせるように言って、先生は、屈めていた腰を伸ばす。それから、店員に声を掛けて、色々な種類の魚が組み合わせられた八個入りの箱を示して、右手でピースサインを作った。二つ、ということは、先生も一箱分食べるのか。ビニル袋に箱が並んで入れられて、その上におしぼりだけが置かれる。手でつかんで食べるらしい。先生が代金ちょうどのお金をカルトンに置いて、箱の入ったビニル袋を受け取った。
車を駅の近くの駐車場に置いて、特急列車に乗ろうとしている。どうしてわざわざ車を置いて行くのか尋ねると、先生は「電車に乗らんと、帰った気ぃがせん」と、どこか憎々しげに答えた。
列車の席は二列と一列に別れていて、先生が取ったのは当然二列並びの方だった。列車の中程の席の、窓側に先生が座るので、隣の席に座る。世間は平日だからか、座席はほとんど埋まっていなかった。ぎりぎりに乗り込んだから、すぐに扉が閉まる音がして、体を後ろに押されるような慣性を感じた後、窓の向こうの景色が後ろに流れ出す。先生は、座席に着いた簡易なテーブルを出して、さっき買った柿の葉寿司の箱を並べている。
「さっさと腹ごしらえしよ。電車降りてもどうせろくに店もないんやから」
「随分見知ったところみたいに言うんですね」
「そりゃあ。生まれ育ったところやし」
でも、もう何十年も帰っていないと、先生は車の中で教えてくれた。大学で京都に出て、それから一度も、冠婚葬祭にも盆暮れ彼岸にも、帰らなかったのだと笑いながら教えてくれた。先生にも親が居た、当然のことなのにしっくりこなくて、それをそのまま伝えると、先生はまた笑って、助手席に浅く座り直した。ワイシャツの衿が詰まって苦しそうに見えたが、先生は気にした様子もなく、脚を組んだ。「僕の親は女αと男Ωでね」と、奇妙に凪いだ声が、おとぎ話を語るように教えてくれた。視線だけで横を見ると「前向きぃ」と怒られて、溜息の後に「僕は、どっちの親が僕を生んだのか知らんのや」と続けた。それはつまり、母親と父親という言葉を使えない、ということだった。性にかかわらず、こどもを産んだ方を母親、そうでない方を父親と呼ぶのだから。先生は、車の中ではそれ以上親のことは語らず、目を閉じて眠ったふりをしていた。車を置いていく駅に近付いて目を開けて助手席に座り直したのだから、あれは、寝たふりだったのだと思う。
箱を開けると、白色がかった緑色の小さな直方体が箱にぎゅうぎゅうに詰められている。その上に、小さな紙が置かれていて、どういう順番にどの魚の寿司が詰まっているかを示している。鯖、鮭、鯛、鯵。四種類の魚の寿司が、二個ずつ。柿の葉の葉脈は太くて、かたそうで、目立っている。先生は、箱の真ん中の柿の葉寿司を手に取ると、箱の蓋に置いて、葉っぱを開いていく。白っぽい魚の身が見えて、多分鯛だろう。口を大きく開けて一口で全部頬張ると、何度か顎を動かして飲み込む。「うん、美味しい。ちょっと甘いけど」と感想を言って、次の柿の葉寿司に手を伸ばした。
箱の左上の柿の葉寿司を手に取って、先生がしたように、箱の蓋の上に置く。葉っぱを開いていくと、青い川がついた白身の魚が、酢飯の上に乗っている。鯖だ。一口で頬張って、噛んでいくと、魚の脂を酢飯が少し和らげて、そこに柿の葉の青いかおりが合わさって、不思議と食欲をそそった。飲み込んですぐに、次の葉っぱに手を伸ばす。話さないのに、ちょうどいい理由だ。先生も、次の柿の葉寿司の葉っぱを開いて、ピンク色の魚がのった寿司を口に入れている。箱の蓋に、柿の葉が二枚重なっている。寿司を全部食べ終わって、柿の葉が八枚ずつ重なる頃には、目的地に着くだろうか。
昨日見た夢をはっきり覚えている。
学校で、誰かを待っていた。窓の外には、学校の裏山の木の葉が揺れていた。川の水が流れるごうごうという音が聞こえていた。教室の床の木目は暗くてよく見えなかった。机も椅子も一つも置かれていなくて、窓の桟に腰掛けるしかなかった。黒板は雑に消されて、チョークの粉が残っているから、黒板消しがどう往復したかも分かった。黒板の隅に、日直の名前だけ書いてあった。大宮、と一つの苗字の下に、凪と嵐と、俺と姉の名前が書いてあった。教室の中をそうやってぼんやり眺めながら、誰を待っているのかが分からなくなって、途方に暮れていた。蛍光灯はついていなかった。雨はなんとか降っていない、暗い曇り空からの自然光だけが、俺の視界を助けてくれていた。
こつこつと足音が聞こえた。廊下の方からだった。教室に少しずつ近付いてきて、立ち止まったかと思うと、がらりと教室の引き戸が開かれた。先生だった。黒い髪を、かんざしで、耳と同じぐらいの高さにまとめて、細い銀色のフレームの眼鏡を掛けていた。出会ってから一度も見ていない洋装で、青い色のワイシャツに白いベストを重ね着して、ベージュのコーデュロイのパンツを穿いていた。シャツと同じ青色のスニーカーは、少し泥で汚れていた。先生は扉の手前で立ち止まったまま、何か言おうとして口を開いて、そこで、目が覚めた。
ただそれだけの夢。
今朝、ホテルを出るときには、先生の服装が夢と全く同じだったから驚いた。特急列車に乗って、降りて、バスに乗るまで洋装を見ていたらさすがに見慣れはした。そうした服装をしていると、今も教鞭を執っていると言われても納得してしまいそうなたたずまいである。椅子に座るときにも正しく背筋を伸ばしているからかもしれないし、皺の刻まれた目元に隠しようのない知性がきらめいているからかもしれない。柿の葉寿司を食べながら、なぜ柿の葉に寿司を包むと防腐になるのかを学ばされた。柿渋、タンニン、青いかおりの理由。そんな話をぼんやりと聞きながら、先生の親のことを考えていた。女性でα性と、男性でΩ性、どちらが自分を生んだか、先生は分からない。そのことは、オオカミの研究者である先生が、どうして、人間のαΩ性にも詳しいのかの理由のうちの一つなのだろう。そうなると、オオカミとそのことと、どちらが先だったのだろうと他のことが気になりもする。
電車の中での話題が当たり障り無い柿の葉寿司だったのは、少ないながらも近くの席に乗客がいたせいもあるだろう。今、バスの中には先生と俺と、乗客は二人だけだった。後ろから二番目の二人掛けの席に座っているから、運転手とも距離がある。少なくとも話し声は聞こえないだろうと思って「先生」と声を掛ける。窓側の席に座った先生が、視線は窓の外に向けたままで「なあに」と答える。窓の外を流れていく景色は、田んぼと畑と、時折民家。駅前は、コンビニや雑居ビル、アパートがあって少しは賑わっていたのに、バスに乗って十分もすれば、途端に長閑な農村といった景色になった。
「先生の家族は、どんなだったんですか」
道端にぽつんと置かれたバス停らしき看板を通り過ぎて、赤信号でバスが止まる。先生の体が少し前に傾いて、すぐに後ろに戻る。一度離れた背中が背もたれについてひと呼吸置いてから、先生がこちらを見た。「面白くもないけど」と言う先生の声は、確かに楽しくはなさそうだった。先生をじっと見つめていると、先生は軽く席に座り直して、前を向く。まなざしはまっすぐだったが、焦点は合っていないように見えて、バスの中を見ているわけではないのだろう。
「両親は、同じ集落の出身で、まあ、幼馴染みやったんやって。あの時代でこういう場所やったらようある話なんかもしらんけど、親の親同士が、じゃあこども同士結婚させよ言うて、口約束してて、親も別にそれに逆らう気はなかったから、学校……尋常小学校と、中学校と、男親の方は京都の高校まで行った言うてたかな」
「戦前に、Ωで高校まで進学なんて、凄いですね」
「そう思うやろ。人体実験と引き替えやったらしいわ。純国産の抑制剤。それが完成すれば、Ωばっかり集めた工場作るよりも、よっぽど効率よく徴兵出来るから」
Ωのホルモンバランスを調整して、発情、ヒートを起こさないようにするための薬剤が「抑制剤」。簡単に「ピル」と呼ばれることの方が多い。Ω自身がヒートによって身動きがとれなくなる期間を無くし、また、周囲のαによる性被害をもなくすことができる薬剤に、世話にならないΩの方が昨今少ない。ただ、妊娠を望むなら服薬を止めなければいけないなど、決して万能ではない。
戦前であっても、現代ほどではないが、抑制剤に似た薬剤はあった。常に服用してヒートを抑え込むという種類のものではなく、ヒートが始まってから服用してヒートを即座に終了させるというような薬剤。おそらく、性交後に服用する緊急避妊薬と似たような作用機序だったのだろう。その薬剤を開発したのは、欧州のとある一国の科学者で、その国は、敵国だった。故にこの国は大戦中、Ωをいかに戦争に使えるようにするかに苦心した。その施策の一つが、先生が語った、治験を受ける代わりにΩを進学させる、というものだったのだろう。
「実際、頭はいい人やったんやで。地質学が専門でね、フィールドワークをせないかん人やったから、抑制剤は喉から手が出る程欲しかったんやろ。お上の方も、地図が描けて地質も分かる、理由があって前線に出されへんインテリなんてちょうど良かったやろから、利害の一致やね」
「もう一人の方は」
「女性ばっかりの軍需工場まで働きに行ってたって、大阪の方まで。空襲もなんとか逃れて、そのまま大阪で終戦になって、徴兵はされんかった男親とさっさと入籍して、わりかしすぐ生まれたんが僕。戸籍は女親の方に入ってるんやけど」
「そこでの父母はどうなってるんですか」
「女親の方が母親、男親の方が父親になってるよ。戸籍上はね。でも僕は、親のことを父とか母とか、呼んだことがなかった。呼ぶなと言われたし、言ったとおり、どっちが実際に僕を生んだのか、教えられんかったからね」
「どう呼んでたんですか」
「名前。女親がこずえ、男親がはじめ。こずえさんとはじめさん。そんなことやってるの、うちの家しかなかったから、奇妙な目で見られてた。小さい集落やしね。でも、御池さん家やったら、みたいにぎりぎり許容されてた感じかな」
「お仕事は何を」
「男親が小学校の先生。女親の方は和裁。農業は触ってなかった。親の親たちは畑も田んぼも持ってたんやけどな。もしかしたら、孫に継がせるんを期待しとったんかもしれんけど」
先生は口を閉ざして、肩をすくめてみせた。そうした祖父母の目論見が断念しただろうことは、先生の進路を考えてみればすぐに分かる。そして、バスが停車して、客が乗り込んでくる。先生が口を閉ざしたのは、人が増えた以上、これ以上は話をしないということなのだろう。まだまだ話が聞き足りなくて、黙ってしまった先生の横顔を見つめる。バスが動き出して、上り坂を進むためのやかましいエンジン音が聞こえ始めると、先生は、一瞬だけ視線をこちらへ寄越して「続きは、後で」と言う。何も考えずに頷いて、前を向く。乗り込んできたのは腰が曲がった老婆で、風呂敷包みを片手に提げて。進行方向に平行なベンチに腰掛けている。これだけエンジン音がしていれば聞こえないだろうに、先生も用心したものだと自然と、手が、耳の後ろを触っていた。今朝も先生が練り香水をさらりと塗り込んだ部分。先生が綺麗だというかおり、松葉のにおい。先生がこのにおいを好きだという理由も、これで分かるだろうか。
バスを降りた対岸に、墓石が固まっているのが見えた。集落の墓地なのだろうと思って眺めていると「うちの墓もあそこにあるよ」と先生が言う。先生は、俺の隣に建って、ガードレールに手をついて少し身を乗り出しながら「流石に墓碑銘までは見えへんなあ」と呟いた。バスを降りる直前に、先生が生まれ育った集落に唯一のバス停だと聞いてはいたが、墓まですぐそこにあるとは、本当に先生の生まれ育った場所なのだと、コンクリートの地面を改めて踏みしめる。
「墓参りには」
「行かんよ。葬式にも出んかったのに、今更」
ガードレールから手を離して、先生は道路の端を歩き出す。バスが走っている道沿いに、時折ぽつりぽつりと集落がある。民家とわずかばかりの畑と、郵便局や農協、公民館や寺社が集まっているのを何か所か通り過ぎてきた。道路は川のすぐそばを走っている。それ以外はただ山があるばかりで、もう冬にさしかかろうというのにわずかにのこった紅葉と、紅葉のせいで余計に青さが際立つ常緑樹の葉が、風にそよいでいる。
先生は、車どおりのない道路を渡ると、寺か神社かといった見た目の建物がある敷地に迷いなく踏み込んでいく。駐車場代わりなのだろう空き地には白い砂利が敷き詰められている。先生は、車が停まっていない空き地を突っ切って、敷地の本体であろう建物も無視して、奥へと進んでいく。畑や果樹園がありそうにも見えない。ただこの先には山しかないだろう。だから今日の先生は洋装だし、俺にも洋服を着るように言ったのかと、今更ながら気が付く。先生は山に入る気なのだ。
案の定、先生は、森の手前で、しかも、獣道のようにわずかだけ木々が疎らになった森の手前で立ち止まる。俺が追い付くと、「じゃ、黄泉路を行こか」と、内容とそぐわない明るい声でうそぶいて、森に足を踏み入れた。ぐわしゃ、ぐわしゃと落ち葉が踏みしめられる音。少し凹んだ先生の足跡をたどるように、先生に続いて森に入る。
森の木々の下に入ると、昼間なのに途端に薄暗い。頭上はもれなく木々の葉が閉ざしている。重なり合った木々の葉の、わずかな隙間を射し込んでくる木漏れ日が明かりの頼りだった。とはいえ、昼間だから視界に困るほどの暗さではない。距離が離れていないこともあって、先生の白いベストの背中はよく見える。先生は、山歩きには慣れているだろうに、俺を気遣ってだろう、俺が問題なくついていける、とてもゆっくりしたペースで歩いていく。
「両親は悪い人やなかったけど、どうしてか、どちらが僕を生んだかだけは口を濁して、教えてくれんでね」
やわらかい落ち葉の敷き詰められた斜面を進みながら、先生が話し出す。バスで中断した話の続きだと分かった。黙ったまま、先生についていく。
「ずっと疑問やった。何があってもすぐ噂になるような田舎で、自分たちの性も経歴も公言して憚らんような明け透けな人たちやったのに、そのことだけは頑なやったから。今思うたら、それを言われへんからこそ他のことは隠し立てせんかったんかもしれんね。その方が余計に悪目立ちするのに」
木を隠すなら森の中という言葉が頭を過ぎる。確かに、似たような隠し事を他にもしていれば、誤魔化せたのかもしれない。でも、先生の聡さからすれば、そんな程度の工夫は焼け石に水だったのではないかという気もする。
「女親の方の、法事かなにかの日やったかな。男親の方が見当たらんなったから、探しに行った。なんとなく思いついて、さっき川向こうに見たやろ。あの墓の方に。そしたら、男親は、うちの墓やない墓石の前にしゃがんで手を合わせとった。直感って、なんでそういうときばっかりよう働くんやろうね。絶対に気付かれたらあかんと思うた。無縁仏の大きな塚の後ろに隠れて、男親が墓の前を立って、足音が聞こえなくなるまで待ってから、彼が見てた墓の前まで行った。さあ、彼が手を合わせてた墓は、なんやったと思う?」
斜面が少し急になる。獣道すらない、なんの手がかりもない場所なのに、先生は道が見えているように迷いなく進んでいく。もしかしたら、本当に先生には道が見えているのかもしれない、先生だけにある共感覚によって。なんやったと思う、という先生の問い掛けに、分かりません、と返事をしようとしたところで、足元がずるりと滑る。顔面が地面にぶつかる寸前で、なんとか落ち葉に手をついた。両腕に力を込め、前後に少しずらした両足にも、落ち葉の下の地面を感じながら力を込める。ゆっくり体を起こしていく途中で、先生の手が差し出されて、それを握る。大きく乾いたてのひらは、冷たくこごえている。顔をあげると、先生は、暗い目で笑っていた。
「彼が参ってたんは、水子の墓やった」
膝についた土を払う間もなく、先生は俺の手を引いて斜面を登っていく。軽く引っ張られながら、呆然と足を動かした。女αと男Ωの両親、どちらが自分を生んだか教えてもらえない、親が参っている水子の墓。有り得ない話ではない、でも、聞いたことはない。時期がずれていた可能性もあるが、先生の両親の態度からはきっとそうではないと感じる。
「先生の親は、先生と同時に生まれるはずだったこどもを、流産した」
自然と震えてしまった声で伝えた答えに、先生は何も言わなかった。それが答えだった。ぐわしゃぐわしゃと落ち葉を踏みつぶす音だけが束の間聞こえて「正確には死産やから、出生届と一緒に死亡届を出したという話やけど」と、追伸のように先生が付け加える。
「名前はこまり。小さい鞠で小鞠。性別は女。戸籍上は僕の姉ということになってた。母親が女親、父親が男親というのは僕と一緒やったけど、実際はどちらかが逆やったんたろうね。結局確かめたことはなかったから、わからへんけど」
つまり、その水子が生きていたら、先生には双子の姉がいたということになる。はじめ、執拗に姉のことを聞かれたのはそのせいだったのかもしれないと、得心する。先生にとって、あの数々の質問は、俺を知るためでもあり、自分を知るためでもあったのかもしれない。
「さて、それを知った僕はようやく十になろうかというこどもやったんやけど、その後どうしたでしょう」
一転して明るく軽い声で先生が言う。自分の立場に置き換えて考えてみる。もし自分が一人で育って、急に、死んでしまった双子の姉が居たのだと知ったら。それも、十歳にもならないようなこどもの頃に、そんなことを知ったとしたら、長期的にはともかく、そのときその場ではどういう行動をとろうとするか。
「少なくとも、家には帰りたくなくなりそうです」
「正解」
拍手の代わりだろうか、先生がひゅうひゅうと口笛を吹く。先生に返事をするように、ぴちちちちとどこかで鳥が鳴いた。斜面が少し緩やかになって、木漏れ日が増えているような気がする。
「家に帰りたくないいうか、親の顔を見たくなくなってね。それで、今いるこの森に逃げ込んで、こうやって山を登ってみた。どこに行こうというつもりもなかったけど、そうやね、あのとき僕は死んでもいいと思ってたし、むしろ死にたいとすら思ってたんかもしれん」
先生は、急に左に曲がる。ここまで斜面を登ってばかりだったのに、急に、傾斜の向きと直角に、横切っていくことになる。足元の落ち葉を踏みしめる柔らかい感触は変わらないのに、音が静かになっていく。足元を見ると、幅の広い広葉樹の落ち葉の他に、茶色く朽ちた細い葉が見られて、しかも、幅の細い葉の方が多いぐらいだった。針葉樹が増えてきているのだ。針葉樹と聞いてすぐに思い浮かぶのは松。この数日ですっかり覚えた、先生が好きなにおい。先生が綺麗だというにおい。
そして、少し先に、それまでよりも木が疎らになって、けれども木漏れ日が増えたわけではない、奇妙に開けた場所があるのが見えた。その中央に木が一本生えている。他よりも大きな木だ。他の木を寄せ付けない代わりに、樹冠も大きいから、薄暗さは変わらない。足元の落ち葉はいよいよ針葉樹のものばかりになって、音がしなくなる。代わりに、自分の息があがっている音に気が付いた。先生は汗一つかいていない様子なのに、背中を汗が伝っていくのに今更気が付く。
先生は、奇妙に開けたその場の中央にある大木の根本まで来ると、立ち止まって、頭上を見上げた。つられて上を見る。青々とした松葉の隙間から木漏れ日が落ちてくる。何十年掛かって大きくなったのか分からない大きな松。息を整えようと深く息を吸うと、青々としたにおいが鼻の奥をくすぐる。
「そのときここで野犬を見た」
先生が、松の樹冠を見上げたままで言う。見上げたまなざしをわずかに細めて、時間も距離も遠くを見ているのがすぐに分かる姿だった。
「森で迷ってどっちに進んでええんかわからんかったときに、綺麗な光が見えた。木漏れ日をもっと明るくしたような、幾重にも幾重にも重ねたような綺麗な光。それをたどったらこの松のところまで来て、根元に大きな野犬が座っとった。その野犬がまた、きらきら眩しくて、綺麗に光って見えた。野犬の怖さなんて大人に言われて分かっとったのに、あんまり綺麗やったから近付こうとしたら、野犬の方から逃げていった。その後も少しの間、綺麗な光は残ってたけど」
「その光は、本当の光じゃなくて、においが見えたものだった?」
「そう。一部はたぶん、松葉のにおい。でも、次第に薄れていったから、そのほとんどはあの野犬のまとってた、におい」
先生は、より一層目を細めて、苦々しく笑う。その表情の理由に関われないのを悔しいと思う。俺は、先生のことをきちんと好きになってしまったらしいと、分かってしまう。
「今更やけど、僕はαでね。この共感覚のおかげで、Ωのヒートに当てられるっちゅう経験はせんで済んだけど、だからこそ、後からあれが野犬やないと分かってしまった。僕が見た、野犬やと思うてたあの動物は、きっと、ニホンオオカミのΩ、そうでなくても少なくともαの個体やった。βやのうて」
「だから、先生は、ニホンオオカミの研究者になろうと思った」
「うん。アホみたいに単純やろ? 綺麗なもん見て死に損なったから、せめてそれをもう一回見てから死のうと思っててん」
けらけらと声すらあげて笑って、先生は俺を見る。眩しくてうつくしいものを見るときのように目を細めている。先生が俺の誘いに乗ってくれた理由が俺だけじゃないのが悔しいのに、運命的にも感じてしまって奇妙に腹立たしい。俺はきっと、怒りと嫉妬でひどく醜い表情をしているだろうに、先生はうつくしいものを見るまなざしを変えない。自然と頬を伝う涙を先生の冷たい指先が拭う。ぐずりと鼻水をすすると、先生がまたおかしそうに笑って、俺の両手をとった。
「君が家に来たときにあんまり綺麗な光が見えたから、びっくりした」
「びっくり、してたんですか」
「うん。あの場でぽっくりいかんで良かったわ。君の方から一緒に死なへんかなんて誘ってくれるなんて、えらいラッキーやった」
「本当に、俺と一緒に死んでくれる気だったんですか」
「勿論。僕には君のフェロモンが見えた、きれいなきれいな、松葉に彩られてたんと同じにおいが見えた。僕も科学者の端くれやからおとぎ話は信じてないけど、これを運命と呼ばずしてなんと呼ぼうか」
演技がかった口調に、こんなときなのに笑いが漏れる。つられたように先生が笑って、片眉をあげて、手を握る力を強くする。
「カバンに縄が入ってるから、一緒に首を吊ってもいいし。このまま何も食べずに往生してもいい。君とならどんな黄泉路も行っていい。さあ、どうしたい。大宮嵐。僕のオム・ファタール」
最後の最後になって運命なんて言葉を持ち出すなんて、ずるい人だなと思った。もしかしたら臆病なのかもしれない、俺がどれくらいまで先生の言葉を受け入れるのか図っていたのかもしれない。先生が肩から提げているカバンの中身を俺は見ていない。交通費を支払っていたから財布は持っているはずだ。携帯電話は持っているだろうか。連絡がつかなかったとき、携帯電話を持っていれば位置情報で死体をさっさと見つけてもらえるかもしれない。そうでなかったら、ただ失踪事件として片付けられて、死体は見つけられないかもしれない。それも、先生と俺の失踪が結びつけられることは、きっと、ないだろう。先生はともかく、俺は、身分証明書の類は車に置いてきてしまったから、時間が経ってから発見されたときに、俺だと分かってもらえないかもしれない。
先生の手を強く握り返す。自分からだれかにキスをするなんて初めてだなと考えながら、先生の唇に自分の唇を重ねる。先生がどんな表情をしているのか確かめるのが怖くて、目をつむる。重ねた唇は、乾いて、少しだけ痛かった。
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