松葉のにおいは綺麗_3

 年齢の割に肉付きが良く、しかし、肌のきめにそって入った皺が、しっかりと経た年月を伝えてくる、意外と短くて太い指が、白髪をねじりあげてまとめている。逆の手がかんざしをもって、白髪をねじった根元に宛がう。それと同時に、白髪をまとめている手が動いて、かんざしの棒の部分に髪が巻き付く。かんざしがぐるりと時計回りに動いて、一周すると、白髪の流れがゆるやかにらせんを描く。初めの位置に戻ってきたかんざしをてこのように持ち上げて、かんざしの先端を、白髪のらせんの下にぐいと差し込むと、手がかんざしと髪から離れる。手が離れても髪は落ちてこなかった。手品を見ているようだ。

「じゃあ」と言うと、先生の左手が、かんざしを引き抜く。不可思議に一本の棒でまとめられていた髪は簡単にほどけて、細い白髪がはらはらと項に、肩に、背中にかかった。先生がこちらを振り向いて、かんざしを持った左手を差しだしてくる。

「はい、やってみて」

 先生は、すこぶる楽しそうな笑顔であった。かんざしの頭に付いた真珠の飾りの輝きがかすんでしまいそうに思う、それはさすがに贔屓目が過ぎるか。先生に宛てて買ったかんざしで、先生の髪をまとめる。それは確かに、昨日の道中で簡単に約束したことだったが、本当にさせてもらえると思ってはおらず、ついさきほど、着物を着終えた先生から声を掛けられ、やり方を見せられたばかりだ。上手く出来るとは思えない。ただ、何やら期待しているらしい先生を裏切るのも、先生がそれぐらいで怒ったり落胆したりするとは思えなくともと、心が痛んで、昨晩箱から出されてさっきまで卓袱台の上に置かれていたかんざしを、先生の手から受け取る。全体は金色で、真珠だけ色が違って、飾りが目立つ。棒の先端は丸みを帯びてはいるが尖っていて、まとめた髪の隙間に差し入れるのにはこの形が役立つのだろうか。ともかく、やってみるしかなかった。

「失礼します」

 声を掛けて、かんざしを畳の上に一度置く。両手を先生の髪と体の間に入れて、髪をすきながら、一つにまとめていく。少しぐらいくすぐったがられるかと思ったが、先生は全く動じずに、正座をしている。「髪ねじっていくときは、時計回りにね」と、平静な声で助言さえ飛んでくる。助言はありがたく、それにしたがって、一つにまとめた髪を時計回りにねじって、右手で持つ。左手にかんざしを持って、先端を髪をねじった手元に宛がう。ねじった髪束をかんざしに巻き付けてから、かんざしを時計回りに動かしていくが、先生がしていたときと違って、髪束がまとまっていかない。むしろ、広がっていって、ほどけてしまう。髪が肩にあたったのか、先生が軽く笑って「もっときつうやったらええよ」と言う。きつく、といのは髪束を持つ手の方のことだろうか。かんざしを畳に置いて、もう一度髪をまとめて、きりきりとねじる。ねじった根元に、斜めになるように、下からかんざしを宛がう。髪束がある程度ぴんと張るように気をつけながら、かんざしの棒の部分に髪がまきつくように、かんざしを時計回りに動かしていく。今度は、髪がほどけることなくまとまっていく、のと同時に、かんざしを動かす左手にも重さを感じる。かんざしが最初の位置に戻ってきたところで、かんざしの先端を支点にするような意識でかんざしを持ち上げていく。ほぼ百八十度倒したところで、髪に隠れて見えないかんざしの先端を、まとめた髪の根元に差し込む。そろりと手を離すと、まとめきれなかったらしい髪が垂れてきたが、かんざしが落ちてきたり、髪がほどけたりすることはなかった。どうやら、きちんとできたらしい。

「二回でできるんやったら上等上等。ありがとう」

「いえ……先生はどうして、かんざしで髪をまとめるようになったんですか」

「はじめはかんざしなんて上等なもん使ってなかったよ」

 髪がまとまったのを確認するかのように、先生は、項に手をやる。くるくると丸まった髪の流れをたどって、かんざしの先端の真珠の飾りに触れて、手を下ろすと、卓袱台に手をついて立ち上がる。替えの着物を持ってきていたのか、今日は、昨日までと違う濃い茶色の着物の上に、黒い毛糸で編まれたニットを羽織っている。足袋も、白色ではなく、むらのある黒色だった。

「髪伸びてうっとうしいな思うたら、そこに鉛筆が見えたから、これでどないかならんか思ってやったら、うまいこといった。要するに棒があれば髪がまとめられるんやったら楽やな思って、鉛筆やら箸やらでまとめてたら、見かねた周りが買うて来るようになったから、かんざし使い出しただけで。今でもあんまり、自分では買わへんね。服と一緒にすすめられたら買うぐらいか」

「じゃあ」

 昨日まで先生がつけていたかんざしは誰が買ったものなのかと、気になって、そのまま口にしそうになったのを、すんでのところで言わずに済む。口元を咄嗟に手で押さえていた。まるで、ふつうに嫉妬しているような言い草ではないか。こんなことを言いそうになるのは初めてで、姉に対しては思ったことすらないとすぐに連想して、びっくりして動けなくなる。姉が何をしても、振り回されることを少し迷惑に思ったことぐらいはあったが、仕方がないと受け入れるばかりで、姉が結婚すると分かったときですら、そうだった。なかったはずだ。鼓動が速く、うるさい。胸元に手を当てて、ゆっくりと呼吸する。先生が目の前にしゃがんで「君、大丈夫?」と尋ねてくる。声を出せる気がしなくて、数度頷くと、先生は「そう」と呟いて、ニットの腰あたりのポケットに手を入れる。先生が取り出したのは、昨日着物と一緒に買っていた、練り香水の白い容器だった。蓋が開けられると、昨日嗅いだのと同じ、青々として爽やかで、少し甘いようなにおいがする。先生は、右手の薬指で練り香水の表面を拭うと、手をこちらへ伸ばして、耳の裏に触れる。ぬるり、と指先が耳の裏の皮膚をなぞって、香水が塗られる。逆の耳の裏にも、同じように触れられる。続いて、項にも触れられて、その手が離れない。鼓動は相変わらず速かったが、香りを確かめようとして、呼吸は深くゆっくりになっていく。

「うん。綺麗」

 先生はそう言って笑うと、ようやく項から手を離す。練り香水の蓋を閉めて、ポケットに収めると立ち上がり、胸の前で手を組んで腕を前へ突き出す。ストレッチなのだろう。着物だと、腕を上へ持ち上げる動きはしにくいよなと考えているうちに、鼓動も次第に収まって、ゆっくり息を吐いて、深く吸う。練り香水のほのかに甘いにおいを感じる。

「今日は神戸に向かう、んでしたっけ」

「君が選んだやろ? お昼は美味しい紅茶や」

「紅茶だけだとお腹が膨れないと思いますけど」

「言葉の綾。クリームティーかアフタヌーンティーか、行く店と混み具合やな。いくつかあてはあるから、まあ楽しみにしといて」

「はい」と頷いて立ち上がる。昨日と違って、なんの遠慮もなく腕を天井に向けて伸ばし、背筋を伸ばす。ぽきぽきと軽く骨が動く音がした。今日も長時間の運転が控えている。先生が助手席に座って、先生が選んだにおいを感じながら、先生の声が話すのを聞きながら車を走らせる時間が、始まる。


 大阪か京都か神戸か。

 三カ所から行きたい場所を選べ、というのが、昨日の夕飯時に先生が持ちかけてきた話題だった。何故その三カ所なのかという理由は教えてもらえなかったが、選択する目安として「大阪なら粉もの、京都なら懐石、神戸なら紅茶」とそれぞれの場所での昼食を提示された。その中から神戸を選んだのは、先生が提示した三カ所の違いに惹かれたからというつもりではなく、単純に、行く機会が少なそうに思ったからだった。先生は「珈琲党やのになあ」と可笑しそうに言ったが、それが理由のつもりはなかったのだ、言われてみれば少し納得してしまうところがあったとしても。

 神戸と言われても、港がある街、というぐらいのぼんやりとしたイメージしか浮かばない。ある程度横浜と混ざってしまっている可能性すらある。ただ、港町から連想する、舶来の文化をいち早く取り入れているとか、移民に寛容だとか、古くから異人街があるとかいう特徴は、的外れというわけではないだろう。

「どれも行かんけどね」

 質問に答える形で、思いついた神戸の特徴を挙げれば、先生はそう言って、少し首を傾げながら、ペットボトルの緑茶を飲む。高速道路に入る前に、コンビニエンスストアに寄って買った緑茶は、特に相談もしなかったが、二人で一本を飲むことになっている。先生は、ペットボトルの蓋を閉めると、運転席と助手席の間の物入れに無造作にペットボトルを置いた。

「その三カ所の共通点、何か分かる?」

「いえ……近畿地方で主要な都市、ぐらいとしか」

「三都とか言われてるもんね。でも、不正解」

「首都になったことがある……大阪は違うか」

「秀吉公をどう見るかやろな。目的地の話やね」

「城がある?」

「それやと神戸が外れるんちゃう? 近くに姫路とか明石とかはあるけど」

「……駄目です、降参。ギブアップ」

 ハンドルから片手を離して掲げてみせると、先生はからからと笑い声をあげる。まとめきれていなくて顔の横に流れている髪を耳に掛けて、腕を組むと「動物園と水族館」と言う。訳が分からなくて黙ったままでいると、先生が「動物園と水族園、一日でハシゴできる距離にあるねん。そこそこ大きいの」と続ける。さも当然それが正解であるように言われて、納得しかけるも、いや、と思わず口をついて出る。

「それ、ずるくないですか」

「なんで?」

「いや、だって絶対……その三カ所だけの共通点じゃないですし」

「どうかなあ」

「東京だって、上野動物園とすみだ水族館がありますよ。その三カ所の共通点ってあげるのは条件が不正確です、ずるいです」

「細か」と言うと、先生は、こらえきれなかったというように笑う。何がそんなに琴線に触れたのか、ただ、笑われているのは確かなので、少し拗ねた気分になって、窓の外に視線をやる。右車線を通り過ぎた車のナンバーは、0007、ラッキーセブン。何が、どこがだ。

「その、定義をしっかりしろって言うあたり、君やっぱり理系やんなあ。僕よりよっぽどや」

「理系文系っていう括りも気に入りませんよ、俺は。論理を気にするから理系って、哲学者はどうなるんですか?」

「なんや、饒舌やね。ちなみに、僕は大学の数学は挫折した口でね、とりあえず解ければ使えれば良いぐらいにしか理解してないけど、気に入らん?」

「いえ……そんなもんじゃないですか。別に、数学専攻でもなければ」

「そう。呆れられんで良かった」

 先生の声はまだ少し可笑しそうに弾んでいて、笑われているのは分かっているのに、拗ねた気分が和らいでいくのを感じる。やりとりを通じて、先生が心を動かしてくれている様子なのがうれしかった。恋とはどんなものかしら、という言葉がふと浮かぶ。そうしたりもしたくないのに、うれしくなったり震えたり、ため息を吐いたりする。こうして笑っている先生も、そうであってくれないだろうかと考える。

「神戸の動物園はね、パンダとコアラが同時に見られるのが特徴やね。日本で唯一ちゃうかったかな」

「そうなんですか。パンダは上野で見たことありますけど、コアラは確かにないかも」

「オーストラリアに行けば見られるよ。コアラよりカンガルーの方がぎょうさんおった気いするけど」

「オーストラリアにオオカミは居ましたっけ」

 先生が海外に行くならきっと研究の関係だろうと思ってそう尋ねる。ひととおり、オオカミについても調べてきたつもりだったが、すぐには思い出せなかった。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸には、広くハイイロオオカミが、その他の地域には、細かくその亜種が分布しているはずで、先生はその中でも、ユーラシア大陸のハイイロオオカミと、絶滅したニホンオオカミとエゾオオカミの生態学を専門としているはずだった。果たして、オーストラリアに行ったのはどういう目的だったのか。

「敢えて言うならディンゴかな。どっちかいうたらイエイヌに近いけどね。本来ならフクロオオカミやったんやろうけど、絶滅したから」

「フクロオオカミ……有袋類ですね。絶滅は入植者がつれてきたディンゴが原因?」

「そう言われてるね。フクロオオカミの方がニッチを追われた。よくある話や」

 ふふ、と吐息だけで笑って、先生は窓のへりに肘を置いて頬杖をつく。先生との距離が少し離れて、なんとなく寂しいような気になる。

「そんな難しゅう考えんでも、国際学会がオーストラリアであったときに、学会の主催ツアーでナイトサファリみたいなことに行っただけよ」

「ああ、そういう」

「国内でもようあるやん。学会の開催地の近くの地質ツアーしますとか、夜間観察会やりますとか。一回だけ古生物学会のツアー参加したことあるんやけど」

「どこに行ったんですか」

「北海道。こんなアンモナイト持って帰ったわ」

 こんな、と言いながら先生が両手を胸の前で広げる。横目で見る限り、十センチ以上ありそうだった。北海道はアンモナイトの化石の産出地だとは聞くが、なかなか立派な化石なのではないだろうか。

「それは、良かったですね」と、自分が掘り出したアンモナイトを思い出してか楽しそうにしている先生に相槌を打つ。「うん、そうやね。楽しかった」とただそれだけ、普通の会話のように先生が返してくれるのが、何かこそばゆくうれしかった。


 動物園に入ったところに、フラミンゴの池があった。があがあと鳴き声がうるさい上に、独特のにおいが鼻をつく。ばさばさと少し羽ばたいて場所を動き、池の中で片足立ちになって動かなくなるフラミンゴ。ときどき、羽の色が灰色で、まだ片足で立てない個体が居るのが幼体だろうか。柵のそばに立って群れの様子を見ていると、立っているフラミンゴが本当に全部片足なのかを確かめてみたくなる。

「何してんの」

 先生がおかしそうに尋ねてくるが、尋ねられる心当たりがない。振り向いて首を傾げると、先生が足元を視線で示して「なんや、片足立ちしそうになっとう」と言った。まったく無意識の仕草に恥ずかしくなって、慌て手足を引っ込める。

「まあ、こんな数おるとこ見いへんよね。フラミンゴなんか」

「確かに、こんなにたくさん居るのは初めて見ましたが。ここの特色なんですか?」

「別に推してへんけど、僕はそうやと思うなあ。パンダとコアラ、どっち先見る?」

「じゃあ、コアラで」

 実物を見たことがない方を見てみたいというだけの単純な理由で伝えると、先生は頷いて歩き出す。その後ろについていきながら、周りの様子をうかがう。平日の昼間だからか、客は少ない。小学生の遠足ももう季節外れなのだろう。歩いているのは、幼児連れの親子や散歩がてららしい高齢者が目立つ。ときどき、大学生か高校生ぐらいの年代の二人組が歩いているのを微笑ましく思う。交際相手とのデートでは定番ということだろうか。かと思えば、男子高校生らしい集団が、大きな声ではしゃいで写真を撮ろうとしている。人が少ないなりに賑わっていた。

 奥に進むと、いくつかコンクリート造りの建物が見えてきて、先生は、真っ直ぐ歩いてきた道が二股に分かれるところで左に逸れて、コンクリート造りの建物に入っていく。ガラスの前に柵、柵の前には隙間なく一列に人が並んでいる。ガラスの向こうには、高い木と、木と木の間をデッキのようなものがつないでいるのが見える。あれがコアラの飼育舎なのだろう。先生と並んで近付くと、ちょうど、幼児連れの親子の団体が列から離れて、柵の前が空く。代わりにそこを埋めるように、先生と並んで立つ。

 コアラが木にしがみついている。イラストや写真でよく見る構図が、そのまま再現されている。灰色の体毛の中の目の位置は分かりづらく、しかし、よく見るとつぶらな黒い目が開いているのは見えて、決して眠っているわけではないのが分かる。ただ、眠っているのと見紛うぐらい、コアラは動かなかった。「動かへんね」と、先生がただ見たままを呟く。

「まあコアラってそういうもんよなあ。消費カロリー少なくせんとやってけへんやろし」

「ナマケモノと同じですか」

「同じって何を指すんかよう分からんけど、よう眠るはずやね。一日二十時間ぐらいやったかなあ」

 先生の解説を聞いてから再びコアラを見る。ずんぐりむっくりした、オセアニア大陸にしか現生しないこの生物は、何がどうしてユーカリだけを食べるという食性に落ち着いたのだろうか、と不思議に思う。過去の進化の、あるいは退化の道筋は、過ぎ去った時間の未来側から振り返れば、大抵、このように理解不能なのかもしれない。きっと、人間の性だって同じように見えるはずだ。

 不意に、コアラがするすると木の幹を降り始める。「あれ」と先生が呟いた声が少し高い。柵の前に居た人たちが同時に声を発したせいで、大きなざわめきが室内に反響する。コアラは、幹を降りた勢いをそのままに地面に飛び移ると、地面をジャンプするように駆けて、隣の木の幹に飛び移った。するすると木を登って、また元の通り、木にしがみついてじっとする。

 周りの人たちは、互いに顔を見合わせて、口々に、珍しいコアラの姿の感想を言い合っている。思わず先生の方を見て、先生もこちらを見ていた。

「コアラ、動きましたね」

「ね。初めて見たわ、運がええんかな」

「どうなんでしょう。先生もはじめてなら、確かに運が良いのかも」

「としたら、君のおかげかもね。動物園なんてあちこち行ってるのに、今日はじめて見られたんやから」

 先生が、眩しそうに目を細めて笑った。眩しそうに、他のものが邪魔する中で、一つのものを懸命に見つめようとするように。こちらを、俺のことを、じっと見つめている。

 日光が眩しいわけではないだろう。冬だから日光の角度は浅いが、先生や俺の視線の高さに、窓ガラスからの直射日光が当たっている訳ではない。それでは、先生の方の理由、例えば目に何かが入ったりしたのか。だが、先生は、眼鏡をずらして自分の目元を拭うでもなく、細めた目を少しだけ微笑みの形にずらすと「次はパンダでも、行こか」と言って、歩き出す。先生のまなざしには見覚えがあった。今朝、朝の準備をしている最中に。昨日、呉服屋で、香水を身に纏わされる間つむっていた目を開けた瞬間に。眩しいものを見るように、得難いものを見つめるように、細められたまなざしを。俺はもう見知っている。

 不意に、連想がつながった。嗅覚的信号、α性とΩ性の間でだけ意味がある化学物質。それを語る先生はまったく他人事のようだった。自分がそれに煩わされたことは一度もない、とでも言いたげな様子だった。それは本当なのだろう、だが、それは、先生がαでもΩでもないということを即座に示すわけではない。先生がそうして目を細めていたのは。俺が、先生に心中を申し出たとき。それから、俺が、先生が買った練り香水のにおいを身に纏ったときだった。

「先生は、においが、フェロモンが見えるんですか」

 先に進もうとしていた先生が、立ち止まって振り返る。うっそりとうつくしく、笑っている。


 机の真ん中にティースタンドが置かれる。一番下の段にフィンガーサンドイッチ、真ん中の段にはスコーン、一番上の段には小さなデザートがたくさん。スタンダードなアフタヌーンティーを前にして、先生は「いただきます」と手を合わせる。それに倣って、手を合わせるが、食べたいと感じられず、ティーカップに手を伸ばす。紅茶とミルクが半々のミルクティーは、ちょうど良い温度に冷めている。一度飲むと喉の渇きを自覚してしまって、一気にティーカップを空にする。「そんな急ぎなや」と先生が笑った。

 パンダを見た。図鑑や写真で見るよりも随分茶色かった。茶色いパンダと言えばと、次にはレッサーパンダの飼育舎の前に連れて行かれた。先に発見されたのはこっちやのにねと、英語の名付けをからかうように先生が言った。それから、象にキリンに、カバにサイに、トラにライオンに、ひととおり動物園の中を見て回って、最後に、サルの仲間を飼っているという建物に入った。キンシコウ。ニホンザル。マンドリル。先生は、セックスアピールは赤く染まる臀部だと説明して、目を細めていた。二種類の性、視覚と嗅覚という全く異なるセックスアピールの方法、昨日の車内での会話を思い出した。

 先生は、フィンガーサンドイッチを頬張って、満足そうに咀嚼している。とても美味しそうに食べているのに、それを見ても食欲が湧かない。喉だけがやたら渇く。ティーポットに被せてある布を外して、空になったカップに紅茶を注ぐ。五分目ぐらいまで注いで、残りはミルクで埋める。口を付けると、一気に飲み干すにはまだ熱くて、一度、ティーカップを置く。

 共感覚の話は聞いたことがある。音に色を感じる、味に形を感じる。異なる五感が連動して働いて、世界を違ったように感じるあり方。フェロモンが、においが見える、というのは、先生がその共感覚を持ち合わせている、ということだと思う。共感覚は珍しいが、珍しすぎるというほどではない。だから、先生が共感覚の持ち主だったとして、そうびっくりするほどのことでもない、はずなのに、何故、自分はこんなに動揺しているのだろう。喉をうるおしたくて、ティーカップに手を伸ばす。

「何を怖がってるん?」と、尋ねられた声にさえ驚いて、肩を跳ねさせてしまう。先生の声はそれまでと変わらず穏やかで、何も怖がる理由などない。ないはずだった。

「わ、かりません」

「そう。一人で食べ切るには多いから、君にも手伝って欲しいんやけどな」

 サンドイッチをまた一切れ手で摘まみながら苦笑して、先生はサンドイッチを口に放り込む。サンドイッチの皿は残り一切れにまでなっている。先生は、きっとその一切れを俺のためにとっておくだろう。たった三日に満たない期間を過ごして分かったが、この人は、本当に俺を好きなのだ。普通の思いやりを見せるように、我が侭をどれだけ聞いてもらえるか試すように、自分のにおいを纏わせて見せびらかすように、本当に俺を好きなのだ。心中を請うた自分の判断は間違っていなかった、と思う。姉が根ざしていた俺の根幹の部分を、がらがらと、この人が突き崩して再構築しようとしている。

「スコーンは? ケーキは? 紅茶のシャーベットなら食べやすいんちゃう?」

「じゃあ、シャーベット、いただきます」

 先生が最後に示した、小さいガラスの器を手に取る。球形に盛り付けられた紅茶色のシャーベットの、輪郭はもう溶け始めている。手元にあったデザートスプーンで、シャーベットをすくって口に運ぶ。冷たさに目が冴えて、仄かな甘みと紅茶の芳香が口の中を満たす。においと味はつながっている、なら、先生は食事を本当に楽しめているのだろうかと考えてしまう。先生は、スコーンを半分に割って、生クリームとジャムをたっぷりとのせて、大きな口を開けてかぶりついている。美味しそうに食べている、と言ってよかった。一昨日の鰻も、昨日の赤福も、食べたくて美味しくて食べているという風だった。何も考えずに引き寄せていたティーカップに口を付けて、ミルクティーを飲む。空になったカップをソーサの上に置くと、先生が、ティーポットから紅茶を注いだ。ポットを傾けたままなのに注ぎ口から紅茶が途切れて、ぽと、ぽととしずくが落ちる。「空になったなあ」と先生が言って、片手を挙げて店員を呼んだ。すぐにテーブルまで来た店員に、「同じやつ、おかわりで」と先生が告げると、空になったらしいティーポットが下げられる。

「君が、気付いてくれたんはうれしいんやけど」

 そう言って、先生は、ティーカップを傾ける。ミルクを入れていない紅茶を一口飲んで首を傾げ、髪をまとめたかんざしに軽く触れてから、口を開く。

「どこで気付いた?」

 俺に好意があるから気に掛けてくれている、という生やさしさではなく、学者としての探究心、好奇心から尋ねているような声だった。何にか、というのを問い返すのは流石に無粋だろう。口に含んだシャーベットを飲み込み、水の入った小さなグラスに伸ばした手を、先生の手が柔らかく包み込んで、押し戻してくる。うっすらと笑みを浮かべて、軽く首を傾げた。言葉を飲み込むのは許さない、とでも言いたげだった。

「何が決定打、ということもないんですが」

「それはそうなんやろうけど。僕、このことは誰にも言ったこともないし、気付かれたこともないから」

「そうなんですか」

「共感覚は大部分そうやろ。言わんと気付かれん。生活に支障が出るほど常に感覚が引っ張られてるんやったら別やろけど」

 先生の世界を想像する。においが見える、でもきっとすべてではない。どういう風に見えるのか、先生は、眩しいものでも見るように俺を見ていた。

「はじめからずっと、俺のΩとしてのフェロモンが見えていたんですね」

「うん。αとΩは、発情期以外の時期でも、自分の性をアピールするわずかなフェロモンを出してるやろ。僕の共感覚、一番はっきり働くのはΩのフェロモンに対してやから。それで、気付いた理由は?」

 何度も尋ねられて思い出すのは、初日のわずかな違和感だ。やっぱり俺は、先生に、自分がΩだとは伝えていない。

「先生が、初めから俺がΩという前提で話をしていたのと、それと、練り香水を付けた俺のにおいを嗅いで、綺麗、という風におっしゃったので」

「ああ。綺麗って言葉のせいやね」

「はい。先生が言及しているのはにおいのはずなのに、綺麗と言うのはおかしかったな、と」

「なるほど。似てるにおいを重ねがけしたら、もっと綺麗になるんやろうなって、やってしまったんやな。僕には本当に綺麗に見えたから」

「どんな風に、見えるんですか」

 先生は、ほんのわずか目を細めて、ゆっくりと瞬きをして、やっぱり、眩しいものを見るようなまなざしで、俺を見ていた。

「透明なビー玉ばっかり入れた、万華鏡?」

 そんなもののぞいたことがない。でも、想像する。透明なビー玉が、互いに干渉して、ビー玉を通った光も干渉し合って、反射している。万華鏡を回す度に、ビー玉のぶつかり合う位置が変わって、光の干渉の具合も変わる。透明だから色は見えないはずなのに、落ちる黒い影や、ときどきビー玉が分光器のように働いて見えるわずかな虹色が、少しずつ形を変える。それは、本当に、綺麗なのかもしれないと思えた。


 海水と、分厚い強化プラスチックを通った日の光が、ゆらゆらと床に影を落としている。ゆらゆらと形を変えるのは、波のせいだろう。大きな水槽の中には、エイやサメのように見てすぐに種類が分かるものから、名前の分からないものまで、たくさんの魚が泳いでいる。館内の照明が暗いので、余計に、水槽から射し込んで居る日の光が眩しく感じる。先生は、裾が地面について汚れないように、器用に裾をたくし上げて、水槽の前にしゃがみ込んでいる。先生の視線は、水槽の隅で動かない小さな鮫に向けられていて、鮫の目の横でふいふいと手を振っていた。大きな水槽を見上げながら魚を眺めるのも飽きてきて、静かに先生に近付く。斜め後ろまで来たところで、まだ視界には入っていないはずなのに、先生が顔をあげた。そんなことで、先生の共感覚が本当なのだろうと実感する。

「もう行く?」

「先生が良いなら」

 にこりと笑って、先生は立ち上がる。さっきまでじっとしていた鮫が前へ泳ぎだしたのを見て、先生が「なんや、お前動けたん」と水槽に口を近付けて言う。

「サービスしてくれとったんやね」

「魚にそんなことはできないと思いますが」

「報酬を学習してたら分からへんよ」

「報酬?」

 オウム返しに尋ねると、歩き出した先生がひらりと片手を振る。先生についていきながら、言葉の意味も仕草の意味も分からなくて首を傾げると、先生は、俺の顔の前に手をかざして、ひらひらと手を振った。可笑しそうな先生の顔が、見えたり見えなかったりする。手を引っ込めた先生は、その手の意味を説明するわけでもなく、順路と書き添えてある矢印の示す方向へ歩いて行く。壁に埋め込まれた水槽が見えてくる。ついてこいと言われたわけでもないが、一緒に来たのだからと、先生の少し後ろをついていく。

 水族館なんて、小学生ぶりに来た。動物園もそうだった。家族との行楽か校外学習でなければ、こうした施設に来るのは大抵が交際相手とのデートなのだろう。もしくは、先生のように研究者として訪ねてくるか。そのどれもに縁がなかった。小学生の頃、クラスは当然姉と別々にされていたが、校外学習となれば、姉は、クラスのことなど無視して俺に寄ってきていた。教師の言うことを聞かないとか、友人をよそにやろうとするとか、そこまで頑固ではなく。ただ、何も言われない範囲では、俺と一緒にいるのが至極当然のことなのだと主張せんばかりに、姉は、気が付いたら俺の手を握っていた。それなのにあっさり俺を捨てた姉を、許せないのだ。

 いきなりそのことに思い至って立ち止まると、先生が、一つの水槽の前で俺を手招きしている。深呼吸をしてから先生の方に近付く。水槽の中には、熱帯魚だろうか、鮮やかな黄色の魚が、ひらひらと泳いでいる。水槽の下の説明書きを見ると、ブルーヘッドと、見た目からは何故その名前がついたのか分からない、魚の名前が書いてある。聞き覚えがある名前だった。今回のムックの準備をしているときに見たはずだ。つまり、性に関わること。少し考えて、一匹だけ青い体をした魚が見えて、「性転換する魚」と、ようやく思い出したことを呟くと、先生が「正解」と呟いて、こちらを見た。

「魚類にもは虫類にも結構居るんよね、後天的に性転換する種類。世間一般が思ってるほど、性別なんて確固たるもんやない」

「この魚は……群れの中で雄がいなくなると、でしたっけ」

「そう。視覚的スイッチ、とでも呼ぶんかな。群れの中で一匹だけ額が青い雄が居なくなったら、一番からだが大きな雌が性転換して雄になる。卵巣が精巣に変化する。ホルモンバランスの変化で、容易に性が変化する」

 くる、くると、先生の右手の人差し指が円を描く。性別を意味する記号を思い出した。男性と女性で形が決まり、α性なら丸を二重丸に、Ω性なら丸を黒く塗り潰す。書類を書くときの性別欄、αΩ性は尋ねられないことも増えてきた。外見で区別出来ない以上わざわざ尋ねるのは差別を助長する、なんてもっともらしい理由が説明されているが、じゃあ、男女性を尋ねることは差別を助長しないのか。性自認や性指向を問うときに用いられるのが専ら男女性なのは何故か。そのくせして、生殖のときには男女性よりαΩ性が優先されてしまうのは何故か。先生の指がぴたりと止まって、ぐるぐると渦を巻いていた疑問を、一度飲み込む。

「どうしてオオカミが絶滅させられたか」

 唐突な問い掛け、それも、先生の専門分野であろうそれに、何を答えることもできず、ただ瞬きを繰り返す。先生は口元だけで笑うと、水槽の前から歩き出す。

「野生のオオカミは極端に数を減らした。ニホンオオカミは絶滅したけど、その他の種も、ほとんどが絶滅したと言って差し支えないぐらいに。そこまで数を減らされたのは、どうしてだったのか」

「農業への害や、狂犬病の蔓延防止、それから、毛皮のためだったのでは」

「うん。それも事実。日本でも、オオカミを捕まえて引き渡せば報奨金が出た。死体を持って行くより、生け捕りで連れて行く方が、報奨金の額が大きかった、のはどうしてやと思う?」

 知らない話だった。オオカミによる農作物の食害や、疫病の蔓延を防ぐために、オオカミ狩りが奨励された時期があることは知っていた。報奨金が出たことも知っていた。でも、生け捕りがより推奨されていた、なんて知らなかったし、理由も分からない。スロープになった順路を上りきって、少し開けたところで立ち止まって、先生はこちらを振り向く。

「どこもかしこも、オオカミを使って実験したがった。どういう条件でβ性がα性やΩ性に転換するのか。あるいはまた戻るのか。群れの構成か? 餌? 他の外的要因? 排泄物はどうなる? フェロモンは、内分泌系は? ありとあらゆる実験がされ尽くした。戦争中の人体実験と同じや、あんなもの。人間相手やないから余計酷かったんちゃうかと思うぐらい」

 周りに注目されないぐらいの声で、先生はまくし立てる。口元だけが笑っている。目はぎらぎらと輝いていて、それは、スロープの向こうから射している日の光のせいかもしれなかったが、先生の感情の高ぶりのせいもあるのではないかと思われた。先生は怒っているのだと、ようやく分かった。

「そこまでオオカミが実験され尽くしたことがあまり世間に知られていないのはどうしてやと思う?」

 先生の問い掛けに答えを探す。当然見つかるはずもなくて、黙ったまま首を横に振る。先生は相変わらず怒っているが、わずかに悲しそうに眉尻を下げて、口を開く。

「そこまでしておいて、オオカミのαΩ性とホモ・サピエンスのそれとの仕組みが違うことが分かってきたから。オオカミの性に関する研究はすべて無駄だと見なされたから」

 拳を口元に当て、先生は軽く咳き込む。少し気まずげにこちらを見て、今度はただ悲しそうに笑うと「僕らはとてもむごいことをする」と言って、順路の先を向いて歩き出す。置いていかれないようについていくと、スロープの先は急に明るくなった。大きな窓と、透明な屋根を通して、たっぷりと日光が射し込んでいる。日光は、はじめに見た大水槽の中を照らしているようだった。通路の向こうに、上から大水槽を望める。水面は、そういう装置があるのだろうか、波立っていて、砕けた波が白く泡立ってみる。先生は通路の手すりに手を添わせながら、大水槽を見下ろしている。神様がいたらこんな風に世界をのぞいているんだろうか、なんて、馬鹿馬鹿しい考えが浮かんで、泡沫のようにすぐ消えた。


 ホテルに備え付けのメモ帳は小さいし、紙が薄い。それでも、ティッシュペーパーやペーパーナプキンに書くよりはマシだろうと思った。ボールペンのインクが薄いのにも文句は言っていられまい。先生が語ったオオカミのことを、忘れないうちに書き留めなければいけないと思い立ったはいいが、パソコンもスマートフォンも置いてきてしまって、そのための道具がなかったのだ。

 オオカミは三つの性を持つ。三つの性はα、β、Ωと称されてきた。βは未分化なαでありΩである。両性の性器を供えていながら、そのいずれもが不十分にしか機能しない。群れの中で、一頭ずつだけαとΩが生じて、繁殖する。βは、自らがαかΩになれる群れを探して、生まれた群れを飛び出すか、あるいは、競争に負けて繁殖はせずに群れを支えるβになるか。ただし、オオカミにおけるα、β、Ωの三つの性は、ホモ・サピエンスのそれとは理由が違う。まだそれが分かっていない時代に、ホモ・サピエンスでのβから他二つの性への性転換への再現を目論んだ動物実験目的で、世界中のオオカミは乱獲され、絶滅の危機に瀕した――先生が語った内容をまとめるとこうなるだろうか。思ったよりもオオカミの性に関する話は聞いていなかった。ホモ・サピエンスの性の話ばかりしていた。先生はオオカミの研究者なのに詳しいなと思ってはいて、だからαかΩなのだろうと思っていたが、どちらも理由ではなかった。先生は、オオカミを絶滅にまで追いやったホモ・サピエンスの性について、詳しいだけなのだ。

「いきなり仕事熱心やね」

 耳元で先生の声が聞こえて、思わず体が動く。先生の声がした方から顔を遠ざけるように、肩が跳ねて、椅子に腰掛けたまま体を横に傾ける。先生は口を閉ざしたままで笑って、俺から離れて、ベッドの端に腰掛ける。ベッドの枕元に畳んであったワンピース型の寝間着を着て、頭にバスタオルを被っている。髪はまだ濡れているようだから、後で乾かさせてもらえるだろうか。ベッドは、クイーンサイズだかのものが一つきりだ。チェックインを担当したホテルマンは、先生が書類を書く間、もの言いたげにしながら俺と先生とを交互に見ていた。あの不躾な視線は、職業人としていただけない。後でクレームの投書をしてやろうかしら、と思う。デスクライトの橙色だけがぼんやりと、ぼんやりと部屋の中を照らしていて、もう集中は出来そうになかった。する必要もなかった。

「心中するんやったら、わざわざそないなことせんでようない?」

 旅の目的を先生に言われて、どきりとする。ホテルの部屋に入ってから、「明日でこの旅は終わり」と言った。それが、身辺整理をするようにという意味に聞こえて、そんなもの何も持ってきていなかったから、頭の中にあったものを書き出そうと思った。もし遺書にするなら、俺が先生という人と一緒に居たことを示すこの上ない証拠になるだろうと思った。三枚ほどになったメモ用紙を千切って、封筒に入れて、机の上に置いておく。椅子から立ち上がって、先生の隣に腰掛ける。ベッドのマットが軽く沈み込んで、反動で少し揺れるのが収まって、先生の腕が俺の肩を抱き寄せる。体が横に傾いて、それを立て直す気になれず傾くままにしていると、先生の腿の上に頭がのった。石鹸のにおいがする。お風呂上がりの、湿気混じりの石鹸のにおい。ゆっくりと息を吸う、先生の手が俺の髪を撫でて、耳の後ろ、先生が練り香水を滑らせるのと同じところを、執拗になぞる。「やっぱり綺麗」と先生が呟いた。とても小さな声で、聞かせるつもりはなかったのかもしれない。それでも俺は聞いてしまっているし、先生に綺麗と言われるのをうれしいと思ってしまっている。この体の、この性が纏うものが先生の目にうつくしく映るならば、幸せだと思ってしまう。

「そういえば、一つ確かめときたいことがあるんやけど」

「なんでしょうか」

「君の初体験の相手って、君のお姉さんで合ってる?」

 フェロモンでそんなことまで分かるのか。あるいは、俺の言葉や態度の中に、それを示唆するだけの材料が合ったのか。答えないことが答えになると分かっていながら黙っていると、先生の手が、ぺたりと頬を押さえてくる。その冷たい手に、黙って頬をすり寄せる。答えは正しく伝わっているだろう。

 白濁に汚れたシーツにくるまった夜のことを思い出した。俺も姉も熱病にかかったように、体中が火照っていた。思考も熱に浮かされて、きっと冷静に働いていなかった。おとぎ話の真似をしたのだって、そのせいだ。セックスをしながら項を噛む、番、擬似的な結婚。あれはそういうものではなくて、自分への回帰だった。俺も姉も一人でなりたつ人間のはずだったのに、相手を手に入れたくてたまらなかった、欠けた自分を取り戻したかった。球体人間のようにまるくかんぺきな存在になりたかった。不安だった。それなのに、俺を捨てた姉への怒りが、復讐心が、もう消えてなくなりそうになっているのを感じる。

「ほんま、妬けるわあ」と呟いて、先生の冷たい手が項を撫でる。そこにはなにもない。姉の犬歯が食い込んだ痕は、痣にもならずに、あっという間に消えてしまった。先生がそれを分かっているのなら、先生が綺麗だと思うにおいで、俺を彩ってほしいと思った。

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