松葉のにおいは綺麗_2

 近代社会において、αΩ性が明らかに認知されるようになったのは、徴兵制度が原因であった。正確には、近代になり、国民皆兵による徴兵制度が始まってからだ。おそらく、それ以前から男女性以外の存在はうっすらと認知されていたのだろう。そのことは、数多の神話や民間信仰の中の雌雄両性の神性の存在にも裏打ちされる。ただ、身分の貴賤、貧富の差に関係なく、一定の年齢の男性が一定期間徴兵されるという制度は、否応なくαΩ性の存在を、その特殊性を、つまびらかにしていった。要するに、Ω性のフェロモンで惹起されたα性による強姦の発生。徴兵による軍隊の秩序を脅かすαΩ性の存在は、速やかに問題となるに至ったのだ。

「科学の発展に最も寄与するのは戦争、なんて話もあるけど、戦争がなければαΩ性は発見されんかったんか。秘匿されるべき奇形として、処刑されるべき魔性として、忌避され殺される存在であり続けたのか」

 思考をそのまま垂れ流しにしている独り言のような、あるいは、訳も分からぬだろうと高を括って幼子に聞かせる講釈のような、淡々とした先生の語りが途切れる。これは答えを求められているのかと、サイドミラーを見るついでに先生の様子をうかがうと、限界まで倒した背もたれに体を預けながら大きく欠伸をしている。時間は午前十時。起きてからの時間、走り出してからの時間を考えれば、眠気が来もおかしくない頃合いではある。座敷牢、魔女狩り、宗教戦争、山の人。連想したものたちを頭の隅に追いやって、「休憩しますか」と先生に尋ねる。先生はまた小さく欠伸をしたようで、くあ、と呼気を絞り出す低い声が聞こえた。

「ええよ。まあ、昼頃には着くやろし、僕は」

 言外に、お前こそ大丈夫なのかと、からかわれているような気がする。随分被害的になっているのは、指摘されれば否定しようがない睡眠不足のせいか、これ以上無様をさらすまいと張っている強情のせいか。一番初めに心中を持ちかけた時点で取り繕うものなどなくなっているはずなのに、生きてきた分だけ積み重なっているプライドというものは仕方がない。

 昨晩、夕食を終えて、酔っているはずの先生は、そのまま床に入るのではなく、背筋を伸ばして颯爽と大浴場へ向かった。一緒に入るかと誘われ、ついていけなかったのは、あからさまに好意を告げられたばかりの相手に肌をさらすことに抵抗感を覚えたからだ。そんな初心でもあるまいに、なんてからかいをすることもなく、先生は一人で湯に浸かりに行った。先生が戻るのを待って、入れ違いに大浴場に向かったのが、日付が変わる一時間ほど前だったか。ぼんやり、露天風呂に浸かって星を眺めて、光の点をつないで正多角形を作る遊びをしていたら、もう閉める時間だと大浴場を追い出され、部屋に戻ったのが日付が変わって少し経った頃。先生は、明かりの点いたままの部屋で布団に入って眠っていた。隙間なく隣り合った二組の布団の片方を引っ張って、隙間から畳が見えるようにしてから、明かりを常夜灯にして布団に潜り込んだ。仰向けに眠る先生は髪を解いていて、長髪は肩に敷かれていた。あのかんざしはどこに置いたのだろうと、なんでもないことを疑問に思って、ゆっくりと上下する先生の喉仏を眺めていた。それで、眠りについたのは確実に先生より後であったし、目が覚めたのはまだ外が暗い時間で、先生はまだ眠っていた。窓際の、応接セットが置いてあるサンルームの障子を開けて、まだ暗い湖を眺めながら、波の音でも聞こえやしないかと耳を澄ませていたら、応接セットのガラステーブルの上に、先生が付けていたかんざしを見つけた。それを手にとるかとらないかのところで、「おはよう、早いね」と先生の声がしたのだった。

 眠たいまま車を走らせることに不安がないわけではないが、休憩を挟むことで、この何となく気怠い空気が霧散してしまうことや、先生の独り言を途切れさせてしまうことは勿体ない気がした。軽く首を振って、ドリンクホルダーの缶コーヒーを手に取り、一口飲む。泥のような味がした。先生が「一番あからさまに取り除かれてきたのはα女性、というのはよく言われる話やな」と、話を再開する。α女性、乳房とヴァギナとともに、ペニスに酷似したクリトリスを併せ持つ外見は、確かに、他のどの性よりも一見してそうと分かりやすい。魔女狩りのうちの何割かはα女性を迫害するものだったという話もある。

「あるいは、神性としてあがめ奉られるか。処女懐胎もとらえようによってはα女性のことやし。各地の伝承にある、雌雄いずれもの性器を備えた両性具有は、α女性を表現したもののように聞こえる」

「球体人間とか。プラトンでしたか」

「あれはまた微妙に違うやろう。二つの頭と心臓と、四つの手足、男と女、男と男、あるいは女と女。両性具有というか、二人で一人という種類の人間がいたという話やから」

 半分のオレンジ、比翼連理、運命の番。先生の説明で連想した単語の果てに、世迷いごとを思い出す。薄いタオルケットにくるまって泣いていた姉のこと。白濁した体液で汚れたシーツを一緒に洗ったこと。火照った肌を滑る冷たい指、項に犬歯が食い込む鈍い痛み、嘘のように引いた熱の代わりに手に宛がわれた肥大したクリトリス。記憶をその先に進めないために、バックミラーを確認しつつ、後続車のナンバープレートを読み取る。6391、7、11、83。ゆっくりと息を吐く。大丈夫。ハンドルから片手を離して項に触れても、そこにはなんの傷跡もない。

「先生は」と口にすると、「うん?」とだらしのない声で返事がくる。何でもないですと言って、このまま放っておけば、数分と経たず眠ってしまうかもしれない。そうすれば、今日の目的地に着くまで、静かで平穏な道行きになるだろう。泥に沈んだような静けさの想像を好ましいと思う一方で、どうせここまで来たのだからとやけくそな気持ちもあり、結局、先生に話し掛けた時点ですることは決まっていた。

「αとΩの番、というものをどう思いますか」

 予想していた泥に沈んだような沈黙が、束の間訪れた。先生が、助手席に座り直す。かと思えば、ずるずると座面をずり落ちて、片膝を立てて、窓の縁に頬杖をつく。今までで一番行儀が悪い、だらしのない仕草に、仄かな驚きを覚える。かといって、態度に出すわけにもいかず、ハンドルを握る位置をわずかにだけずらす。通り過ぎたのは1574。2、787。

「おとぎ話をしたいんか、現実に起こっている話をしたいんか、どっち?」

「後者です」

「……進化か欠陥。どちらかという結論はまだ見ていない」

 声ではなく、言葉が、ぎりぎりと絞り出したようにつっかえ、震えていた。その様子からして、先生のこの姿勢は、思考にリソースを割くための、省エネのためであるように思われた。どこを見ているともしれない茫洋としたまなざしのまま、先生は「突き詰めると、ホモ・サピエンスの特徴を進化とみるか、欠陥とみるか、という話になるんちゃうかと僕は思う」と続ける。思っていたよりも規模の大きな話に、なんとも反応が出来ず、黙ったままでいる。先生の方も、反応を求めているわけではないように思う。それが証拠に、こちらに言い聞かせ、一方で揶揄するようなまなざしが、ちらりとも向けられていない。

「ホモ・サピエンスでもっとも優勢な五感は」

「視覚、でしょうか」

「せやね。ホモ・サピエンスは情報入力のおよそ七割を視覚に頼っている。視覚の進化のおおもとは採集生活で熟した果実を選り分けるためやとも言われるけど、問題は、優勢になった視覚という五感が、性選択でも主な役目を果たしてきたと推測されること」

 目に見えるもので主に世界を認識する生物が、自身の繁殖の相手を選ぶにも、目に見えるもので判断するということ、それ自体は非常に自然に思われる。ただ、女性の乳房、男性の厚い胸板や濃い体毛、どこまでをそう理解するかを、難しくは感じる。

「それのどこが問題になるんですか」

「何故、フェロモンというセックスアピールを行うαΩ性が、視覚という優勢な感覚に対応したセックスアピールを行う男女性と並行して存在するのか」

 なるほど、先生が告げたのは基本的で、基本的であるが故に未だ解決を見ていない、ホモ・サピエンスの性にまつわる大きな疑問であった。今回の特集でも大きく紙面を割かれるだろう。説が乱立して、どれが有力かということすらまだ、大勢を見ていない。

「αΩ性と同じ性様式、三つの性があってそのうち二つの性が繁殖に関わる形態は、オオカミやその近縁種で確認されている、が、一番の近縁種たり得る、家畜化されたイヌには見られない。社会性の違いで、未分化なαでありΩであったβが淘汰される方向に進んでいったんやろうね。そして、現生する類人猿に、αΩ性と同じ性様式を持っている種は見当たらない。そして、二種類の性様式を持っている生物種は、今のところ、ホモ・サピエンス以外に見つかっていない。男女性があったところに、何らかの要因、特別変異か先祖返りか、そんなもので、αΩ性が加わった、その可能性が一番高いのではないか。でも、なんの必要性に迫られて? 既に成功している性戦略を持っているのに、何故、敢えて事態をややこしくする第二の性様式が持ち込まれ、維持された? ……生物学の難しいのは、往々にして結果が先にあって、過程を再現できないことやね。特に、人間に関することには」

 蕩々と、先生はまくし立てて、少し声を落としてそう言った。人に関する様々な実験、特に、αΩ性に関する実験ですぐに思い当たることといえば、世界各国で戦時中に行われていたものだ。例えば、より優秀とされるα性の出生頻度を上げるにはどうしたらいいか。例えば、薬剤などなしにΩ性のヒートを抑えるにはどうしたらいいか。例えば、β性を後天的にα性やΩ性に性転換させるにはどうしたらいいか。計画だけに終わったものもあれば、非道にも実行に移されたものもある。その後の世の中に、良かれ悪かれ大きな影響を与えたものもある。ただ、先生の落とした声音が、やや残念そうに、口惜しそうに聞こえたことに、少し背筋が冷える思いがする。

「それで、番のことやっけ」

 やや明るくなった声で先生が言うのに、「ええ」と頷く。あのまま、先生の思うがままに話が進んでいくのよりは、躊躇いながらも自分が出した話題に戻ってきた方がまだましだと思えた。交通情報の電子掲示板を見るついで、先生をうかがい見ると、両手の指と指を絡めて、手遊びをしていた。

「Ω性がα性と初の性交を経ると、それ以降、Ω性のヒートフェロモンがα性に及ぼす影響が顕著でなくなる。性交したα性は除くという説もあるけど、そこはあんまりはっきりせん。聞きたいのはこのことでええの?」

「はい、大丈夫です」

「やったら、さっき言ったとおり。進化か欠陥か。どちらとも言えん、というのが僕の持論。自分は繁殖可能であると雄に知らせるためのフェロモンを使えなくなった雌は、どうやって交尾の相手を見つける? その点では欠陥。ただ、そのことによってΩ性はかなりの社会的な自由を得る。その点では進化と言えるかもしれない」

 社会的な自由。素晴らしく的確な言葉に聞こえた。身体的なΩ性の性質、抑制剤を飲まなければ、定期的に訪れるヒートで動くこともままならなくなるという体質からは、たとえ性交を経ても逃れることは出来ない。けれども、不意のヒートによってα性を無闇に性的に惹き付け、社会活動がままならなくなることからは、少なくとも逃れられる。思春期の間は、身体発達が阻害される恐れがあるからと抑制剤は推奨されない。それで、どうしてもΩ性は欠席が増えるし、そこから不登校に至ったり、校内で性的トラブルに発展することもままある。性交を経験していれば、少なくともそういう煩わしさからは逃れられた。自分の過去を思えば、確かに、学生時代はβと間違われることもよくあった。守られているというとおこがましい。ただ、まだ乾ききっていない古傷に、メリットもあったという、それだけのこと。

 少しだけすっきりした気分で「なるほど」と呟き、ハンドルを握りなおす。後ろから、車間をすり抜けてやってきた単車が、この車をあっという間に追い抜いていく。もうそんな危なげな車はないか、サイドミラーで確認をしていると、先生が助手席のシートに座り直しているのが見えた。また軽く、欠伸をしている。

「やっぱり休憩しましょうか?」

「いや……休憩はええわ。代わりに、朝言うてたとこより、一個手前で高速降りてもろていい?」

「それは、構わないですが」

 なんのため、と尋ねようとして、言葉を飲み込む。細かい旅程はともかくとして、旅の行き先は先生に任せているのだから、それを尋ねるのは行き過ぎと思われた。一つ手前のインターで高速を降りるとして、それでもまだ時間は掛かるだろう。ゆったりと腕組みをしてまどガラスにもたれかかっている先生を見ると、休憩なしで本当に良いか、なんて、しつこく気になってしまうが、先生は「ちょっとだけ、寄り道や」と、少し不機嫌そうに、でも、どこか楽しそうに呟いた。


 胸元に当てられた、灰色がかった枯れ草色の反物は、先生の家を訪ねたときに、先生が着ていた着物を思い出させた。ただ、自分にそれを宛がわれてしっくりくるかというと、そうではなく、どう答えたものか口をもごもごさせていると、「もっと別の色味のほうがよさそうやねえ」とのんびりした女性の声が横から聞こえ、反物が取り去られる。鏡に映る自分は、昨日と同じ、ベージュチノパンに白のワイシャツ、茶色のカーディガンを羽織った服装をしている。横にしゃがんで、反物を畳んでいる女性は、淡い藤色の着物を着ている。鏡越しに見える先生は、明るい鼠色の着物に、暗い鼠色の羽織を着て、並べられた反物か着物かを物色している。

「やっぱり、こっちの紺色とかがええんちゃうかなあ。今日は違うけど、スーツ着るときはこういう色も着るやろ」

 先生が示しているのは、確かに、家のクローゼットに掛かっている、数着しかないスーツの色と似通っている。それを答えるより前に、先生はいくつかの着物を手にとって、こちらへ持ってくる。すべて紺色だが、色の明るさや鮮やかさが少しずつ違うし、よく見れば、生地自体の持つ光沢感や、織り目の模様も違う。重ねて持った着物を一度、すべて畳の上に置いて、先生は、一番上の一着だけを手に取る。すぐそばに立って、長方形に折り畳まれた着物を胸元に当てると、「さっきよりはええんちゃう」と言う。その息づかいが、シャツ越しに肌に伝わる気がして、わずかに肌が粟立つ。

「あら、ほんま。でも、もう少し明るうてもええかもしれませんよ、お若いんやし」

「そしたら、こっちの木綿かな」と、すぐに、重ねた着物から別の一着を取って、胸元に宛がう。さほど違いがないように見えたが、店の女性も、先生も、しっくりきたようにうなずいたから、これで良いのだろう。蛇の道は蛇。着物を選ぶのなんて初めてで、何を基準にしたら良いかも分からない。

「柔らかくて動きやすいし、滑りも良すぎへんから着崩れしにくいし、初めてやったら丁度ええんちゃいますか」

「僕もそう思いますわ。裄は足りそうやし、丈もいけそうやし、後は羽織もんかな。帯はさっき見せてもろた、灰色の角帯で」

「はいはい。いくつか見繕いますよってに。その間に着付けされますか」

「うん。そうさせてもらおかな」

 にこやかに交わされた会話の結果、どうやら自分が今から着替えさせられることは分かった。しゃがんでいた女性が立ち上がり、畳から降りて草履を履くと、壁際に寄せていたついたてを引っ張り出す。それにぶつからないように、先生は畳にのぼって、最後に宛がっていた以外の着物を奥へと追いやる。空いた場所に今から着せられるらしい着物を置くと、その上へ、藍色の帯と下着代わりの白い着物と、足袋とを重ねる。そして、先生は、自分の隣の畳をぽんぽんと叩いた。おそらく、ここへ座れと言うことだろうと察して、何となくそこへ正座をする。

「まず足袋から履くんや。靴下脱いで、履いてみ。足袋ぐらいは履き方分かるやろ」

「はい、多分」と答えつつ、自信はあまりない。正座を崩して片膝を立て、靴下を脱ぐ。白い足袋の先は、分かりにくいが、狭い方と広い方に分かれていて、左右は一応区別が付いた。左足を足袋に入れ、つま先が足袋の先端にあたるまで足袋を引っ張る。長方形に半円をくっつけた形の金具が、履き口のかかと側で開いた部分の内側に、五つ縫い止められている。この金具を、向かい側に縫い止められた日本の糸に引っかけて留めるのだろうと言うことは見ればすぐに分かる。そう思って、一番の下の金具の根元をつまみ、金具を起こして、端を糸に通そうとするのに、うまくいかない。金具が、糸の上を滑ってしまう。

「なんや、難しいか」

 先生は、何故だか愉快そうにそう言って、そしたらしゃあないなあと続けた。先生の手が、足袋を履きかけた足元に伸びてくる。金具の根元をつまもうとする指先が一瞬肌をかすめて、その冷たさに一瞬肩が跳ねる。先生はこちらの反応などに構わず、金具を糸に通して、留めていく。それはもう慣れた手つきで、あっという間に、五つの金具が留められ、足袋の履き口はきちんと締まった。

「手本。見せたからできるやろう」

 先生が手に取り、差しだしてくる、もう片方の足袋を何も言わずに受け取る。肩が跳ねただけではなくて、鼓動は早くなっていたし、呼吸だって浅くなっていた。それを気取られないように、何をしても、もうばれているのだろうけれど、黙ったままで足を組み替えて、靴下を脱ぐ。足袋に足を入れて、さっき見た先生の手つきを思い出しながら金具を留めていくと、あっという間にできた。息を吐く間もなく、「じゃあ次は服脱いで、肌着だけになって」と、こともなげに先生が指示を飛ばす。一応、昨日、好きだとかなんとか言われた気がするが、そういう感情は一切感じない声音だった。これは、昨日の言葉が聞き間違いだったのか。カーディガンを脱いで、シャツのボタンを外しにかかると、先生の手がカーディガンをひょいと取り上げる。先生がカーディガンを畳むのを見ながら、シャツのボタンを外し、ズボンのベルトを外す。シャツとズボンも脱いてとりあえず床に置くと、先生はすかさずそれを手元に引き寄せて、慣れた手つきで畳んで重ねた。

「股引履いてたん。ちょうどええわ、足元冷えても嫌やろ」

「寒いよりはぬくいほうが良いですね」

「同感や。僕も履いてるもん。さ、鏡の前立って」

 促されて、少し横に動き、さっき見ていた鏡の前に立つ。先生が、白い着物を広げながら立ち上がり、後ろに回る。肩を覆うように広げた着物の袖を、先生がくいくいと引っ張る。その仕草に導かれて、腕を袖に通す。もう片腕も袖に通すと、先生は、前に回って着物の襟をつかむ。

「襟ぐり詰まってる肌着やなくて良かった。あわせが深すぎても、君はまだ若いから」

「年齢の問題ですか?」

「うん、意外と変わるよ。年取ると、皺もシミも増えてかなわんやろ」

 しゃべりながらも、先生の手は動き続けて、襟をつかんで引っ張りながら位置を調整し、右側を内側にして、襟をあわせる。あわせた襟がずれないように、腰のあたりを左手で押さえながらしゃがんで、幅広で平たく、薄い布を右手に取る。その布をへそのあたりに当てて、右手を布の上を滑らせて横へずらし、腰に当てていた左手でも布をつかむ。そのまま両手を後ろへ回すと、先生の顔がみぞおちのあたりにくる。今日も、長い白髪は綺麗にかんざしでまとめられ、着物の襟のあわいから青白い項が覗いていた。布を後ろで交差させて、端を前へ持ってくると、へそのあたりで布を結ぶ。見慣れない、結ぶというよりはねじっているだけのようなやり方だった。

「さ、後一枚着て、帯締めよか」

 先ほど選んだ紺色の着物を手にとって、先生は後ろに回る。やや明るい紺色の着物が背中の後ろで広げられるのにしたがって、袖に腕を通す。先生はまた前に回って、着物の襟をつかみ、右側を内側にして襟をあわせる。わずかに内側に着た着物の襟が見えている。わずかに見える衿だけ、一番初めにあわせられた、灰色がかった枯れ草色だった。先生はまたしゃがんで、内側に着た着物の腰を留めたのと同じ布を手に取ると、素早く腰骨の上を一周させて、今度は右の腰に近いところで、先ほどと同じやり方で布を結ぶ。続いて、先生は、灰色の生地に、様々な色合いの紺色で縦縞が入った帯を手に取る。先に結んだ布を隠すように帯を重ねる。一周、二周と交差する度に、帯が少し締められる。先生は、帯の端を持って、後ろへ回る。

「最後、少し引っ張るから、こけんように踏ん張ってな」

 言われて、両足の親指に力を込めると、帯が後ろ側へ引っ張られる。「苦しない?」と尋ねられるのへ首を横に振ると、「そう」と返事があって、頷く気配がした。それから、背中の方で、帯が結ばれていく。見えているわけではないが、着物に帯が擦れる感触、時折、先生の指や手の甲が背中にぶつかる感触で、それが分かる。ほどなくして、「できたよ」と言って、先生が立ち上がる。肩の後ろに見える先生は、満足げに微笑んでいた。腰に手を添えられて、体の向きを変えるように促され、ついたての方を向く。先生がついたてを除けると、店員の女性が、濃い灰色の上着らしきものを腕に掛けて、そこへ立っていた。

「あら、ようお似合いや」

「ね。それ、羽織やないね」

「ええ。和装は慣れてへんておっしゃってたから、ウールのトンビコートです」

「ああ、ええかもしらんわ。着せたってもらえる?」

「はい、はい」

 店員に言いつけて、先生はふらりと、商品を陳列している方へ歩いて行く。入れ替わりで近付いてきた女性に、コートを着せてもらう。普段着ているコートとあまり違いがないような生地だったが、袖が幅広になっていて、着物のたもとがもたつかない。釦を留めるのに腕を曲げても、袖は全く気にはならなかった。

「この後運転するてお聞きしたから、足元はブーツとかでもええんやないか思たんやけど。草履は履いたことありますか?」

「ああ、はい。夏場は」

「せやったらええかしら」

 畳の下に置かれた草履は、着物と同じぐらいの明度の紺色の鼻緒が鮮やかだった。親指と人差し指をひっかけるように草履を履く。脱いだ服をどうしようかと振り向くと、店員の女性が、風呂敷を広げてまとめているところだった。忘れないように受け取らねばと思うのと、そういえばここの支払いはどうするのかということを、同時に考える。「着終わったね」と先生の声がすぐそばで聞こえた。すぐ手が触れる距離に先生が立っていて、なにか手の中の容器の蓋を開ける。容器の中身だろう、嗅ぎ慣れない、けれども不快ではない、青々として爽やかなにおいがする。

「ごめん、練り香水も一つもらうわ」と少し張った声で先生が言うと、後ろから「分かりました」と店員の女性が答える。なるほど、香水の香りだったのかと納得したところで、先生が右手の人差し指で容器の中身を一拭いする。体を少しこちらに傾けて、鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、さっきのにおいが一層強くなり、思わず目を瞑る。冷たくてがさついた指先が、右の耳の裏をぬるりとなぞる。肌がぞわりと粟だって、肩が跳ねるのは、しかし、嫌悪でないのは明確だった。むしろ、もっと触っていてほしいと、思ってしまう。その願いを分かっているかのように、先生の指が、左の耳の裏をぬるりとなぞり、続いて、項の真ん中をそっと触れた。

「うん、綺麗や」

 そっと目を開ける。先生の右手は首の後ろに回されたままで、すぐそこに、なんとも満足げで、すがすがしいような、先生の笑顔があった。


 一生に一度はお伊勢さん。

 そう言われていたのは、江戸時代だったか。戦前にはすでに大阪から電車を使って日帰りで参拝できるようになっていたはずだから、長らく人気のある観光地なのだろう。今日も、平日のはずなのに、人とすれ違う度にぶつからないように気をつけなければいけない程度には、人混みになっている。多いのは、団体旅行と思しき、やや年齢層が高めの集団である。さっさと歩く先生の後をついて、そうした人と人の間をすり抜けていく。すれ違う度に視線を感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。和装姿で連れ立って歩いている二人組は、他に見当たらない。端的に言って、目立っている。先生は、すれ違う度にわずかに振り返り、自らの方を向く見知らぬ人のことなど全く気にならない様子で、店の軒先に近寄り、並べられた商品を眺めて、店員に声を掛けられる前に離れるというウインドウショッピングを繰り返している。 

「先生は、慣れてるんですか?」

「何に? 場所か、状況か。ああ、逢い引きやったらそれなりやなあ。特に、好きな相手を好きなように着飾って連れ回すんは。君は? デートは初めて?」

 にこやかでいて、煙に巻くような答えである。隠されないが押しつけがましくもない好意をこうして言葉にされると、反応に困る。少なくとも、問い返された内容には答えられず、先行く先生の後をしずしずついていく。しゃんと伸びた背筋に、鼠色の着物と羽織はやはり似合っていて、先生と同じぐらい似合うように着物を着られているかというと、自信がない。先生に選んでもらった着物を、先生に着付けてもらって、先生が選んだ香りをすら纏って、これ以上ないくらいに着飾られている。浮き足立って走り出してしまいそうになるのを抑え込むには、周りからの不躾な視線も丁度いい。

 少しずつ近付いているのは、伊勢神宮の内宮、と思われる。入り口で観光案内を説明してもらったとき、正式には、外宮から内宮へという順で詣でるのだと説明してもらった。今日は時間もないし、略式で内宮だけ参るのだと。店の居並ぶ通りを歩き進んでいくうちに、次第に空気が水気を含んできているように感じるのは気のせいか。あるいは、緑のにおいが濃くなってきているように感じるのは。一瞬息を止めて、ゆっくりと吐き出し、深く吸い込むと、先ほど先生につけられた香水のにおいがまず強く香る。うまく形容する言葉が見つからない、決して嫌ではないにおい。先生が綺麗、と形容したにおい。

 そのうちに見えてくる鳥居は、一見すると灰色で、おそらく、木をそのまま使っているのだろう。鳥居の下には橋が架かっていて、その下を川が流れている。決して少なくない人が行き交う様子を眺めていると、どうやら、人の流れは右側通行らしいと分かる。橋の手前で立ち止まり、軽く一礼をしてから進み出す和服姿の女性。橋の向こうから歩いてきて、鳥居をくぐってから振り返り、帽子を脱いで一礼する男性。先生も、鳥居をくぐる手前で立ち止まり、軽く礼をしているので、それに倣って礼をする。

 神社に来るのは随分と久しぶりだった。初詣にもこの数年は行っていない。職場の上の人間なんかは、一年の業績祈願だとかで毎年業務として初詣をしているらしいと聞くが、そのあたりは平社員には関係がない。最後に神社に行ったのは、確か、大学四年生になりたての頃、就職活動を始めて間もない頃、姉と二人で祈願に行った、あのときではなかったか。双子とはいえ、男性と女性、Ω性とα性で、性別がことごとく違うものだから、全く似ていない双子で、一目でそうだと看破されたことはなかった。距離は近くて、平気で手をつないで歩いていたりしたものだから、よく間違えられるのは恋人同士だった。悪気なく尋ねられ、手と首を横に振って否定するのは、大抵姉の役割だった。二人で出掛けるときは大抵手をつないでいた、互いのケーキを半分ずつ交換して食べることがあった、何かあれば一つのベッドに潜り込んで一緒に眠った、姉が結婚して家を出て行く日まで、当たり前のように。あれは、双子だから、肉親だからと言うわけで説明が出来る距離の近さだったのか。それとも、性交をしたα性とΩ性だからできたことだったのか。すべて言い出すのは姉の方で、言われるがままに従うばかりだった。

 あれも確か、休みの日に二人で家にいるときに、姉が急に「願掛けに行くぞ」と言い出したのがきっかけで、部屋着の上にトレンチコートを羽織って、近所の小さい神社に出掛けた。姉も同じように、部屋着にコートを羽織っただけで、黒いスニーカーで軽やかに歩みながら、当然のように手を差しだしてきた。早春の昼下がり、曇りなのに外は明るく、人影は少なかった。目的地である神社も、しんと静まっていて、立ち止まることもなく、手をつないだまま二人で鳥居をくぐった。屋根の色が煤けて、でもきちんと掃除はされている本殿にたどりついたところで、姉が「賽銭忘れた」と言うから、財布から二枚の十円玉を取り出して、一枚を姉に渡して、賽銭箱に放り込んだ。呼び鈴を鳴らして、二礼二拍で手を合わせて、願い事は唱えずに一礼をして、隣の姉を見た。ひさしの陰が顔に掛かって、少し俯いた目元は暗く、茶色い癖毛が頬に掛かっていた。姉をうつくしいと思った、最後から二番目の日のこと。

 先生の後ろに並んで、手水の順番を待つ。着物の袖を濡らさずに手を洗う自信がないので、先生の仕草をよく観察しておこうと、体を少し右に傾けて、先生の手元をのぞき込む。袖口を少したくし上げて、柄杓を手に取り、柄杓を持つ側の袖を、逆の手で軽く押さえて柄杓に水を汲む。手を洗う間、肘より手首を高くして、袖がずり落ちてこないようにしている。柄杓から右手に水を汲むときも同じようにして、柄杓をゆすいで戻すときは、また、柄杓を持つ側の袖を手で押さえる。一連の動作を、先生はごく自然にやっていた。

 先生が退いたところに進み出ながら、袖を肘のところまでたくし上げる。左手の袖を押さえながら柄杓を手にとって、水を汲む。手を肘より高くしたまま、右手を柄杓の水で洗って、柄杓を持ち替えて、続けて左手を洗う。もう一度柄杓を持ち替えて、くぼませた右手に水を汲み、口に含む。わき水か何かなのだろうか、冷たさに目が冴える。水を吐き出してから、柄杓に残った水で、右手を洗う。袖を濡らさなかったことに安堵しながら、左の袖を押さえて、柄杓を元のところに戻そうとすると、右腕の内側を、つう、と冷たい水が伝ってきた。なんとか柄杓を置いてから、それでも肩をすくめてしまうと、先生が「濡れてもうた?」と笑顔で問いかけてくる。答えずに歩いて行くと、先生はまた少し笑って、歩き出す。

「考え事してたやろう」

 じゃくり、と玉砂利を踏んだ足がそのまま止まってしまいそうになるのを、なんとか踏み出す。見透かされていたのか、そんなに分かりやすかったかと、言葉に出さず考えていると、「視線がもう、どこか行ってもうてたよ」と先生が言う。何の意味もないのに、思わず目元を手で押さえた。溜息が出る。先生は「手強いなあ」とさっぱりした声音で言って、すたすたと歩いて行くので、置いていかれないように足は動かす。面白がっているのか苛立っているのか、何かささくれ立った声はしているのに、気持ちを読ませてくれない先生も、充分手強い。

「どうして神社にしたんですか」

「んー。神社いうか、お伊勢さん。伊勢神宮って通称なん知ってる?」

「単に神宮、が正式だとは」

「そうそう。天照大神信仰の大本山。本山っちゅうとちょっと違うけども」

「先生のご専門とはあまり関係がないような」

「狼信仰は知ってるやろ? 民間伝承にもやし、日本書紀なんかにも「おおまぐちのかみ」って書いてある。ちょっとでもニホンオオカミについて書いてあったらなんでもかんでも読みこんだんや、日本神話も少しかじったよ」

「だから、神宮に思い入れがあると」

「だから、とは違うかな」

 先生が少し歩調を緩めた。声も次第に棘がとれて、穏やかになっている。隣に並んで先生の顔を見ると、なるほど、考え事をしているとすぐ分かる、どこを見ているともしれないまなざしをしている。歩調が緩んだのも、考え事の方に気を取られているからだろう。しばらく見つめていると、大きく瞬きした先生の目と、目が合った。苦笑い、少しの羞恥を含んだ苦笑いをして、先生が口を開く。

「生まれた県を初めて出たんが、ここに来たときやっただけ」

 そうして、苦笑いをふつうの笑みに戻して、腕組みをすると、また歩調を早める。先生が言ったのを素直にとらえれば、遠出をする旅行かなにかに初めて来たのが、この場所だったということだろう。そんなところに俺を連れてきてくれたということをうれしく思っていいのだろうかと考えながら、先生の背中を追った。


 姉をうつくしいと思った最後の日は、姉の結婚式のまさにその日だった。仕事、不動産販売の営業の仕事を通じて知り合ったという、一回りほど年上の男性を、結婚相手だと言って実家に連れてきたのが結婚式のわずか三ヶ月ほど前で、ろくに準備期間もなかっただろうに、姉が身につけたウエディングドレスは、あつらえたかのように姉にぴったりだった。レースのハイネックが首とデコルテを覆って、艶めいたシルクが胸元から腰にかけて体のラインに沿って立体的に裁断され、緩やかなドレープと、斜めに入ったフリルが、裾に掛けてのマーメイドラインを引き立てていた。いつの間にかばっさりと髪を切っていたショートカットに、パールをあしらったティアラを飾って、耳元にもパールのイヤリングを飾っていた。いつになく丁寧な化粧もあいまって、ただ、椅子から立ち上がって歩いてくる動作さえ、洗練されて見えた。「嵐」と、姉と対になる名前を呼ぶ声も、ドレスに、アクセサリーに似合うようになのか、心なしかいつもより高く聞こえた。靴のヒールが高いのかいつもより目線が近くて、どきりとした。「綺麗?」と尋ねられて、なんと答えたのかは全く思い出せないくせに、それを聞いた姉がただただうれしそうに笑ったのを、ああうつくしいなと、恨み辛みも憎みも嫉みも忘れて考えたのは覚えている。

 店頭にディスプレイしてあるイヤリングは、あの日に姉がつけていたのとよく似ていた。それでふらりと立ち寄った店で、何故か、かんざしを購入しようとしている。今朝、ガラステーブルの上に置かれていた、先端にガラス玉の飾りが付いたかんざしと、よく似た形のかんざしを、気が付いたら手に取っていて、店員の説明を受けるままに、購入することになっていた。デビットカードで支払いを済ませて、今は、包装されるのを待っている。その間、参拝を済ませてすぐ、しばらく別行動だと別れて歩いて行った先生の後ろ姿を思い出したくなくて、敢えて、姉のことを思い出そうと努めた。結局、別行動とその後の集合場所を告げるまで、先生は全く話してくれなかった。さして慣れてもいない草履で、時折少しの段差につまずきながら、黙りこくったまま進んでいく先生に置いていかれないように、必死に歩いた。別れる間際、先生は笑顔で軽く手を振っていたが、それが最後になるのではないかという謂われのない不安が、じわじわと首を絞めている気がする。このまま、東に引き返して、何もかもなかったことになってしまうのではないかというおそれ。それを見ないふりをするために、姉の結婚式を思い出すというのは、何か本末転倒のような気もする。

「お客様」と、丁重な笑顔と共に差し出された紙袋を受け取って、自動ドアをくぐって店を出る。コートを重ねているとはいえ、着慣れない和服の袖口から冷たい空気が侵入してくるのに、思わず肩が震える。自分で自分の体を抱いて、手のひらに力を込める。ゆっくり息を吐くと、力が抜けて、それがまた寒さを一層感じさせて、また、身震いをした。

「何やってるん」

 愉快そうな声に振り向くと、いつの間にか先生が立っていた。目が合うと、悪戯が成功したときのように、厭らしく目を細められる。「買い物してんね」と言う先生も、片手に紙袋を提げている。来る途中でも見た気がする、土産物の定番であるあんころ餅の名前が書かれた紙袋。「はい」と短く答えると、先生は「そう」と軽く頷くばかりで、歩き出す。待ち合わせといっていた場所に向けてではなく、おそらく、駐車場に向けてだ。もしかすると、店に居るのを見られていたのかもしれない。それで、買い物を終えて出てくるのを待ち伏せされていたのかもしれない、と思う。そうしたら、さっきのどこか得意げな笑顔にも納得がいく。

「僕も買い物しててん。赤福。食べ歩きできると思ったんやけどなあ」

「なかったんですか」

「うん。よう考えたら、餡子に餅が埋まってるから、難しいわなあ。せやから、二個入り二つ買うて来た。一箱ずつね。僕は車の中で食べるから、君は宿に着いてからおやつ代わりにし」

「おやつ」

 変なところを繰り返してしまったと思うのに、先生も「そう、おやつ」と繰り返す。当然のように、この後車に乗って、一緒の宿に泊まる前提で先生が話しているのに気が付いて、安心する。この後、先生は、助手席に座って餡子に埋まった餅を食べながら、道案内をしてくれるのだ。今日の宿に向けて。

「もしかしたら、宿でも赤福置いてるかもしれんけどね」

「旅館って必ずお茶請けに甘いもの置いてますよね」

「温泉に入る前に食べて、血圧あげてもらうためっていう説もあるけどね。それで、君は何買うたの」

「かんざしを」と、なんの躊躇もなく口にしてから、ブレーキがかかる。どうしてか買ってしまったとしか言いようがないぐらい、購入までの思考も行動もふわふわしていて、本当なら、もう少し何かが分かってから先生に言いたかった。これを渡す相手が先生なのだけは、確かなのだから。

「ふうん」と、先生は呟いた。声はどこか愉快そうだった。先生のためにかんざしを買ったということを、嫌悪されているようには聞こえなかった。先生はこちらを、俺の手元の紙袋をちらりと見て、「えらい高そうやな」とおかしそうに言って、「じゃあ、明日の朝は、君に髪まとめてもらおかな」と、明日の予定を口にした。つまり、先生は、明日の朝も、一緒に居る予定をしてくれている。あさってがどうか、しあさってがどうかはまだ分からないが、少なくとも今日の夜に心中するということはないらしい。「分かりました」と答えると、先生は満足げに頷いた。項にまとめた髪の根元に、かんざしの頭の、ガラス玉の飾りが艶めいて見えた。

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