松葉のにおいは綺麗

ふじこ

松葉のにおいは綺麗_1

「最後のニホンオオカミの性は、α、β、Ω、どれやったと思う?」

 助手席に座る先生の掠れた声が、換気のために少しだけ開けた窓から強く吹き込む風に紛れて、すぐに消えた。高速道路で車を走らせる最中に、そんな大切そうな質問をするのはやめてほしい。ほとんど頭に残らない、考えられない。問いを発した相手の表情が読み取れない。先生が低い声で笑うのは、そんな俺の苛立ちを読み取ったからか。

「記事にはならん与太話やけど、ドライブのお供にはええやろ」

「……そうですね。俺は、あえてαΩ性だけの特集を組んで、需要があるのか不思議に思いますけど」

「辛辣やなあ。ただの仕事やのに」

 年に数度発行されるムックのテーマの選定には一応末端の社員も関わる。といっても、素案のたたき台になるブレインストーミングを一回行う程度だ。その後、素案から絞り込んでいく過程には、有力なテーマとよほど関わりが深いのでもなければ参加はしない。つまり、普通に就労しているΩ性が珍しくもない昨今、αΩ性をテーマに選定するにあたって、Ω性かつ男性である俺が選定の過程に呼ばれないのも当然だし、取材の担当にあてがわれるのだって当然である。

「専門外なんですαΩ性の話なんて」

「当事者やのに?」

「抑制剤があれば、何も気にせず勉強に打ち込めたので」

「要するに避けてたんか。それなのに取材に来さされるなんて、災難やなあ」

 災難なんて、今にも笑い出しそうな声で言っても説得力がない。溜息をつきかけたところで、視界の端をいやに気を引く四桁の数字が横切る。8617、7で割って1231、素因数分解終わり。

「ところで君の専門は? あそこの記者さんて、修士まではとってる人多かったと思うんやけど」

「なんで取材される側が取材みたいなことするんですか」

「なんでってそりゃあ」と言うと、先生は今度こそけらけらと笑って、笑ったままの声で「今から心中しようとしてる相手のことを知りたいと思うのは当たり前やん」と続ける。そういうものですか、と言おうと思ったのに、喉が詰まって声が出ない。ハンドルはしっかりと握れているから、多分、大丈夫だろう。

 どうして俺は、ただの仕事で初めて会った、縁もゆかりもないこの人に、言ってしまったのだろうか。「俺と心中しませんか」なんて。


 御池小路、本邦のオオカミ研究の第一人者。ロシア各地の大学や研究機関に所属してフィールドワークを行い、ハイイロオオカミの生態について数多くの論文を発表。帰国後は、それまでと同様のハイイロオオカミについての研究を続けると共に、史料を基に、絶滅したとされるニホンオオカミの生態について研究を行う。数年前に出身大学の教授職を辞して以降、学術界からは遠ざかり、一般向け書籍の出版や講演、テレビ番組への出演を行っている。

 俺が先生について知っていたのはそのくらいのことであり、おそらく世間一般に知れ渡っているのと大差はない。ただ、限られた時間で情報収集したせいか、先生の容姿については記憶に残っていなかった。そのせいで、先生の自宅を訪ねたとき、出迎えたのが本人だと気が付かなかった。玄関で来客用のスリッパに履き替え、「御池先生は」と尋ねる俺の前で、ぴんと伸びた背筋によく似合うくすんだ枯れ草色の着物に、防寒のためか蘇芳色のストールを羽織って、シルバーグレイの長い髪をゆるくかんざしでまとめ、「ここにおるけど」と小首を傾げていたのが、先生だった。

 かつて猟銃を片手にフィールドワークに走り回っていたという逸話と、着物に身を包んだいかにも物静かそうな老人が結びつかなかった。αΩ性はともかく、男性だとは聞いていたから、髪が長いのも、髪をかんざしでまとめているのも、予想外だった。

 そして、初めて会った男性を前に、自分の心臓の鼓動が速くなったのも、予想外だった。どんな異性を前にしても、初めて性交した双子の姉を前にしてすら、思えたことのない感覚だった。

 目を逸らした先の靴箱の上には、大きく引き延ばされた、雪原を走るオオカミの写真が飾られているだけだった。それを見れば、自分が何のためにここへやってきたのかは思い出せた。失礼を詫びて、今日はよろしくお願いしますと挨拶をすれば良いのだということもわかっていたはずだった。

 それなのに、口から滑り出たのは、「俺と心中しませんか」と、一緒に死んでほしいとこいねがう言葉だった。

 俺はどんなに酷い顔をしていたのだろう。誰より先に怒り出して良いはずの先生は、眼鏡の奥の目を見開いた後、眩しいものを見るように一瞬だけ目を細めたかと思ったら、哀れむようなまなざしを俺に向けた。「ええよ」と投げかけられた短い返事は、何時間も水を飲んでいないときのようながさがさした声だった。


 助手席で喋る先生の声がずっとわずかに掠れているのを聞いて、俺は、それが先生のもともとの声質であることを知る。「5087」と四桁の数字を読み上げる声もやはりわずかに掠れている。間髪入れずに「素数ですね」と答えると、先生は「すごいなあ」と笑う。

「数学科出た子らってみんなこないなことできるん」

「さあ。暗算マシーンみたいなやつもいましたけど、常に関数電卓持ってるやつもいましたからね。むしろそっちが多数派かも」

「……ああ、“あんざん”ってそっちか」

 さらりと告げられた勘違いは、なかなかに笑えない。「産む機械」は雌性、女性とΩ性に向けられた僭称だ。特に、発情期という厄介な体質を持つΩ性に対して、その社会的役割を狭めるために、権力側がプロパガンダしていた過去が、多かれ少なかれどこの国にもある。最近でも、政治家が公の場でそれを言って問題になったところだ。

「あかんね、仕事のこと考えてると、他もそれに引っ張られるわ。もう若くないんやな」

「若い頃は違った、と」

「講義しながら夕飯のメニュー考えとったけど、ばれたことはなかったね。そういうことができんようになってきたから、思い切って退官したんはあるなあ。――はい、一つ教えてもらって一つ教えたから、また僕の番」

「今の、一つにカウントするんですか」

「するよ」

 先生は楽しそうだが、俺はげんなりしている。雑談だったのが、いつの間にか一問一答になっていた。それに気付いてやめようとした俺に、先生が「相手のことよう知らんまま一緒に死んだとして、それは心中と呼べるんやろか」と疑問を投げかけてきて、どうしてか言い返せず、そのまま一問一答が続行している。心中を言い出したのは俺の方だから、それを出されると弱いのかもしれない。いつまで続くのだろう、車を降りるまでか。静岡県に入ってだいぶ経つから、そろそろ高速を降りる頃合いかもしれない。

「うん。君は紅茶派か珈琲派か」

「さっきから、お見合いか合コンみたいな質問ばっかりですね」

「似たようなもんやろ、この旅行が」先生の口ぶりは、駄々をこねるこどもを諭すようだった。似たようなものかと納得してしまえるのがたちが悪い。結果だけが欲しくて過程は嫌だなんて、確かに道理が悪い子どもみたいではある。「それで、どっち?」

 本当に、ありきたりな質問ばかりだ。さっきは特技を聞かれたので素因数分解と答えた。他に聞かれたのは、好きな色、よく買う服のブランド、通勤手段、趣味、朝食はパン派かご飯派か、家族構成、出身校、名前の由来、好きな動物、一番古い記憶。嘘をつく理由もないから全部正直に答えた。そして、俺からの質問は結局一度もない。先生は俺の答えに便乗するように、何か一つエピソードを披露して、俺の質問への答え代わりにする。質問しろと言われても困っただろうから構わないのだが、どこか、からかわれているような、手のひらで踊らされているような、居心地の悪さがある。

「どちらかといえば、珈琲ですかね」

「理由は?」

「別にないですけど」と言っても、先生が追及してくるのは分かっているので、自分の答えの理由を少し考える。

「……高校生の頃、徹夜する姉にせがまれてよく淹れてたんです。ただのドリップコーヒーですけどね。はじめの頃に薄いだの香りがないだのさんざん文句を言われたので、自分なりに練習した時期がしばらくあって、そのせいでしょう」

 気が付いたら自分で豆を挽いて、ドリッパーを使って淹れていたので、これも趣味にいれてよかったのかもしれない。大学生の頃のアルバイトも、チェーンのコーヒーストアだった。

「そうか」と先生は頷いたようだった。「また、君の姉が出てきたね」と続けられて、軽く息を呑んだ。

「家族構成は、両親と、もう結婚した双子の姉。一番古い記憶は姉とのかくれんぼ、よく買う服のブランドは就職のときに姉が見繕ったスーツの店、名前は凪なぎと嵐あらしで姉と対。趣味は姉が声楽部だったからクラシック鑑賞。出身校を選んだ理由は姉と同じだったから。ようそこまでひとりに傾倒できるもんやなあ」

 先生はすらすらと続ける。メモもとっていないのによく覚えているものだ。全く意識していなかったのに、意識していなかったからこそ、こんなに姉のことを話していたとは、俺も大概救われない。笑いたい気分になるのに、ゆっくり息を吐くのと一緒に目が潤んだ。

「妬けるね。まるで恋や」

 平坦な先生の声を否定すべくもない。かといって肯定の返事をするのも躊躇われて、沈黙を選ぶ。視界の右端に映ったナンバープレートの四桁の数字、1668、素因数分解して、2の二乗、3、139。大丈夫、思考は働いている。努めてゆっくりと呼吸をして、返事のために口を開く。

「あ、次の出口で降りて」

 弁明を口にするよりも先に先生がそう言って、確かに、出口が近いことを示す看板が道の端に立っていた。昼過ぎに都内を出て、時間だけならもう夕方だ。日が落ちるのが遅くなってきているから、西に車を走らせていても夕陽に目を焼かれないのは幸いだ。

 ミラーで後方を確認してから、左のウインカーを出す。看板に従って出口の方へ車線を移動して、ブレーキを踏んで減速する。停止することなく料金所を通り過ぎ、あまり速度を上げないまま車を進める。カーナビはついていないのにETCは載せているなんて、アンバランスだ。

「高速降りた後もしばらくは看板どおりに道なり進めばええよ。最後だけややこしいから僕が道言うわ」

「はい。浜名湖方面でいいんですね?」

「うん。久しぶりに鰻が食べたいな思ってね。君、鰻は大丈夫?」

 信号待ちの車の列の一番後ろに付けて止まり、信号の横に出された看板を見る。目的地である浜名湖の文字は左折方面に記されていて、止まった車列に間違いがないことに安堵する。月に何回かの運転を、少ないととらえるか多いととらえるかは人によるだろうが、ここまでの遠出は久しぶりだったので、若干の緊張はある。

「鰻は、食べますよ。自分じゃあんまり選ばないですけど」

「どうして?」

「姉が」と口にしたところで、思わず先生の方を見た。先生は、きっとさっきもそんな表情をしていたのだろうなと想像できる、嘘をついた子どもの弁明を聞く母親のような目付きでこちらを見ていた。続きを言わない方が怒りに触れるのだろうととっさに判断がついて、先生から目を逸らして前を向いてから、口を開く。

「姉が、皮だけ俺に押し付けてくるんです。ぶよぶよして嫌いだからって。俺は別に皮も嫌いじゃないんですけど、皮だけ二倍あるって、脂が多いせいか、鰻を食べた後って胸焼けしてしまって。そんなことが続いたせいですかね」

 言い終えると、信号が青になって車列が動き出す。左のウインカーを出してからブレーキを緩め、軽くアクセルを踏み込む。後どれくらいで目的地に着くだろうかと、考える。先生は、「ふうん」と気のない相槌を打って、「我が侭なお姉さんやね」と鼻で笑った。それはその通りだなあと思ったら、ハンドルを握る手に力がこもった。


 床に寝転がると、い草のにおいが爽やかだった。畳なんていつぶりだろうか、実家には大学を卒業してから帰っていないから、五年ぶりか。座布団を引き寄せて、半分に折り畳んで、頭の下に入れると、実に良い枕になってくれた。

 食事は湯上がりにと言い残して、先生はひとりで大浴場へ向かった。部屋に残されると、することも思いつかない。スマートフォンはともかく、本の一冊や二冊は持ってくるのがよかったか。家の本棚には仕事に関係する自然科学関係の専門書だけでなく、小説もいくらかは置いてある。ほとんどがミステリーで、数名の作者のものだ。どの作者も、姉に勧められて読み始めたのがきっかけで、集めたのだった。それで最近は、小説を読まないし、買いもしていないのかと、ようやく気が付いて口元が歪む。意識をしていなかったのは、それが当たり前だったからか、それとも、目を逸らしていたからか、俺の生活には姉が根ざしすぎている。実家に帰っていないのと同じ分だけ、会いもしていないというのに。

 代わりに、先生のことを考える。先生に会った瞬間、自分の心臓の鼓動が跳ねた理由、自分と一緒に死んでくれないかと乞うた理由。運命という単語が脳裏を過ぎって、思考の真ん中に鎮座する。運命の番という、α性とΩ性についてまことしやかに語られるおとぎ話。科学的な裏付けは今のところ一切ないというのに未だ語られているのは、自分たちがそうだと公言してはばからない手合いが少なからずいるからであるし、その相手と出会うことで救われると信じるΩ性がいるからだろう。

 先生が俺の運命か。

 端から信じてもいない疑問を振り払うのに、首を横に振る。ただのひとめぼれ、ただの恋。多分そうなのだろう。他人に言えば悪趣味だと笑われそうだが、先生の立ち姿は非常にきれいだったから、あの瞬間に恋に落ちたのだと俺は納得できる。自分の性指向が女性やα性に向いているとはっきり自覚したことはなかったから、明らかに男性に見える先生に恋情を向けたとて違和感はない。

 先生のαΩ性はどれなのか。合コンみたいなものだと言いながら、肝心のことを聞きそびれている。若い世代なら自己紹介の折にさらりと口にするのが普通だが、先生の年代ならばまだαΩ性をおおっぴらに口にしない方が普通だろう。αΩ性は、あまりに社会的地位と結びつきすぎていた。β性だからというだけで、同じ能力でありながらα性より不遇な役回りを言われる。Ω性だからというだけで、就労を断られる。日本が第二次世界大戦に負けたのは、軍でαΩ性による人員配置が漫然とまかり通っていたからだなんていう話もあるぐらいだ。

 いまどき、α性だって能力に見合った地位にしかつけない。β性だから頂点に上り詰めるのを諦める必要もない。Ω性も冷遇されず、普通に生活が送れる。先人達の社会運動と科学による発明には、感謝するしかない。先生の自宅から一旦自分の家に戻ったとき、家を出る前に鞄の中にあることを確かめた抑制剤のピルケースを思い出す。あれも姉から貰ったものだった。高校に入学するときに、祝いの品だと言って贈られたのだ。凪いだ海を描いた絵が印刷された、金属製のピルケース。

 ところで、先生は、当然のように俺がΩであるという体で話していたが、俺はいつ、自分のαΩ性を先生に伝えただろうか。心中しませんかと言って、それを了承されて、ようやく仕事の話を始めた。その自己紹介の中で伝えただろうか。あまり覚えていない。

 寝返りを打ってうつぶせになると、い草のにおいが一層強く香った。


 黒い漆塗りの重箱の蓋を取ると、白い湯気がほのかに立ち上る。湯気と一緒に、甘辛くて香ばしいにおいがした。重箱いっぱいに鰻が敷き詰められている。夕飯は鰻重と肝吸いのみ。いささかバランスが悪くないだろうかと思うが、先生は満足げに「これやこれ」と鰻重を頬張っている。

 全体に山椒を振って、箸で鰻を一口大に切る。それを米と一緒に箸で持ち上げて頬張る。甘辛いたれと鰻の脂が、てらいなく美味しい。今まで食べていたのよりも塩気を強く感じるのは、皮が追加されていないからなのか、香ばしさも若干少なく感じるが。

「こんなに美味しいから、鰻も絶滅危惧種になったんやなあ」

「……養殖の鰻も、稚魚を捕って育ててるんでしたっけ」

「完全養殖はまだむつかしいらしいからね」

 先生が一度箸を置いて、お猪口の日本酒を飲む。鰻重が来るまでの間、骨せんべいを肴にして徳利をひとつ空けてしまっていたが、先生の顔色にはいささかの変化もない。うわばみなのだろう。

「ニホンウナギの生態も完全に解明されてはないし。早晩絶滅することはないと思うけど、みんな美味しいもんは食べたいからなあ」

「その理由で絶滅したというと、リョコウバトとか」

「古くはステラーカイギュウとか。よう勉強してるね」

「一応、先生からはオオカミの話を聞くつもりでうかがったので、予習はしてましたから」

「予習ね」と言って先生はまた一口日本酒を飲み、口を閉ざしたままで笑い声を漏らした。空になったお猪口に手元の徳利から酒を注いで、またお猪口に口を付ける。そろそろその徳利も空になるんじゃなかろうか。

「本当に、ニホンオオカミは絶滅したんやろうかと、考えることがある」

 唐突な言葉に、酔いから来た戯言だろうかと思って先生の顔を見るが、先ほどまでと同じく、これだけ日本酒を摂取したとは思えない白い顔をしている。顔に表れなくてもアルコールによる酩酊が思考に影響を及ぼすことはあるだろうが、それにしては先生の口調ははっきりとしている。冗句だとしても、酔いのせいで口にしたわけではないのだろうと結論づけ、軽く頷くと、先生が軽く目を細めた。

「ヒトの歴史が残るようになって、いろんな形で生物の姿が記録されるようになって、しかもその手段はどんどん進歩しとる。移動手段に探索手段も、昔とは大違いや。それやのに、たかだか百年前を最後に確実な目撃情報がないだけで、ニホンオオカミが絶滅したなんて、誰が証明できるやろう」

「先生は、ニホンオオカミは絶滅していないと本気で考えてらっしゃるんですか」

「いんや。誰にも証明できんやろうと思うてるだけ」

「同じような理屈で、恐竜が絶滅したことは証明できないと言う人の取材をしたことがありますよ」

「それ、ほんまに君のとこの雑誌?」と言って笑うと、先生はお猪口の中身を一気にあおった。「さすがにオカルトの域やな。それかSFか」

「コナン・ドイルですかね。失われた世界」

「ほんまにSFやん」と、先生は肩をすくめ、それでもまだ続ける。「僕が大学におった間だけでも、何回か、ニホンオオカミが出たいう話はあったからね。まあ、どれもそうやとは言い切れずに終わったんやけど」

 先生は箸を手にとって、鰻重の続きを食べ始める。どうやら話は一旦ここで終わりらしい。俺も、まだ一口しか食べられていなかった鰻重の残りを口に入れる。乗せられた鰻の分しか皮がないことに違和感を覚えるのが憎らしい。そのことを頭の隅に追いやると、今し方の先生の話について考え始めてしまう。

 ニホンオオカミは二十世紀の初頭に絶滅したとされている。先ほど先生が言ったとおり、確実な目撃情報が最後に確認されたのがその頃だったからだ。狂犬病の蔓延による積極的な駆除や、遺骸の利用を目的とした狩猟、農林業における害獣駆除で、数を減らしていた末の絶滅だったといわれている。まさかそんな短期間で絶滅するとは誰も考えていなかったために、残っている標本の数は多くない。

 絶滅前、最後に確認されたニホンオオカミは、剥製にするために売り渡された、若いβの個体だったという。

「最後のニホンオオカミはβ、ということになっていますね」

 思考が車内での会話に回帰して、手を止めて呟くと、先生はかすれた声で笑った。徳利を傾けると、日本酒がほんのわずかにお猪口に注がれる。半端に満たされたお猪口の中身を一気にあおって、先生は「そう、βや」と笑ったままの声で言う。

「オオカミのαΩ性においてのβは、潜在的αであり潜在的Ωである。群の中での順位競争に勝利して番を得た個体だけがαΩ、繁殖のために性器を機能させることができる雌雄になり、子を成して群を作る。βは群に属しているこどもか、順位競争に敗れて放浪している個体か」

「最後に目撃されたβも、どちらかだったと」

「一度αやΩになった個体も、順位競争に敗れればβに逆戻りや。つまり、βがいたということは、αやΩがいたことの傍証になり得る」

 先生は笑ってはいたが、冗句をいっている風ではなかった。深刻な場面になるとあえておちゃらけた行動をとりたくなることがあるが、そういう笑いなのではないかと思われた。頷くことも先を促すことも躊躇われて、そういえば徳利が空になっているではないかと店員を呼ぼうと片手をあげかければ、「ええよ」と先生がそれを制止する。先生は、笑みをそのままに首をことりと傾けて「あんまり飲み過ぎると、残りの鰻が入らんなる」と言う。大人しく手を下ろして、自分の前の漆塗りの重箱を見れば、鰻重は三分の一ほど残っている。飲酒しながらだった先生は、俺よりも進みは遅いだろう。そう、俺たちはここに鰻を食べに来たのだ。

「明日はまた一日運転よろしゅうね」

「それくらいなら、いくらでも」

「いくらでもは無理や、この旅が終われば死ぬんやから」

 来週の仕事の予定を確認するみたいな気軽さで、先生は旅の目的について口にした。そうだ、ここには鰻を食べに来たのに間違いないが、俺が心中を持ちかけて、先生がそれを承諾して、どうせだったらその前に旅行でもしようと先生が言い出したから、こうしてふたりでドライブをして、宿をとって、温泉につかり、おいしい食事をとっている。

「どこまで行くおつもりですか」と、俺は今更の疑問を先生に尋ねる。先生に言われるがまま運転してきたが、最終的にどこまで行くつもりなのかは、まだ聞いてはいなかった。そんな当たり前のことを聞く余裕もないほど気が動転していたのか。

 先生は、右手の人差し指をすっと立てて、唇に押し当てると「秘密」と笑う。「心配せんでも、野宿なんかはせえへんから」と続けるからには、普通の旅行にはなるのだろうが、はぐらかされたのがなんとなく面白くない。

「道中はずっと僕の戯れ言聞きっぱなしやろうけど、大丈夫?」

「これが最後だと思えば、大抵の話は大丈夫かと」

「そう。まあ、僕が面白く話せるなんて、オオカミのことぐらいやけど。後はせいぜい、好きな相手のことをからかうか」

「好きな相手?」と、予想外の言葉に思わず聞き返せば、「きみのことやな」と、平静な声で返事がある。それに留まらず、「惚れた相手が他の異性に気ぃ取られてんのはおもろないし、せいぜい僕のこと見てもらえるように頑張るわ」と続ける。

 そんなことは、聞いていない!

 そう叫びたいような、もっとひどい言葉で怒鳴り散らしたいような、それとも何も言わずにここから走り去りたいような、色々な衝動がない交ぜになって、強く歯を食いしばってから、ゆっくりと息を吐く。顔面が熱い。先生は、さっきからずっと笑顔ではいるが、いよいよおかしそうに口の端を思い切りつりあげている。「そういえば」と言う先生の声は、笑いをこらえるように震えている。

「皮が足りない鰻の味はどう?」

 ――俺には双子の姉がいる。女性でありα性である姉がいる。当たり前に俺の生活に存在して、いなくなってなお存在感を放ち、ありとあらゆることの理由になってしまう姉がいる。

 俺は姉をどうしたいのか。俺を捨てた姉をどうしたいのか。その問いへの答えは、先生に心中を申し出たという事実そのものだと、分かってはいる。だからといって、縺れに縺れた感情を、染みついた習慣を、今すぐに解きほぐしてなかったことにはできない。

 パスポートは持ってこなかった。国外には出ない。せいぜい国内で、関東から西へ向かう旅ならば、そこまで長い旅行にはならないだろう。その間に、姉を、俺に根ざす姉のおもかげすべてを、どうにかできるだろうか。まだ、分からない。

 しかし、今食べた食事についての感想ぐらいなら、伝えられる。

「ちょっと、物足りないです」

 先生は「そう」と笑って、箸を手に取る。酔っ払いながらのはずである所作が、玄関先で俺を迎えてくれたときのぴんと伸びた背筋と同じようにうつくしくて、また鼓動が跳ねた。

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