翌日、美莉花みりかは夕暮れを眺めながら、事務所の中でソワソワした気持ちを抑えていた。今日は生配信の日、美莉花みりかは緊張していた。こんのアバターを依頼したイラストレーターがツイートした、配信お知らせのインプレッションが見たことのない数字だったからだ。


「コンちゃん、大丈夫かな……」


 美莉花みりかは不安を抱えながらも、生配信に向けて準備を進める。後は講義終わりのゆうが来るだけで良い所までセッティングして、一息吐く。


「あの、ゆう君まだ来てないんですけど……遅くないですか?」

「ああ、ゆう君なら大丈夫ですよ。葉山はやまさん、驚かないでくださいね」


 近埜こんのが問題ないと言い切ったからか、美莉花みりかは安堵した。そして急速に、胸の中に信じられないほどの興奮が満ちてゆく。彼女は、既にゆうが気が付かないうちに配信部屋に入って、始まりを待っているのだと想像していた。こんが新しく生まれ変わる驚きを、自分にも味わわせてくれるのだと思い込んでいた。


 生配信開始時刻の寸前、近埜こんのは珍しく緊張した様に息を吐いて、配信ブースに割り振られた部屋へと入った。それに続けて、篠原しのはらも部屋の中へ消える。社運を賭けているのだから、自分に手伝いをさせて欲しいと名乗り出たのだ。


葉山はやまさんはコンちゃんのファンなんだから、生放送を見てておいてよ」


 自信満々な篠原しのはらにその時は僅かながら不安を覚えたが、美莉花みりかは今やそれ所ではなくなっていた。待機人数がいつもと桁一つ違う。

 ここから、深海ふかみこんは広大な海原へ泳ぎ出すのだと想像すると冷静じゃいられなかった。


 三、二、一……事前に作っていたカウントダウン動画が流れる。

 ゼロのタイミングで、配信開始と同時にマイクとカメラがオンになり、空気が一変した。


「よし! コンちゃん、頑張れ!」


 視線に祈りを込めながら配信画面を見つめていた美莉花みりかは、様子がおかしいことに気がつく。画面に映し出されたのは神絵師が産んだ深海ふかみこんではない――近埜こんのだ。

 アバターがうまく反映されていないことに気が付いた美莉花みりかは、慌てて部屋に駆け込んで叫ぶ。


近埜こんのさん、顔映ってます! アバター出てない!」


 近埜こんのは慌ててアバターを表示させたが、すでにその顔は視聴者たちの目に焼き付けられていた。コメント欄が「イケメン」「格好いい」で埋め尽くされる。折角の日だというのに、とんでもない失態だ。

 しかし近埜こんのは慌てず、真剣な表情のまま慌てた表情のキーを押した。


「あ、あの、今見たこと誰にも言わないでくださいね」


 身振り手振りも合わせながら、近埜こんのが謝る。すると、この放送事故にコメント欄は多いに賑わった。

 中には「コンノさんだからこんなんだ~」という書き込みもあり、その度に近埜こんのは「やめてください!」と真剣な表情で慌てているかのような台詞を吐いた。

 ここでようやく、美莉花みりかはおかしいと気付いた。


「こ、近埜こんのさん、何して……」


 部屋の中にゆうの姿は無く、こんとして振る舞っているのは近埜こんの篠原しのはらはその間違いに気が付かず、一心不乱にパソコンのキーボードを叩いている。


「あ、あの、社長……」

葉山はやまさん、ナイスアシスト。リアルっぽかったよ」


 笑顔の篠原しのはらは、この異常事態にSNSを更新をしていた。その内容は、『【悲報】新人VTuber、大物絵師を使っておきながら素顔を晒す放送事故』というもの。そして、近埜こんのの顔が映った画像を添付して投稿する。

 それを終えると篠原しのはらは満足げに頷き、美莉花みりかに小声で耳打ちをした。


「あ、葉山はやまさんって会社と関係ないアカウントあったりする? もしあったら、コンちゃん家のを拡散して欲しいんだけど」

「えっ? えっ?」


 事態が飲み込めない美莉花みりかは混乱し、ただ立ち尽くす。瞬く間に拡散される篠原しのはらのツイートのインプレッション数を眺めることしかできなかった。



 *   *



 立ち尽くしたまま、美莉花みりかは何もできずに配信が終わった。終わる頃には、同時接続者数が今までに見たことのない数字になっていた。深海ふかみこん――そして近埜こんのという名前は、視聴者たちの間で共有され、瞬く間に拡散していった。


『底辺VTuberの中身イケメン過ぎて草。なんでVやってるんだよ』


 最後のコメントが流れ終えると、近埜こんのはヘッドセットを外し、疲れたように溜め息を吐く。そして、無言でブースを出て行った。それに続いて篠原しのはらも部屋を出ていく。彼は「コンちゃん、良くやった」と近埜こんのの肩を揉んでいた。

 その背中を見送った美莉花みりかは、配信を切ったパソコンの画面に映る深海ふかみこんに視線を移す。


「ど、どうして」


 美莉花みりかは混乱し、現実を理解することができなかった。彼女が待望していた新生・深海ふかみこんは、その字の如く、新しく生み出された物だった。

 美莉花みりかは無力感と失望で震え、社長の無神経なツイートに怒りを覚えつつも、それをどうにかする力もなく、ただその場で泣き崩れた。


「コンちゃん……」


 その名を口にした瞬間、美莉花みりかはハッとする。


「私が好きになったのは、近埜こんのさんの方じゃない!」


 美莉花みりかの叫びは、配信用に壁に貼りつけた防音材に吸い込まれた。ただ、彼女が泣き止むまで近埜こんの篠原しのはらが部屋に入ってくることはなかった。


 あの日から、深海ふかみこんは〝こんのさん〟と呼ばれ愛されていた。狙っていたかの様に募集をしていた会社のアクアリウム商品を使った体験会は、一瞬にして枠が埋まった。

 広報として仕事を続ける近埜こんのは、実物を拝みに来た人達を豊富な知識と話術で視聴者を次々とアクアリウムの深淵に落としている。


「…………」


 ただ、美莉花みりかは喜ぶことが出来なかった。自分が好きだったこんはもういないのだから。

 美莉花みりかはあの配信、たった一言で、深海ふかみこんの中の人を近埜こんのにした。間接的に、水上みずかみゆうを殺したのだ。

 過去のこんは死んで、深い海の底に沈み、その亡骸に寄って来た人間共がコロニーを形成している。


「……あんな長ったらしい言葉、覚えてないよ」


 鯨骨げいこつ生物群集せいぶつぐんしゅう――駅までの道で聞いた話はこの話だったと気が付いた美莉花みりかは自嘲気味に笑う。そして後悔する。海底に沈む前に、自分でその亡骸を食べ尽くしてしまえばよかった……と。



《完》

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ISANA 南木 憂 @y_ktbys

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