水溜まりの世界

しらす丼

水溜まりの世界

 今日、お母さんと喧嘩をした。


 また喧嘩になるのが嫌で家に帰りたくない私は今、近所の公園にあるペンキの剥げた青いベンチに座っている。


「なんでいつもいつもお母さんは……」


 遠くの方から車のクラクションが聞こえた。

 その車は、いったい誰に何を伝えようとしたのだろう。誰にも届かず虚しく響いているだけだとしたら、なんと哀れなことか。


 深いため息をついてから、リビングで向かい合って立っていたお母さんの姿を、ふと思い出す。


 あの時のお母さんは、肩を落とし眉毛も口元も下がっていた。


 それは怒っていたわけではない。

 困っているだけなのだと、私は分かっていた。


 喧嘩の原因はいつものことだ。

 映画に行く約束をしていたのに、急な仕事が入ったと言ってお母さんは約束を破ったといういつものこと。


 私のお父さんとお母さんはどちらも働きに出ていて、平日だけじゃなく土曜日も日曜日もたまに仕事へ行くことがある。


 私がどれだけ泣きわめいても、お仕事を休んだためしはない。


 お父さんもお母さんも、私なんかより仕事の方がずっとずっと好きなんだ――


 それはずいぶん前から分かっていたことなのに、楽しみにしていた約束を破られ、私の心の火山は大噴火してしまったのである。


 先週の日曜日にあった運動会も、私の親たちだけが参加せず、私はお友達のみっちゃんの家族とお昼ご飯を食べた。


 楽しそうに自分のお母さんとお話しするみっちゃんを見て、私はすごく寂しかったという記憶が鮮明に残っている。


 今日はその埋め合わせにと計画されていた映画鑑賞だったのに。


「お母さんは嘘つきだ。私の事なんてどうでもいいから嘘をつくんだよ。仕事の方がずっとずっと大事なんだ」


 誰もいない公園で一人、身体から毒素を抜くようにその言葉を吐き出した。


 吐き出された毒は空気中に溶け、風に乗ってどこかへ飛んでいく。


 お母さんに届けばいいのに――。


 また大きくため息を吐き、空を見上げた。

 昨日までの大雨が嘘のような晴れ間。五月晴れ。


 六月の中旬にこんな綺麗な青空を見ることがあるなんて、と私は小さく口を開けていた。


 スズメたちのさえずりが聞こえる。どこかでハトが群れて歌っている。


 私の家庭と違って、世界は平和なものだ。


 それからふと視線を落とすと、大きな水溜まりが一つ、公園の砂場にできているのを見つけた。


 私は徐にベンチから立ち上がり、その砂場にそろりと向かう。


 水溜まりの一歩手前で止まり、その中を覗き込んだ。


 青い空と覗き込む私の顔。それだけを映し出す水の溜まり場。


 まるで歪んだ鏡のようだと私は思った。しかし、次の瞬間――その中に映る私はニヤリと笑う。


 そして右手を差し出してきたかと思うと、その手は水溜まりを越え、私の左腕を掴んだ。


 私がギョッとしているうちに、その手は私を水溜まりの中へと一気に引きずり込む。


 バシャン。プールに飛び込んだ時のような水しぶきの音が聞こえた。


 引き込まれる時に目を閉じていた私は、ゆっくりと目を開けて周囲を見る。


 何も無い。どこを見ても闇ばかり。

 そこには真っ暗な世界が広がっていた。


「ここは、どこ?」


 ふと落ちてきたと思われる上方へ視線を向ける。闇の中に一点、青く輝く丸が見えた。


「あそこから落ちちゃったんだ」


 私はカエルのように水をかいて上へと進む。

 あともう二かきといったところで、青く輝く丸の中に、よく知る女の子の姿を見た。


「私だ。私がいる」


 向こう側の私は見下ろすように私を見ていた。


 ニヤリと笑い、薄気味悪い。


 手を伸ばし、私は丸の向こう側へ出ようとしたが、その前に向こう側の私の足が丸の中央に落とされる。


 すると、青く輝いていた丸はあっという間に消えてなくなってしまった。


「え? どういうこと? 出口がなくなっちゃった」


 私は丸が消えてしまった場所をじっと見つめながら呆然とする。


「どうしよう。これじゃ、帰れないよ」


『帰りたくなかったんじゃなかった?』


「誰!?」


 キョロキョロと辺りを見回すが、その声の正体はわからない。


『こっちこっちー』


「こっちってどっち?」


『後ろを見てごらん』


 そう言われ、振り返るとそこには水色のワンピースを着た真っ白い肌の女の子が浮かんでいた。背中までありそうな黒い髪が、ワカメのようにふわふわと浮遊している。


 私は思わず悲鳴をあげ、後退った。


『そんなに驚かないでよー。傷つくでしょう?』


「あ、あなたは誰? 幽霊?」


『違う違う。私はこの水溜まりの世界の住人。レインっていうの』


「レイン?」


『そ。君みたいにこの世界へ突然やってきた子の案内人をしているんだー』


 レインはそう言ってニコッと笑う。


「水溜まりの世界? 案内人??」


 分からないことだらけで、頭上にいくつものハテナが浮かんだ。


『深いことは考えない! この世界を案内するから、ついてきて』


 レインはそう言ってふわふわと浮かんだまま、進んでいった。その後を急いで私も追う。


『まあ案内っていっても、案内するほど何かがあるわけじゃないんだけどね。どこまでも闇が広がっていて、たまに休憩する丘とか岩とかがあるよってだけなの』


 レインに言われ、私はキョロキョロと辺りを見回す。確かに闇ばかりでたまに崖のようなものがある程度だった。


 前をふわふわと浮かんでいるレインを見て、私は一つの疑問が浮かんだ。


「ここって水の中なんだよね? どうして私、息ができるの?」


『難しいことは考えなくてもいいんだよ。ここはそういうものなんだって割り切って生きていけば良い場所なんだ。何にも考えなくてもいい、何もない世界なんだ』


「でも、それってつまらないじゃない? 好きなアニメも観られないし、お友達ともおしゃべりできないってことだよね?」


『そうだよ。だからストレスフリー。悩みも何にもない世界なんだもん。君はお母さんと喧嘩して、家に帰るのが嫌だったんでしょう? ちょうどいいじゃない』


「そうだけど、でも」


 今は帰りたくないだけ。でも、ずっとお母さんとお父さんに会えないのは寂しい。


『ずっとここにいればいいんだよ。私がいるし、君は一人ぼっちにはならないさ』


「あなたが悪い人じゃないってことはわかる。でも、ごめんなさい。私は帰りたい。お母さんのところへ」


 私がそう言うとレインは急に立ち止まり、私の方に振り返る。


『残念だけど、君は君の意思で元の世界に帰ることはできないよ』


「どういう、こと?」


『ここへ来る時、君はどうなった?』


「ここへ、来る時」


 私は数分前に起こった出来事を思い返す。


 水溜まりを覗き込み、そこに映った私と目が合って、そして――。


「水溜まりの中にいた私の腕が、私をこの世界に引きずり込んだと思う」


『うん。正解。つまり、君が元の世界に戻りたいのなら、同じことをしなくてはならない。あっちの世界の自分をこの世界に引きずり込まなきゃ、君はあっちの世界には戻れないんだ』


「それじゃ……」


『またあっちの君が水溜まりを覗き込むまで、君はこの世界で暮らす。私と二人きりでね』


 そう言って笑うレインの顔は、なんだかとても不気味でおぞましいものに見えた。


 悪魔? 死神? そんなものを連想させる。


「嫌だ! 私、帰りたい!! お母さんのところに帰して!!」


『だから、それはできないと言っただろう? でもまあ。数年に一度はチャンスが来るさ』


「数年に、一度?」


『君をこの世界に引きずり込んだあの子は、五年くらい待ったかな。その日から今日までずっとここで暮らしていたよ』


「そんなに?」


 五年? そんな途方もない時間を私はここで過ごさなければならないの?


 いや、あの子が五年だっただけで、私はもっと十年や二十年なんてこともあるかもしれない――。


 激しい雨に切りつけられたような痛みが、胸に走った。


 私はもう、お父さんにもお母さんにも会えない。


 ごめんなさいを言う機会すら、与えられないんだ。


『まあまあ、そんなに怖がらないでよ。大丈夫。すぐにここの暮らしにもなれるさ』


 レインはそう言って再び浮遊し始めた。その先にはどこまでいっても闇しかない。


 私はずっとここで暮らしていくのだろうか。


 これは、家に帰りたくない――そんなことを思ってしまった罰なのだろうか。


「ごめんなさい。ごめんなさいお母さん。次会えたら、ちゃんと謝るから。仕事の方が大事で行事に参加できなくても、私はちゃんと我慢するから。だからその両腕で、また私を抱きしめて」


 私は祈った。届くかもわからないその願いを込めて。


『早く来ないと迷子になっちゃうよー』


「待って!」


 私はレインの後を追った。


 そして先にある深い闇を見つめながら、私は思う。


 何があってもチャンスが来れば、私は私をこの世界へ引きずり込んでやる――と。


 どこまでも真っ暗な闇の中をレインと進み、いつか現れるあっちの世界の私をいつまでもいつまでも待つことにした。


 ここは水溜まりの世界。

 自分を生け贄にしなければ、帰れない裏の世界。



 ***



「ただいま」


 私は少し重たい玄関扉を開けて、そろりと家に入る。リビングへ向かうと、お母さんがテーブルに座りノートパソコンと睨めっこしていた。


 私の存在に気がついたお母さんは顔を上げると、「おかえりなさい」そう言ってほほえんだ。


「ただいま、お母さん。それと、さっきはごめんなさい」


 私はそう言ってぺこりと頭を下げる。


「ううん。お母さんもごめんね。いつも約束破ってばかりで。ダメなお母さんで」


 お母さんはそう言って、私の身体を包むように抱きしめる。


 優しい匂いがした。ずっとずっと嗅ぎたかった、お母さんの匂い。


 柔らかくて温かい肌に、私は顔を埋めた。


「そんなことないよ。私、お仕事を頑張るお母さんが好き。良い匂いがして、温かいお母さんも大好き。この腕で抱きしめて貰えるだけでよかったの」


「ありがとね」


 私はずっと待ち望んでいた。この腕の中の温もりを。何年も待って、ようやく取り戻したんだ。


 ふと、入れ替わるようにあの世界へ落ちていった私のことを思い返した。


 何も知らない可哀想な私。

 彼女はあの闇しかない世界で、長い年月を過ごすことが決められている。


 大好きな両親とも、大切な友達とも会えないとても退屈な場所。


「本当に、可哀想」


「何か言った?」


「うん! 私、お母さんの娘でよかったなって」


「わたしもあなたのお母さんで良かったわ。こんなに良い子に育ってくれて、嬉しい」


 私はお母さんと笑い合う。

 もうこの時間を、幸せを手放したりはしない。


 この表舞台は私のものだ。



 ***



 世界には表舞台に立つ自分と、裏方にしか立てない自分がいる。


 表舞台に立つ自分は、常に人から受ける干渉に辟易し不満を募らせているだろう。


 しかし、裏方の自分はそんな表舞台の自分を羨み妬みながらひっそりと生きているのだ。


 そんなある日。裏方にいる自分に、面白い話を聞かせてくれる少女がいた。


 表舞台の自分を引きずり下ろせば、あなたが表舞台に立てるんじゃない? と。


 それは妙案だ、と表舞台にいた自分を引きずり下ろし、裏方だった自分が表舞台へと立った。


 そこは夢のような世界だった。大地に煌々と光が降り注ぎ、目を合わせ心を通わせる相手がいる。


 覗き込まないよう、私は近くにある水溜まりに目を向けた。そこには少しだけ歪んでいる青い空が映し出されている。


 かつて表舞台にいた自分は今、どんな気持ちで裏方に回ったのだろう。そう考えただけで笑みが溢れた。


 表舞台に立てるのは一人きり。

 そして、自分たちは常にその場所を取り合っている。




(了)

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