第31話 遠くまで
七月二十八日、レグラス軍が海を渡ってイルグリムのロキサネル士官学校へ進撃した。
子どもたちを誘拐して人体実験を施していた研究者たちは全員逮捕され、学校は閉鎖された。オリヴィアやマナセら
七月二十九日、
そして七月三十一日、理市はオリヴィアとともにレグラスを去ることになった。
南フレイドン港と
最新鋭の艦船はレグラス製だ。
見送りにはヒューと聡介、そしてマナセが来た。長い髪をすっきりと切ったマナセは、ひどく泣きじゃくっていた。オリヴィアと離れるのが寂しくて仕方ないらしい。全知全能の悪魔のように見えた
〈リイチ、オリヴィアを悲しませたら、許さない〉
〈わ、分かった〉
泣き腫らした目で詰め寄られる。マナセがあまりにも泣くので、かえってオリヴィアは笑ってマナセを抱きしめた。
〈ヒューさん、マナセのこと、よろしくお願いします〉
〈ああ。オリヴィアも元気でな。リイチ君も……〉
ヒューはいったん仰向いて、浮かびかけた涙をごまかした。
〈泣くなや、スパイのくせに〉
〈ごめん〉
〈そういう理市さんだって、ヒューさんが入院したとき泣いてたわ〉
〈おい、余計なこと言わんといてくれるか〉
オリヴィアが横から口を挟むと、偽夫婦だった二人はお互いに照れ笑いを交わした。
〈聡介は、まだしばらくレグラスにおるんか?〉
〈そうでぇす。そもそも僕はただの国費留学生だったのに、たっちゃんに頼まれて皆さんに協力してただけなんでぇ〉
初めて聞く話だ。たっちゃん、という仇名には理市も心当たりがある。
〈あれ、聞いてませんでした?
聡介はぷりぷりしているが、理市にとっては辰巳宮の取り計らいが嬉しかった。優しくて気弱なばかりと思っていたたっつんにも、それなりのしたたかさがあるらしい。
何より、聡介にはたくさん助けられた。このまま彼が不本意な道へ進まされなければいい。兵器より変な発明をしているほうが、彼にはよく似合っている。
出航の時間が近づいている。名残は尽きないが、もう行かなくてはならない。
〈ほな、行くわ〉
船に乗り込んだ後も、皆の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
この船はずっと遠くまで行ってしまう。これが今生の別れになるだろうか。――いや、ならないと理市は信じた。世界中どこにいたって、気軽に会えるようになる日がきっと来る。
「理市さん、寂しい?」
「せやな」
離れていくレグラスを見つめながら、理市は答えた。
「でも、オリヴィアがおるから大丈夫や」
「私も、理市さんが一緒なら」
最果ての国で生まれ、別の最果ての国へ流されて、出会った二人だった。これからどこへ行こうとも、ともに支え合っていける。
二人の視線が絡み合った。オリヴィアが瞳を閉じてくちづけを待つ。目が眩むほどに愛おしい。理市はぶんぶんと頭を振った。
「……あかん、ちょっとリコになってくるわ」
「ええっ」
「俺は! ……いや私は、オリヴィアのおかんや!」
オリヴィアとはまず
「もう、理市さんたら」
ふくれてみせるその表情も可愛くて仕方ない。理市はあえて背を向けて、客室へ向かった。
***
レグラスとイルグリムの停戦は、一ヶ月後に成立した。
レグラスはイルグリムの非人道的な人体実験の実態を国際社会に暴露することもできたはずだが、そうしなかった。停戦交渉を優位に進めるための駆け引きだった。事実、イルグリムは
翌年神原では帝が崩御し、
帝が四十歳の若さで病のためにこの世を去ると、次代の幼帝を戴いた軍部が政治の実権を握り、武力で大陸へと打って出た。世界各国を敵に回した神原は、レグラスを初めとした列強国との開戦の道を辿る。
十五年にもわたる大戦で、神原は多くの取り返しのつかない犠牲を払った末に降伏を余儀なくされた。敗因はさまざまに分析されているが、
ヒュー・ハーヴェイ・モリスことリチャード・フラムストンは、神原とレグラスとの関係が悪化すると軍を退いた。養子のマナセ・フラムストンは聡明な青年に育ち、義父から教えられた神原語をさらに学んで政府付きの通訳として活躍した。
理市は開戦時に再召集されたが、養女の歌とともに忽然と姿を消した。諜報局が彼らの行方を追ったが、その他の記録は見つかっていない。夫婦になったのかどうか、かつての仲間たちと再会できたのかどうかは、いまのところ不明である。(了)
最果ての国のオリヴィア ミステライト内戦記 泡野瑤子 @yokoawano
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