第30話 握手

 理市りいちはまず、士官学校の医者たちに負傷した仲間たちの手当を命じた。少しは抵抗されるかと思ったが、意外にも献身的に従ってくれた。最も重い傷を負っていたのがマナセだったせいでもあるだろう。彼はこの学校の支配者というよりも、みんなに慕われる救世主のように見られていた。銃弾の摘出手術を受けたマナセは、麻酔が効いて深く眠っていた。ヒューの止血措置が適切だったおかげで、大事には至らないとのことだ。

 オリヴィアは適合人間アダプテッドの仲間達に状況を伝えに行っている。理市たちへの反発が起きないように、皆が不安がらないように、きっと説得してみせると彼女は言った。理市はオリヴィアを心から頼もしく思った。彼女を守るだなんて意気込んでいた自分が恥ずかしい。オリヴィアは強いし、しっかりしている。

 理市は肩口の傷だけ手当してもらった後、誰もいない「教室」の席に座り、オリヴィアが戻るのを待った。正面に黒板があり、四角い椅子と机が並んでいるのは、神原かみつはらの学校と同じだ。

 同じく傷の処置を済ませたヒューが、理市のもとへやって来た。

〈ソースケ君は?〉

〈頭を打って気絶してるだけやから、じきに目覚めるやろって〉

〈それは良かった〉

 ヒューは理市の隣の机上に腰掛けて、長い脚を組んだ。

〈明日、僕はここにある資料を持ち帰って、軍に出動要請する。ゴードン少佐には前もって話を通してある〉

〈せやな。レグラス軍が来るまで、俺はここに残るわ〉

 イルグリムがこの人里離れた学校に軍を送り込んで、奪還しようとするか証拠隠滅のために適合人間アダプテッドたちを始末してしまう可能性もある。そのときは、理市はともに戦うつもりだ。

〈……呉尾くれお大佐のことも、報告するよ〉

〈うん〉

 理市はただそれだけ返した。悲しみはまだ心の中に渦巻いている。ヒューが悲しげに目を細めて、理市から視線を外した。

 夕暮れ時が近づいていた。西向きの窓から橙の光が差し込んでいる。リコの姿のままの理市の横顔を見つめながら、ヒューは静かに切り出した。

〈リイチ君の任務も、これで終わりだな〉

〈せやな〉

 近いうちに、理市はレグラスを離れることになるだろう。一年以上に及んだヒューとの偽夫婦生活もおしまいだ。初めはものすごく嫌だったのに、いまは寂しいと感じる。

〈リチャード・フラムストン〉

 突然ヒューが理市の知らない名前を口にした。

〈僕の本当の名前だよ。ヒュー・ハーヴェイ・モリスは、死んだ仲間たちの名前を分けてもらってつけた偽名だ〉

 ヒュー・スミス、ヒュー・ブライトン、ハーヴェイ・ブラウン、トーマス・モリス。仲間の名前を呼ぶヒューの横顔もまた、穏やかな光に照らされていた。

〈みんなには「リッチー」って呼ばれてた。リイチとちょっと似てるだろ? そう呼んでくれてもいいぞ〉

〈なんや恥ずかしいわ〉理市は笑った。〈ヒューのままでええか?〉

〈どうぞお好きに、リコさんや〉

 そう呼ばれるのももう不快ではなくなったのに、別れのときは近づいている。

〈つらいとは思うが、これは理市君の大手柄だ。カミツハラに戻ったら昇進間違いなしだろうね〉

〈いや〉

 理市は言葉を切り、首を振った。

〈俺は軍を辞めようと思う。呉尾さんに憧れて軍人になったけど、ここに来てよう分かったわ。俺は国のためには戦えん。もっと身近な、大切な人のためやないと。なんか穏やかな仕事探すわ。子どもにレグラス語教えるとか〉

〈いいね。リイチ君ならきっとうまくいくよ〉

〈ヒューは続けるんか?〉

〈そうだな。僕はこの仕事が性に合ってると思う〉

 ヒューは頬の絆創膏を撫でながら、ふいに真面目な顔をした。

〈……僕は、マナセを引き取りたいと思ってる〉

 理市にとっては意外な発言だった。

〈正直まだ思うところはあるし、父親の真似事なんてうまくやれるか分からない。それでもこのままあいつと縁が切れてしまったら、一生後悔する気がするんだ〉

 ヒューは過去の憎しみを乗り越えようとしている。相棒に対して、理市は素直に尊敬の念を抱いた。

〈すごいな、お前は。ほんまに立派やと思う〉

〈ありがとう。リイチ君はどうするんだい?〉

 皆まで言わずとも、オリヴィアのことを聞かれているのだと分かった。理市は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。

 ちょうどオリヴィアが教室に姿を見せた。ヒューは気を利かせて、聡介の様子を見てくると言って出て行った。

 オリヴィアは理市の正面に立ち、なぜか照れ臭そうに笑った。

「どうにかみんなを説得してきました。レグラス軍が私たちを解放してくれるから、ついていこうって」

「すごいな。簡単に説得できたんか?」

「『レグラス人にひどいことされる』って嫌がる子もいましたけど、そんな人は私とマナセで皆殺しにするから大丈夫って言いました」

 理市は目を白黒させた。うふふとオリヴィアが笑う。やはりオリヴィアは肝が据わっている。

「理市さんは、神原に帰るんですか?」

「まあ、近いうちにそうなるやろうな」

「私も一緒に連れて行ってくれませんか。私、理市さんのことが好きです」

 率直な言葉だった。言われた理市のほうが、かえって恥じらいを覚えるほどに。

 理市がすぐに答えないので、オリヴィアの表情がだんだん曇っていく。

「……嫌、ですか?」

「そういうわけやないけど……」

「なら、聞かせてくれませんか。私は理市さんのお嫁さんになりたいです。理市さんは、どう思ってますか?」

 オリヴィアは不安と期待の入り交じった眼差しで理市を見つめる。さんざん悩み抜いてきたことに、いよいよ答えを出さなくてはならないときが来た。

「……俺も、オリヴィアのことが好きや。でもな」

 一瞬輝きかけたオリヴィアの瞳が、後に続く言葉を待って揺れる。

「オリヴィアは、いままでずっとつらい思いをしてきたやろ。俺はそこにたまたま出てきた、それなりに優しくてしてくれるやつ、でしかない。まだ出会でおうてひと月しか経ってへんのに、俺に決めてまうのは早いと思う」

「そんなこと……」

 反論される前に、理市は首を振って言葉を繋いだ。そうしないと、せっかく固めた意志が揺らいでしまいそうだった。

「せやけど俺も、オリヴィアを他の誰かに任せるのは絶対に嫌や。やから、俺とは親子として一緒に暮らす、ではあかんやろうか。もっと世の中を見て、大人になって、それでもどうしても俺がいいと思えるか、時間をかけて考えてほしい。……これは理市というより、リコとしての考えや」

 奇妙なことを言っているのは重々承知だった。いわば悪い虫が娘につかないようにと心配する母親の意見だが、その悪い虫かもしれない男もまた自分自身なのだ。とんでもない強がりをしている気がする。本当はいますぐにでも抱きしめたいのに。

「じゃあ、理市さんの思いは?」

「それは……さっき言うたやろ」

 急に気恥ずかしくなって顔が火照る。頬の傷がいやにひりひりした。

 オリヴィアが小さく笑って、右手を差し出す。

「……分かりました。これからよろしくお願いします。

「うん」

 理市も右手を差し出し、オリヴィアと握手――したかと思うと、机ごしに強く腕を引かれて体勢を崩す。

 前傾した理市の唇に、オリヴィアの唇が重なって密着する。舌先につつかれると、無意識のうちに顎を開いて招き入れてしまった。首に両腕を回されていて動けない。あとはただオリヴィアに身を委ねるしかなかった。

「この続きは、お嫁さんになってからね」

 オリヴィアはいたずらっ子の顔をして、理市に背を向ける。彼女が走り去った後、理市は腰を抜かしてへなへなと座り込んだ。

「なんちゅう恐ろしい子や……」

 火を点けられた身体を持て余して、理市はぽつりとつぶやいた。

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