世界は終わるし、みりんは切れた

伊勢谷照

世界は終わるし、みりんは切れた


「あ〜、あっちぃ」


8月1日の早朝─膝丈まで雪をママさんダンプで脇に避けながら、俺は額の汗を拭った。身体から溢れる蒸気は空気に触れた瞬間に凍りつくため、顔中に手ぬぐいを巻いている。


「マイナス15℃んなっても、雪かきってあちいんだな」

「んだなあ」


ダウンジャケットを脱ぎ捨てる俺の隣で、同じように玄関を埋め尽くす雪と格闘しているのは、隣家の同級生─浅野だ。


空を覆う濃雲、真夏に降る雪と、白に埋もれた町。

地震が起きました、竜巻が発生しました、台風がかつてない勢力で発達しています、ある地方では気温が急激に低下し、ある地方では非常に高温となっています─世界は不意に、あまりにも突然に、ひっくり返した鍋のように無茶苦茶になった。

理由は分からない─専門家が何かをテレビで語っていたような気もするが、俺はテレビが好きじゃなかった。好きなタイミングで飛ばせないし、番組が始まる時間に予定を合わせなきゃいけないのも面倒だ。

好きなものを見て、好きなことをして生きていた。御高説も、陰謀論も、天変地異がもたらした悲惨な被害も、俺の人生のタイムラインには流れて来なかったし、目に入っても無視していた。

世界の異変を対岸からぼんやりと眺めている間に、終わりが近付いているだなんて考えもしなかったのだ。


「今日の夕飯何にすっかな。浅野んとこは?」

「配給によるべ」

「多分米は来っど。役場のおっちゃんが言ってた」

「マジ?じゃあ雑炊かな」


電気もガスも水道も最低限だけが各家庭に供給され、テレビは国営の緊急放送チャンネルだけになった。俺が働いていた製本工場も、映画館も、カラオケ屋も、ファミレスも、オンラインゲームも、俺の日常を構成していたほとんど全てが動きを止めた。

世界から何かが失われるたびに、人々はそれを拒絶し、怒り、嘆き、暴動が、驚嘆が、嵐となって吹き荒れ、それもやがては消えていった。


随分とのんびりしたもんだな、と思う。


精神科医のキューブラー・ロスは、人間が死を受容までには5つの過程があると説いた。

否認、怒り、取引、抑うつ、受容─その過程を辿るごとに、世界にはあらゆる物語が生まれ、人々は足掻き、多くの命が星と散った。

ここ1年で俺が送ってきた生活も、出会いも、別れも、小説一冊には収まらない物語で溢れている。そしてそれは終わった。

怒号も、嘆きも、発砲音も、爆発も、警報も、全ては過去。死を受容した世界には、緩やかで穏やかなエピローグが訪れている。


「うちの母ちゃんの雑炊美味えんだ」


浅野が笑った。高校を卒業してすぐ仙台で就職した彼は、すっかり都会の空気に染まってここ3年は帰省すらしていなかった。ここは退屈だと、住んでいる頃からしょっちゅう文句を言っていたのを覚えている。

珍しいことではない。この町は静かで、閉ざされていて、住人はお互いの顔や素性をよく知っている。それを穏やかで心地よいと取る者もいれば、退屈で煩わしいと感じる者もいる。俺は前者だった。変わらない毎日と、山から香る土の匂いと、昔から見知った住人が好きだ。だからこの町に残ったが、去った者を疎む気持ちはない。


「浅野って、そういやなして(どうして)帰って来たんだ?」

「え?だって会社も休業だし、友達は大体挨拶したし……それに、別に俺はここが退屈だから出ただけで、家族がやんたく(嫌に)なったわけじゃねえし」

「おばさんが聞いたら泣いて喜ぶな」

「言うなよ、せずねから(うるせえから)」


地元を出た同級生は、世界がおかしくなってからというもの、徐々に故郷に戻ってきた。ある者はひとりで、ある者は新しい家族を連れて、ある者は友人と共に。

少子高齢化に散々悩まされてきたこの町は、最期の最期になってようやく、僅かながら昔の活気を取り戻していた。


「じゃ、生きてたらまた」

「ん、また」


ママさんダンプやシャベルにへばりついた雪を振り落とし、それを玄関脇に立てかけ、俺は残雪で凍りついたタイルの上を歩いた。

汗ばんで張り付いた手袋を外して引き戸を開けると、久方ぶりのケチャップの匂いが鼻をくすぐる。


「ばあちゃん〜、終わったよ」


あがりかまちに腰掛け、ブーツの紐を解きながら呼びかけると、台所から割烹着姿の祖母が顔を出す。80歳を超え、背は少し縮んだが、つい先日までパートで働いていたほど矍鑠かくしゃくとした人物だ。

今日も、朝から自転車に颯爽と飛び乗り、ケチャップやグリンピースなど、もう貴重となったはずの食材を調達してきた。


「お疲れぇ。オムレツ出来てっから、わらわら(急いで)食べてしまわい」

「オムライスでねかったのか」

「贅沢語んな、ほでなす(馬鹿)。手ぇ洗わい」

「はいはーい」


ダウンジャケットを脱いで洗面所に向かった俺は、少しだけ蛇口をひねり、細く注がれる水で手を洗う。3ヶ月前に始まった給水制限にも、すっかり慣れたものだ。今では多くの家庭が、川水や雨水を生活用水の一部に用いている。

壁に引っ掛けたタオルで手を拭き居間に続くガラス戸を開ければ、雑然と食器や雑誌やリモコンが放置された座卓の上に、不格好なチキンオムレツが2つ並んでいる。


「美味そ〜」

「美味そうでねくて美味えんだ」

「それ母ちゃんもよく言うわ」


さすが親子と言うべきか、母と祖母は言うことが似ている。


「うち鶏いて良かったな」

「んだんだ(うんうん)、世話すんの面倒だどばり(ばかり)思ってたけど、飼い始めたずんちゃん(じいちゃん)に感謝せねばな」


祖母は皺だらけの手を擦り合わせ、芝居がかった仕草で仏壇を拝む。俺もそれに倣い、酒瓶を抱えてこちらに手を振る祖父の遺影に頭を下げたあと、いよいよスプーンを手に取った。

ケチャップをかけた黄色の膜にスプーンを突き立てると、柔らかいそれをかき集め口に運ぶと、砂糖の甘さと白だしの塩気が混ざった旨味が広がった。


「うーーーまっ」


雪かきで疲れ切った胃袋が一気に目覚め、スプーンは止まることなく動く。祖母は自らもオムレツを口に運びつつ、孫の食べっぷりを眺めていた。


「ほらいつも言ってるべや、がっついたら勿体ねべ」

「いいっちゃあ、ちゃんと味わってんだから……そういや母ちゃんはいつ帰ってくんのわ?」

「隣村さ、ほうれん草もらってくるっつってたから、もうすぐ帰って来んでねかな」

「ほうれん草?」


ここ数ヶ月の寒冷化で、農作物は殆ど死に絶えている。残っているのは寒さに強い品種か、缶詰や冷凍モノくらいだ。


「ん、缶詰のな。上山さんが卵と交換してえって頼んできてやあ、それにほら、おめぇアレ食いてっつってたべや」

「あれ?」

「ほうれん草、卵でとじたやつ」

「あ、マジ?作ってくれんのわ?」


俺はスプーンを置き、子どものような明るい口調で言った。ほうれん草の卵とじは、俺の好物の一つだ。


「今月末には、ガスも来ねくなるって話だしや、今のうちにおめぇらの好きなもん作ってやらねばなんねべ。調味料だの野菜だのも、惜しんでも仕方ねしな」


そう、人々は食材を備蓄することも止めつつあった。雑炊、肉じゃが、コロッケ、僅かな食材をかき集め、残り僅かな日々の中、家庭の味を取り戻そうとしている。


「ばあちゃんさすが〜!肩揉むわ!」

「んだやぁ、こういうときばり調子良ぐで」


しんしんと8月の空に雪が降る。とめどなく、とめどなく。みるみる気温が下がり、ガラス戸に霜がつく部屋の中で、俺は祖母の肩を揉み始めた。

去年の夏も、扇風機の前で同じようなやり取りをした記憶が、ふと頭の隅に蘇った。




「あぁ〜、ついにみりん無くなっちゃった……」


その日の夜、俺と祖母と母は揃って台所に並んでいた。仕事が無くなってから、俺は料理を手伝うようになった。

人参を切る俺の横で、母が大仰なトーンで声を上げる。彼女が持つ市販のボトルは、振っても振っても一滴の液体すら吐き出すことはない。あと一回、いやまだいけるとチビチビ使い続けたが、ついに限界らしい。


「誰かまだ持ってる人居ねかなあ」

「タツオの家は?あそこあんま和食作らねから余ってかもしれねよ」


幼馴染の名前を出せば、母は目を輝かせた。


「したっけ、ちょっこら(ちょっと)もらって来てけれね?」

「ああ〜……タダだと渋られっかも。卵持ってていい?」

「いいよねえ、お母さん?」

「ほだなあ(そうだなあ)。今朝産んだのふたつ残ってから、それ持っててやらい」

「本当ニワトリ様々ね〜、お父さんがもらってきたときは何してんだべかと思ったけど」


我が家の裏手には祖父が若い頃に建築した鶏小屋があり、何十年もの間、そこで祖父は鶏を飼育してきた。彼が数年前に心筋梗塞で呆気なく病死してからは、その世話は俺の担当だ。うちの鶏は大柄な品種で、雄鶏に血が出るまで突かれたり、飛び上がって襲ってきたりするのは日常茶飯事─面倒だとしか思っていなかったが、欠かさず世話をしてきた甲斐があったというものだ。丈夫な鶏舎のお陰もあって、彼らはこの事態の中でも元気に卵を産み、鳴き声を上げている。

その声で目を覚ますと、幼い頃と変わらない朝が来たような気分になる。


「たっちゃんって、早坂んとこの孫か?」

「そう。ばあちゃん、早坂のずんちゃんと同級生だっけ?」

「んだんだ。したっけふたりで行くべし、あそこのずんちゃんともこれで最期かもしんねからな、ははは」


祖母はケラケラと笑い、割烹着を脱いで勝手口へと向かう。


「ほら、早く来らい。あ、卵忘せんねでな」

「はーい。母ちゃん、ちょっこら行ってくっからよろしくな」

「はいはい、ふたりとも早く帰ってきてね」


俺は卵を新聞紙で包んで袋に入れると、一足先に外に出た祖母を追いかけ、勝手口の前に放り出したサンダルを引っ掛けた。


「ばあちゃん、靴でねと転ぶって」

「ばんつぁんの足腰なめたらいけねど」


祖母はアイスバーンの上を、突っ掛けで起用に歩いていく。俺も足全体で地面を踏みしめるようにして、その後に続いた。

給電制限がかかった町は暗く、家の窓からは小さな電灯の明かりがかすかに漏れるだけだ。

空を見上げると、緑色のオーロラがカーテンのように空から垂れ下がっていた。これも、3ヶ月ほど前から当たり前に見られる現象だ。


「ばあちゃん死ぬ前にオーロラ見てえっつってたよな」

「はっはっは、まさかオーロラの方が来っとは思ってねがったなぁ」


ばあちゃんは楽しげに笑い、少し丸くなった背をぐっと仰け反らせて空を仰いだ。


「綺麗だな」


どちらからともなく呟き、頷く。凍てついた夏と、空から降るオーロラ、暗い町並み。全てが非現実的で狂ったような光景。しかし祖母と歩いていると、まるで日曜日の朝のように穏やかで静かな世界に見えてくる。


「ラジオで言ってたけど、明日さあ、おどげでねえ(とんでもない)雷来んだってよ。観測史上最大の雨とか、なんかそういうの」


ふと思い出した情報を口にすると、祖母は大して驚いた様子もなくため息をついた。


「なんだや、洗濯物干せねっちゃあ」


その態度は、テレビの天気予報を眺めているときと同じだ。その横で俺は、今日の夕飯の味を想像しながら、空いてきた腹をさすった。

世界は終わる。それはそれとして、洗濯物が濡れるのは嫌だし、調味料が切れるのは困る。


「雷で停電なったらどうする?」

「ばあちゃんがちゃっこい(小さい)頃は、電気なんてねがったからな、電気通ったのは……」

「ちょ、長い長い。その話100回くらい聞いたって」

「何やぁ、ババアの話は付き合うもんだど」


きっと、そう遠くない終わりの日も、俺はこうやって退屈な日常を過ごしているのだろう。









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