逆さのジェイムランゲ

花野井あす

逆さのジェイムランゲ

健康診断は行くたびに緊張する。

若しも重大な病気が見つかったらどうしようかと何時も恐ろしい想像を膨らませてしまうのだ。

殊に、僕の心配性な性質が、その空想をより一層恐ろしいものに仕立て上げる。


さてそんな臆病者の僕であるが、年に一度の健康診断を受けるため、会社ビルの駐車場を訪れていた。


同じように地獄の診断結果を記載する紙を入れたクリア・ファイルを持ち歩いた検査着の中年の男たちが順番待ちをすべく並んでいる。

腹の出た者、やせ細った者。もちろん、僕のように中肉中背の者もいる。僕は心電図の箱の前に並んでいた。


年若い女に呼ばれた僕はドキドキしながら、寝台の上へ寝転がった。安静にしてください、と言われるのだが、それでも緊張を止めることはできない。

電極を胸にぺたぺたと張られている間ずっと、僕は心臓をバクバクさせていた。


ああ、緊張する。


しかし暫くして、モニターを見ていた検査技師がざわめきだした。何事であろうか。不整脈でも出たのであろうか。

僕は全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。


「高橋さん。」

検査技師が僕の名を呼んだ。


「測りなおしますので、もうしばらく、お待ちください。」

いよいよ怪しい雰囲気になり始めた。僕は恐ろしくて恐ろしくて、きっと何かの病気に違いないと思うようになった。


「やっぱり、徐脈ですね。再検査が必要です。」

と検査技師が言った。


徐脈。通常よりも脈動が遅いということだ。僕は恐怖で體を強張らせた。きっと心臓に何かがあるに違いない。そう思うと、息苦しくて仕方なかった。

其れが更に恐怖心を助長し、本当に胸が痛くなってきた。体の具合も悪い。きっと僕は大病で、すぐに死んでしまうんだ!


その後、僕は胸に小さな機械をくっつけて、一日の脈拍を測定し、更に再検査やそれに付随して胃や腸、血液の検査を一月かけて行った。

しかし何処も異常が見られない。何処を見ても健康そのものだという。ではこの胸のずきずきとする痛みは何なのだ?この胸の閉塞感は何なのだ。何なのだと言うのだ!


検査結果を前に、担当医が訊ねた。

「高橋さん。何かスポーツをされていませんか。陸上や水泳のような。」


「毎日十キロメートルを走っております。」

僕の習慣だ。早朝に走るのがいい。空気は爽やかだし、人も少なく、頭を空っぽにして足を動かすことだけに集中できる。


「ああ、それですね。きっと。」


「走ると何か悪いことが起きるのですか?」


「いいえ。マラソン選手なんかに結構いるんですよ。脈間の長い方が。」


「え?」


「有酸素運動を長くやっている方だと、よくあることなんですよ。だから、何も心配いりません。」


僕は唖然とした。僕は健康体なのだ!


不思議なことに、その日を境に、胸痛も息苦しさも感じなくなった。


きっと、思い込みが見せた、まやかしだったのであろう。


先入観とは何とも摩訶不思議なものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逆さのジェイムランゲ 花野井あす @asu_hana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説