経験は金なり
高黄森哉
二人の男女
男は家庭を持っていた。彼が就職した時は、まだ景気がよく、問題はあったとしても、日本の成長は右肩上がりではあった。世界から突出した部分がまだあって、それで希望を見た。
男は会社へいく途中だった。電車は嫌に空いていて、それはとても珍しいことだった。途中で買った新聞をでかでかと広げられるのは快感だった。大きな見出しが目に入る。
それは若者の鬱病や自殺が増えている、ということだった。また、コロナ世代への補助金を出す、という記事であった。政府によると、これで自殺や鬱は減っていくのだという。
バカバカしいと思った。百万も出す必要はあるのか。十万で十分だろうと思った。実際、世の中にそういう意見は溢れていた。
「おじさん」
話しかけられていたことに気づき、新聞の上から目をずいっと出し伺う。彼の前には、少年と少女が立っていて、うち片方、女の方はボタンを持っていた。四角いアルミの中央にぽちっとある赤いボタン。
「お金、欲しい」
「そら、欲しいよ」
と彼は答えた。当たり前だ。金が欲しくない奴なんて、どこにいる。彼の前にいる少年はゆるりと笑う。
「じゃあボタンを押すといいよ。一つ押すと十万円」
「じゅ、十万円。馬鹿にするなガキ。タダより高いものはない」
と凄む。その対応を受け、少女が説明し出す。
「ううん。ただじゃないわ。当然、対価は支払ってもらう。貴方の思い出よ。少年時代の。学習は奪わないわ。ただ、昔あういうことがあった、というのを頂戴するの」
「ふん。新手の詐欺か何かか」
と試しに押してみる。すると、ボタンがある銀の箱の下部から、一万円札がきっちり十枚出て来た。すかしても、目を皿にして確認しても、角度を変えても、それが偽物である証拠は発見できなかった。
「こりゃすごい。容赦なく沢山押すぞ」
「ええ、結構です」
少女はえらく冷たい目をしていた。初恋の人に少し似ていると、ほんのり甘く、苦く思った。そんな彼女の裏では、窓枠に切り取られた、手前に行くほど忙しそうに過ぎ去る、景色が展開されている。彼が学生時代、登校中、ずっと眺めていた。
「凄い。こりゃあ、凄い」
印刷の音と、電車の走行音。電車には三人しかいない。男は札束を握りしめ笑い、二人はその様子を冷徹に観測している。ふと、男はその眼差しに気づいて、微笑みを止めた。芯から不気味になったのだ。
「ああ、もうこれだけあれば十分だよ。百万もあれば楽しいことはたくさんできる」
「思い出せますか」
と唐突に少年は言った。
「あなたの青春、思い出せますか」
男は否定しようとして、言葉に詰まった。外の景色と、少女の顔を見て、それが懐かしいものだ、という知識はあれど、それが何故かという情報が欠落していた。それに、それらが懐かしいと思う、という解説はあれど、懐かしく思うことはなかった。涙がつーっと男の頬に線を引く。まるで少女の裏にある飛行機雲のような真っすぐさで。
「返してくれ。頼む。ひゃ、百万円じゃ割にあわん。返してくれ」
「百万円で納得してください」
少女は語気を強くした。そして、繰り返す、百万円で納得してください。男は叫んだ。ようやく取り返しのつかないことになったと自覚し、反省しても、不可逆な事実を上書きできないと悟った。
そして、まるで巨大な怪物から逃れるように二人から、足がもつれつつ、おろおろと逃げ出し、死に物狂いで電車の扉を開け、そこから跳躍したのだった。まるでポスターになりそうなフォームで。
そして、電車には誰も乗っていなかった。ただ、座席に投げかけられた平行四辺形の日向に、新聞が落ちているのみだ。見開かれた記事には、若者の自殺が増えていること、政府が補助金を出すので自殺は収束する旨が、恥ずかしげもなく掲載されている。いや、実はそんな事実すら、ない。
経験は金なり 高黄森哉 @kamikawa2001
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