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◆
「ありがとうございます、それじゃあ、また」
「はい、また」
頭を下げて、小屋の土間を出ていく小和に、りくは笑顔でひらひらと手を振った。
その姿が木立の奥に見えなくなると、うう、寒い、と呟きながら、小和のくれた綿入れの中に手を引っ込めて、戸を閉める。小屋の中を振り返れば、
「良いのかよ」
その問いに、りくは苦笑する。
「良いも悪いも、僕に止める権利なんてないですよ」
栢は、溜息をついて
りくは、先程まで小和の使っていた座布団を
おそるおそる、といった表情で、こちらを
小和は今日、りくに相談をしに来たのだ。今度の女学校の春休みに、
りくは、勿論、と答えた。ただ、滞在中はりくの薬を必ず飲むこと、いつもより倍の量を飲むようにすることを念押しした。日数分を用意するので、また行く前には取りに来るように、とも。
その理由を、小和は問わなかった。そもそもりくの所へ相談に来た時点で、小和は、薄々察しているのだろう。
「ちゃんと教えてやりゃあいいじゃねぇか、小和に。お前は、山神さまの花嫁なんだって」
そうすりゃ、あんなに悩むこともなかったろうにさ、と、栢は尻尾を揺らめかせて言う。
「まだ花嫁候補、ですよ。栢くん」
りくはそう言って、土間から囲炉裏間へと上がった。きし、と板の沈む音がする。障子の向こうで、雪が木の枝から滑り落ちる音がした。
「ほとんど決まってるようなもんだろ。あいつは瀕死だったところを、山神さまに助けられたんだろ? そこで一度生まれ直したようなもんだ。だから、元の家族には二度と会えないし、尾羽の山の中以外じゃ、薬師の薬なしに生きられない」
「小和さんが望むなら、一生分の薬を用意しますよ。人として生きるなら、小和さんより、僕の方が長生きしますから」
小和は、五歳の時に流行り病で死にかけた。
そうして、あの日、小和は尾羽の神に拾われた。ある日突然、夜中に目を覚まして、胸騒ぎと共にりくが小屋の入り口を見に行くと、虫の息の小和が、ぐったりと横たわっていた。
小和が
「西の麓村が廃村になったことは事実ですし、山の傍といえ、東の町であれば、山に
「だけど、山神さまはいいのかよ。せっかく助けた、数百年ぶりの花嫁だろ」
りくは栢のその言葉に、
「尾羽の神は、寛容ですよ」
身体が回復し、小屋での生活にも慣れてきた小和を、町に下ろすよう、山の獣を使って言ってきたのは、他ならぬその神だった。
彼の神は、小和に選択肢を与えている。
それが、人の世の愛というものだろう、と。
そう
「まぁ、それで、御堂さんが
御堂が中々山に帰ろうとしなかった理由の、半分はそれだった。その御堂も、年明けには一度山に帰ったようで、久しぶりに重鎮の厳格な気が山に満ちて、山の動物たちが、その身を一斉に震え上がらせた。春にはまた、町に顔を出すつもりらしいが。
りくは嘆息してから、囲炉裏にかけた鉄瓶から湯飲みに
「尾羽の神が懐の広い方だったお陰で、今ここにいるんですよ?」
薬との相性もあって、りくの小屋では普段、飲むのはもっぱら白湯である。小和や客が来たときには、棚にしまっているお茶を出すが、栢にはいまだに不満を言われた。逆に、ここで五年も過ごしていた小和からは、お茶を出すと少し申し訳なさそうな顔をされる。
りくは、小和が客だからお茶を出すのではなく、小和が、尾羽のお茶を好きだから出すのだが。
栢は二本の尻尾で器用にお茶の入った湯飲みを傾けながら、そうだけどさぁ、と、眉間に
「若い娘を都会になんか行かせたら、断然、そっちのが良くなるに決まってんだろ。寛容にもほどがあるぜ、尾羽の神は」
栢のぼやきに、りくは、しかし。
それは。
と、考えた。
それは。
もしかしたら。
「……でもね、栢くん」
りくは、湯飲みを膝に置いて、縁廊下に続く障子戸を見る。
明るい光が降り注いでいる。
しずり雪が、再びとさ、と音を立てる。
晴れた空から、明るい陽が射し込んで、雪を少しずつ溶かしていた。
「尾羽の神は、確かに、変化にとても寛容です。でも、寛容だったからこそ、今も、僕や、君や、御堂さんの居場所が、ここにあるのかもしれない」
薬師を、もう他の山では見なくなったという。
尾羽には、まだりくがいる。次の薬師を見つけられるかはわからないが、それでも、確かにまだ、尾羽の山は町や人との繋がりを持っている。
「
それに。
りくは、先程までいた小和のことを思い出す。
帝都に出掛けても良いか、とりくに
――いつか、
そう、小和は、はにかむように微笑んで。
――いつか、りくのところにある本を、全て一人で読めるようになりたいんです。私が本を好きになった最初の理由が、それなんです。目の前にある景色のことが、墨で書かれた文字の中に、目に見えないことまでも鮮明に描かれている。それに、とてもびっくりしたんです。私が今いるここが、突然、鮮やかになったような気がした。私は、私が生きている場所のことを、もっとちゃんと、知りたいです。だから、りくの本を全部、ちゃんと、理解できるようになりたい。それが、今の私の、目標です。……そうして、いつか……、
小和は、障子の向こうの雪解けを見つめながら、頬を染めて。
――自分の生きている、大事な場所のことを、大事な人と語り合えたら。
それは、ささやかな将来の目標であり。
いつか、小和が問われて返せなかった、小和の未来だ。
その未来で、小和は、尾羽を想っている。
そのようにりくには思えた。
――小和は、尾羽を、尾羽の山を、この先もずっと、大事にしてくれるかも知れない。
いつか、琥珀色の瞳をした、彼の方に寄り添って。
たくさんの外を知って、世界を知って、山に帰ってくる日が、来るかもしれない。
山の木々からまた、とさりと雪が落ちていった。今日は随分暖かいらしい。りくは湯飲みを置いて、縁側に通じる障子戸を開いた。チチチチチ、と、小鳥が
「――ああ、栢くん、ほら」
りくは、縁廊下にほど近い、まだ少し雪を被っている木を指差す。
冬の冷たい青空が、明るく輝いている。
栢が片目で視線を寄越した。
「もうすぐ、春です」
秋のうちに葉を落とした黒い枝が。
解けた雪の滴で、陽の光に
◆
おわり
春告げ 菊池浅枝 @asaeda
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