エピローグ

 イングランド代表のドレッシングルームは、さながらロックコンサート会場のように盛り上がっていた。

 選手たちはもとより、監督やコーチたち、大勢のスタッフたちは、誰かれ構わずにハグを交わし、肩を抱きあって大声で歌い、あちらこちらで歓声をあげている。サッカーには暴力的なまでに熱いイングランド人たちは、まるでハリウッド映画のようなハッピーエンドで終わった代表戦を、子供のような素直さで喜んでいた。

 アレックスもまた、周囲の興奮に身を置いて、嬉しさを分かち合っていた。


「やったな! アレックス!!」


 互いにディフェンスラインを形成したグラントが、抱きつく勢いでハイタッチをしてくる。

 アレックスも笑顔を浮かべて、ハイタッチを交わす。グラントとは試合終了直後も抱き合って喜んだが、何度ユーロ選手権出場を祝っても祝い足りないくらいに、自分の気持ちも潤んでいた。


「お前のサイドの駆けあがりが二点目を生んだんだ! お前やっぱり凄いよ!」

「凄いのはレインだよ。僕はボールを持ってパスしただけさ」


 振り返って、一番賑やかな一角を見る。そこの中心にはレインがいて、周りから大層可愛がられている。レインははち切れんばかりの笑顔で、喜びを爆発させている。


「ほんとにお前ってシャイな奴だよ! 俺の図々しさを切り取って分けてやりたいよ!」


 グラントはアレックスの背中を優しくどつくと、上半身裸で踊っているスターンのそばへ行って、一緒に踊り始める。

 アレックスはくすりと笑うと、自分のロッカーにもたれかかって、体内に溜まった興奮を吐き出すように息をついた。


 ――眩暈がするような数日間だった。


 先程の試合よりも生々しく甦ってくるのは、合宿での出来事だった。


 ――あの二人を間近で見て、僕が冷静でいられるはずがないと思っていたけれど……


 一度は我慢しきれずに、逃げ出そうと思った。あの二人が肩を並べて話している姿を見るだけで、本当に辛かった。


 ――でも……そうしなくて良かった。


 もう一度、振り返る。レインはまるで羽根が生えたように何度もジャンプして、勝利の歌を大合唱している。

 アレックスの頬が自然とゆるんだ。だが、その視界の隅に映った姿に気づいて、一瞬胸が苦しくなった。

 どうしようかと迷ったが、煩く騒いでいる周囲は誰にも注目したりはしない。その無秩序な空気に後押しされるように、アレックスはドレッシングルームの隅にあるベンチに、ゆっくりと近づいた。

 ベンチに一人座っていたギルフォードは、目の前にアレックスが現れても、不審そうな一瞥を投げるだけで、何も言わなかった。


「……あの」


 意を決して、アレックスが声をかける。


「試合に勝てて良かった、ギル」


 もう少しマシな言葉はなかったのかと、言ってしまった後でアレックスは後悔したが、口の中はもう渇いていた。


「そうだな」


 ギルフォードはふんと鼻を鳴らす。


「俺たちが馬鹿になって騒げるのも、ここまでだからな」


 まるでユーロ本選が始まったら、一回戦で負けるかのような言いようだった。


「あ……ああ、確かにそうかも」


 ぎこちなく相槌を打って、アレックスは次なる言葉を一生懸命探す。


「でも、今回は勝てるんじゃないのかな。結構、いいところまで」


 ギルフォードと普通に会話をするのは、久しぶりだった。胸がじわじわと熱くなってくる。


「ふん」


 生来の皮肉屋であるギルフォードは、アレックスの希望を吹き飛ばすように薄ら笑いする。


「サンタにお願いすれば、叶うかもな」

「僕がお願いしてくるよ、ギル。夏だけどね」


 アレックスは喉がカラカラでも、負けじと言い返した。

 ギルフォードは顎を上げて、アレックスを見上げる。初めて、その姿を目にするように。


「何、ギル?」


 じっと見つめられて、胸の動悸が激しくなってくるのを感じた。だがその一方で、もっと見つめて欲しいという欲望が衝動的に湧いた。


「お前、変わったな」

「えっ……」


 アレックスは思わず胸元を掴んだ。


「それは、どういう意味?……」


 海にダイブするような気持ちで訊いたが、相手は素っ気なく頭を振った。


「もう、子供じゃない。それだけだ」

「……ああ、そう」


 アレックスはカチンときて表情をしかめる。どうしてこの人はいつも僕を苛々させるんだろう。いつもいつもいつも。


「ギルこそ、全く変わっていなくて安心したよ。きっと明日もロンドンは雨だろう」


 少々自棄な気分でやり返したが、なぜかギルフォードは首を傾げて笑った。


「そうだな」


 アレックスはもっと言い返そうと思った。そうすれば、ギルフォードと会話を続けられる。しかし、自分を呼ぶ声が耳に入ってきた。


「アレックス! こっちへ来てくれ!」


 コーチのブッカーだ。どうしてこういう時に呼ぶんだ。アレックスは世界を呪いたくなった。


「早く行け」


 ギルフォードは面倒そうに顎をしゃくる。

 アレックスはまだ何かを言いたかった。だが銃弾が尽きてしまったかのように、深いため息だけを残すと、後ろ髪を引かれる思いで踵を返す。


 ――せっかくギルと喋ることができたのに。


 熱く燃えた胸の内は、まだ静まってはいない。

 そんなアレックスの後ろ姿を、ギルフォードは静かに目で追っていた。

 その眼差しは、珍しく複雑そうな色を滲ませていた。





 レインは携帯に届いたメールを読んでいた。

 イングランド代表のユーロ出場をお祝いするメールが次から次へと送られてきているが、レインはあるメールを読んで、顔を輝かせた。

 そのメールを送信してくれた相手は、懐かしい人物だった。


 UEFA欧州選手権出場おめでとう。

 素晴らしいゴールを決めたね。

 俺も嬉しいよ。

 本当におめでとう、レイン。


 文章は素っ気ないが、物静かだった青年らしいメール。

 短い間だったが、クラブのチームメイトで日本からやって来た選手だった。


「アイ……」


 レインは嬉しくて、すぐに返信メールを打ち始めた。


 メールをありがとう、アイ。

 オレも嬉しいよ。

 アイの方は元気かな。

 またいつか一緒にサッカーをやろう。

 オレはアイを忘れたことはないよ。

 だから何度でも言う。

 いつか必ず、会おう。

 必ず……

 ……



 メールを送信すると、自然に笑みがこぼれた。

 何もかも嬉しくて、仕方がなかった。

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レッド・クロス 蒼月さわ @pepenko

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