夜が深まる
どこかで人は、道を間違える。
自分は、道に迷うはずはないと、慢心を抱いてしまう。目の前の大事なことにきづける人は、すごい人だと思う。小さな嫉妬や、見えを繰り返しながら、私は、間違った道を歩んでしまった。
普通じゃないことをこれが自分の普通だって、思い込みたかったし、自分が正しいと思っていたかった。
だから、まともな人が私に向かってそれは間違っていますよ、って、言えば、私は自分の正論をふりかざしてその人を怒る。思いっきり、態度に出さなくたって、心の中で、どうせあの人には私のことは分からないとか、あの人は恵まれた人だからそう言えるんでしょとか、思う。
自分だけは、正しい人間だと思っていたいから妙なプライドが現れて、すべてを何かのせいにする。隠そうとする。私がこうなってしまったことを、誰にも言えず、心にしまう。それは、とても恥ずかしい事だと思うから。
恥ずかしいと、思っている時点で、正しい道ではないのにね、なんで私ってこう、バカなんだろう。
「桃香は、高嶺の花だ」
奏人は、なんで、こんなに、心がきれいなの? 私がバカらしくなる。私は高嶺の花なんかじゃない。そこらへんの小さな草で、きれいでもなく、人にむしりとられていく草。
私は、このままいたら、奏人が好きで、好きでたまらなくなる。
◆◆◆
桃香に触れたのはいつ振りだろう。離れゆく彼女を、引き止めてはいけない。
俺らは額を離す。
泣きたいような、愛憎のような、苦しい気持ち。男が泣くなんてかっこ悪い。分かってる。俺は、桃香の前で何回泣いただろうか。
俺が泣いてる時、たいてい桃香は微笑んでいて、いつも俺を抱きしめてくれた。それがこれから無くなる。いつも当たり前にあると、思っていた。だから、粗末に扱っても俺に付いてきてくれると思っていた。
桃香は、物じゃないのに、俺のものだって思っていた。
これで別かれるのがサッパリしてていい。うじうじしていると、かっこ悪い。去り際が分からなくなる。
そう思いながら、桃香の方に手が伸びそうな自分に呆れる。
「元気で」
桃香はそう言った。
俺は、「うん」しか言えなかった。
桃香が立ち上がっていく。
――俺はこんな事にどうしようもないことを思い出していた。
全部の親知らずが虫歯になって、歯医者に行くたび、歯を抜かれるから、歯医者が怖くて仕方ない時があった。ほんと、ガキかよって感じだし、こんな時にこんなくだらねぇー事、思い出すなよって感じだけど。
歯医者が怖すぎて、歯医者がある日は、歯医者終わりに桃香に来てもらっていた。すごく痛くて、辛くて、耐えられなかった。歯医者が終って情けなくかっこ悪く泣く俺を「死ぬわけじゃないから、大丈夫だよ」って言ってくれた。俺が飢えているものを全部補ってくれた。
他から見たら意味分からないと思うけど、歯医者終わりに側にいてくれる桃香を毎回、愛おしく思って、毎回、抱きたくなった。辛い事があった時、桃香の温もりを感じられる事が幸せだった。一人じゃないと思えた。
俺の母親は、俺が反抗期真っ最中に病気で他界した。盛んな年頃で、素直になれなかった。甘えたかった。寂しかった。
桃香と出会った時、優しい笑顔に母さんを思い出したし、俺のどストライクの女で、一目惚れした。
桃香と母さんをどこか重ねていたのかもしれない。だから、甘えていた。
桃香が、ドアの方まで行ってしまう。手を伸ばしても、もう届かない所へ行ってしまう。俺は、それをただ見ているしかないのだろうか……。
◆◆◆
これでもう最後、最後なんだ。
これから夜は深くなる。
深くなったら、また、陽は昇る。
私は、奏人の部屋を出る。
私の心が揺らいで、この場から逃げなくちゃって思ったのは、奏人の部屋を出て、玄関へ向かおうとした時だった…。曖昧だから、こうなるんだって情けなくなった。
野に咲くように 春風心豆 @harukazesinzu
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