新聞売りの少女

 それは、2024年の大晦日の夜のことでした。高級住宅街をぼんやりと電柱の街灯が照らし、しんしんと雪が降り積もっています。そんな中、高校2年生の間地有梨まじ・ゆうりは制服姿で、門扉のインターホンを鳴らして、問いました。

「新聞を購読していただけませんか?」


 有梨の実家は祖父の代から続く新聞販売店です。ですが、全国的な購読者数の減少を背景に経営難に陥っています。

「せめて有梨が大学を卒業するまでは頑張らないとな、母さん」

 先日、茶の間の襖をそっと開けた際に見た父の背中は、以前よりも小さく見えました。


「間地所長、マジすか? そんなこと出来るわけないでしょ!」

 12月25日のクリスマスのことでした。その日、自宅の1階部分にある販売店に来たのは、サンタさんではありません。本社販売局担当員のテカテカオールバックのトカゲ顔の若い男です。

「そこを何とか。残紙は5割を超えました。折込手数料もコロナ以降激減してます。どうか、送り部数を減らしてください。今月も持ち出しなんです」

 父は悪徳代官に命乞いをするかの如く、応接セットのガラステーブルに額をつけ、必死に頼み込んでいます。


 ──あっ、また、押し紙の話だ。

 応接室をこっそり覗いていた有梨は重い嘆息をします。

 世間では「推しの子」が一世を風靡する中、このところ、我が家で話されるのは「押し紙」の話ばかりです。

 押し紙とは、新聞社が販売店に必要部数以上の新聞を売りつけるもので、いわば、「押し売りされた新聞」のことです。

「このままじゃ、潰れてしまいます。どうか減らしてください」

 ついには父は床に正座をし、土下座姿勢で懇願します。しかし、応接ソファから見下ろす「トカゲ男」は、分からない人だなと言わんばかりに肩をすくめて、大きく嘆息するのみでした。

 ──父ちゃんになんて酷いことを。

 今の有梨は、この屈辱的な光景を網膜に焼き付けるだけでは飽きたりませんでした。そっとスマホで動画撮影しました。


「母さん、もう持たんかもしれんな。団カードはさっぱり揚がらないし、『死亡止め』ばかりで気も滅入るよ」

 「トカゲ男」が聞く耳を持たず帰った後、父は茶の間でポツリ呟きます。過去の栄光に思いを馳せるように、虚空を見つめるその目には光るものがありました。

「俺は……生まれる時代を間違えたかもしれんな」

 いつになく母に弱気な言葉を吐き続ける父。有梨はこれ以上、襖の隙間から見続けることができなくなりました。

「父ちゃん!」

 襖を勢いよく開けて、叫びます。

「なんだ有梨、まだ起きていたのか」

 驚きのまま振り向いた父は、何とか笑みを作ります。が、その顔には苦悩の歴史が深い皺として刻まれていました。

「父ちゃん……私、新聞勧誘手伝うよ」

 有梨は父の手を握り、涙ながらに誓いました。

 父の反対を押し切って17歳の少女の新聞を売る日々が始まったのです。


「新聞を新規購読していただけませんか? 今ならお米がついてきますよ」

 アパートのドアから気だるそうに顔を出した大学生は、有梨の生足部分に一瞬、視線を這わせます。

「特典はそれだけなの?」

 口の端を歪に上げましたが、有梨が「はて?」と純朴少女そのままに首を傾げると、バタンとドアは閉まりました。

 それでも、有梨は諦めません。

 ──父ちゃんは、私が助けるんだ。

 拳をギュッと握ってから、地面に置いていたパンパンに膨らんだショルダーバッグを背負い直します。


「お嬢ちゃんには負けたよ。紙じゃなくて、電子版ならいいよ」

 そんな熱意が伝わったのかもしれません。次に訪ねた家の初老の男性は、やれやれと嘆息しつつ、その場で契約してくれました。

 ──電子版は紙よりも断然安いし、購読に繋がりやすいのかも。

 有梨はそう推察します。

 ──ならば、電子版勧誘に絞ろうか。

 有梨のこの戦略は見事に当たりました。この日はなんと、20世帯が電子版を契約してくれたのです。


「見て見て! 父ちゃん、電子版にこんなにも入ってくれたよ! しかもこのうち15世帯は紙から電子に移行してくれるんだって。電子版ならまだまだ契約いける気がする。やっぱり時代はデジタルだよね!」

 営業ハイとも言える状態でしょうか? 販売店に戻った有梨は興奮冷めやらぬ様子で、父にそう報告しました。

「ゆ、有梨、お前……」

 ですが、期待した反応はなく、父は膝から崩れ落ちます。それから、力無く言いました。

「ウチの新聞販売店は、紙契約しか利益にならないんだ」

 販促の結果、有梨は必死に父が繋ぎ止めてきた世帯を電子版契約に変えてしまったのです。

「父ちゃん、ごめんよぉぉぉ」

 有梨まで膝から崩れ落ち、その場でわんわん泣きました。


 ──せめて、失った分を取り返さなきゃ。

 有梨はしばらく寝込んだ後、父の制止を振り切り、再び勧誘に出ました。しかし、一軒も紙契約を獲れませんでした。

 古き良き商店街は、大手ディベロッパーによって買い叩かれ、雨後の筍のごとくタワマンが増え続けています。玄関ドアまでたどり着くことすらできず、「新規開拓がしづらくなった」という父の口癖を身をもって知りました。

 ──無料でニュースを見れる時代だもん。月々、新聞代として5000円も払うなんてあり得ない。そんなの私だって分かっている。

 Netflixは890円で契約できます。有梨だって、先日、地面師を夢中になって一気に見ました。


 そして、大晦日を迎えました。午後から天気が崩れ、大雪となりました。

 「新聞を購読していただけませんか?」とインターホンを鳴らし続けるものの、「年末の家族の団欒を邪魔するな」と言わんばかりに、どの家も契約してくれません。拒絶される度に、心も体も冷え冷えしてきました。

 苦渋の決断でしたが、有梨は寒さをしのぐために一旦、公園に退避。ゾウさん滑り台の下で、休息することにしました。

 しかし、生足はじんじんと痛み、ガクガクという全身の震えは治まりません。

 ふと、妙案が浮かびました。ショルダーバッグいっぱいに詰め込んできた見本紙の束の中から1部を取り出しました。

 ──とりあえず、この見本紙に火をつけて暖まろう。

「1部くらい平気だよね」

 言い訳を正当化するように有梨はポツリと呟きました。ライターで火をつけると、見本紙の新聞はよく燃えました。

 火は人類最大の発明とは良くいうものです。

 ──なんて、暖かいんだろう。

 冷え切った有梨の心身を暖めてくれました。ゆらめく炎を見つめている有梨に幻想を見せてきたのはその時です。


 受験戦争を勝ち抜き、第一志望の大学に合格。テニスをやらないテニサーに入りました。良き仲間たちと渋谷のクラブで踊り明かし、SNSには映え写真が絶えず投稿されています。おしゃれカフェ巡り、海外旅行、キャンパスでの憧れの先輩との淡い日々……現実とは違うキラキラした自分がそこにはいました。

 しかし、火が小さくなっていくにつれて、幻想もまた薄れていきます。再び突き刺すような寒さが襲う中で、有梨は思います。

 ──こんなの夢のまた夢だ。今のままじゃ、大学だって行けないかもしれない。

 有梨はパンパンに膨らんだショルダーバッグを睨め付けていました。

「こんなもん、全部燃やしてやる」

 そう言って、残りの全ての見本紙に火をつけたのです。瞳には有梨の怒りをそのまま映したようなメラメラとした炎が反射していました。


 販売店は奴隷じゃない。本社の横暴を許すな──。怒りの感情そのままに、そんな呟きを添えて、SNSに投稿したのは、クリスマスにこっそり撮影していたあの動画です。「トカゲ男」に、父が土下座で必死に懇願していました。

 その投稿は瞬く間に拡散しました。

 コメント欄は賛否両論です。「これ、流出させたらヤバくない?」「せめて、モザイクくらいかけろよ」と批判があった一方、「よく言った!」や「勇気ある告発」など好意的なものもありました。眼前で燃え盛る炎など比較にならぬほどの大炎上です。

 不思議な感覚でした。なぜなら、この時、有梨の胸は今まで感じたことのない充足感で満たされていたからです。

 ──これはいけるかもしれない。

 有梨には確信めいたものがありました。


 年が明けても、有梨は投稿をやめませんでした。販売店の窮状を訴え続けたのです。SNSという戦場で、本社と戦い続けました。炎上する度にフォロワーは増え続け、「販売店のジャンヌ・ダルク」として、一躍、時の人となったのです。

 そうです。何を隠そう、彼女こそが、のちに1000万の登録者を持つことになる炎上系告発YouTuber「マジマジ有梨」、その人である。

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マスコミむかし話 松井蒼馬 @moenopotosu

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