社畜おじさんとわんこ君

丸井まー

社畜おじさんとわんこ君

 社畜の朝は早い。五時には起きて、朝食にコンビニで買ったロールパンを一つだけ牛乳で流し込み、身支度を整えて六時には家を出る。満員電車に二時間揺られ、出社する。帰りはいつも深夜に近い時間帯で、適当に買ったコンビニ弁当を食べて、シャワーを浴びたら持ち帰りの仕事をしてから寝る。


 阿佐谷はそんな生活をもう二十年近くしている。今年で不惑を迎えるが、結婚はしていない。若い頃は恋人がたまにできていたが、仕事を優先していたら、皆、阿佐谷の元から去っていった。たまの休みは一日寝ているか、動画サイトをぼんやり眺めているくらいで、趣味らしい趣味もない。

 三十代前半までは、たまに風俗に行っていたが、この二年程は行っていない。自分でもしなくなり、枯れた生活を送っている。


 そんな阿佐谷だが、最近、朝の通勤時間に楽しみができた。立派な大型犬を連れてランニングをしている若者と少しの時間だけ犬を撫でさせてもらいながら話をしている。


 二ヶ月程前から、駅に向かう道の途中で、犬連れで早朝ランニングをしている二十代の若い男とすれ違うようになった。今時珍しく、すれ違う度に元気な声で『おはようございます!』と挨拶をされていた。最初は面食らったが、そのうち阿佐谷も挨拶を返すようになった。


 ゴールデンレトリーバーの杏を撫でさせてもらえるようになった切っ掛けは、本当に些細な事だった。ちょうど信号の所で一緒になり、その場で足踏みしながら『おはようございます!』と爽やかに笑った若者に、挨拶を返してから、阿佐谷は気まぐれに話しかけた。



「可愛い子だね。目が優しい」


「ありがとうございます!撫でてみますか?懐っこいし、大人しい性格なんで大丈夫ですよ」


「えーと、それじゃあ、少しだけ。この子の名前を聞いてもいいかな」


「杏です」


「女の子なのかー。杏ちゃん。撫でさせてね」



 阿佐谷はその場にしゃがみ、杏が不快に思わないように声をかけながら、優しく杏の背中を撫でた。温かいもふもふとした毛の感触にとても癒やされる。阿佐谷は犬が大好きだ。子供の頃は、実家で犬を飼っていた。セントバーナードのポン太は、阿佐谷の子供の頃の一番の友達だった。毎日、朝と夕方に散歩に行っていた。老衰で亡くなった時は、親が心配する程塞ぎこんだものだ。



「本当に大人しい子だね。お利口さんだ」


「ありがとうございます。あ、信号変わりますよ」


「おっと。撫でさせてくれてありがとう。杏ちゃん。君もありがとう。いつも頑張ってるよね」


「えへへ。おじさんもこんな早くからスーツを着て大変ですね。今から出勤ですか?」


「うん。今日も満員電車を満喫してくるよ」


「うわぁ……朝からお疲れです。じゃあ、俺はこれで」


「うん。気をつけてな」


「ありがとうございます!おじさんも無理しない程度にお仕事頑張ってください!」



 阿佐谷は、元気よく走り去っていく若者を見送ると、自分も急ぎ足で駅へと向かった。


 それから、早朝の出勤途中で若者とすれ違うと、ほんの少しの時間だけ、杏を撫でさせてもらいながら立ち話をするようになった。

 若者は柏崎と名乗った。大学二回生で、陸上部に入っているらしい。長距離が好きなのだそうだ。実家暮らしで、阿佐谷が住むアパートと三キロも離れていない場所に住んでいる。


 柏崎はスポーツマンらしく短く刈った黒髪に、健康的によく日焼けした肌、細身ながら靭やかで筋肉質な体格をしており、背が高くてスタイルがいい。今時の若い子って足が長いよなぁと関心したくらいだ。

 阿佐谷も昔は痩せていたが、今は中年太りでビール腹になっている。不摂生な生活をしているので、この数年は、会社の健康診断で小言を言われている。


 初夏の朝。

 朝から気持ちがいい風が吹いている中歩いていると、前の方から柏崎が杏と一緒に走ってきた。

 近くに来ると、その場で足踏みをしながら、柏崎が爽やかに笑った。



「おはようございます!今日は気持ちがいい天気ですね」


「おはよう。柏崎君。杏ちゃんもおはよう。今日も毛並みがキレイだねぇ。杏ちゃんは美人さんだ」


「あはっ。毎日ブラッシングしてるんで。ブラッシングして欲しい時は、自分でブラッシング用の櫛を咥えて俺のところに来るんです」


「賢い子だなぁ。杏ちゃんはいい子だね」



 阿佐谷が杏を撫でていると、柏崎がニコニコ笑いながら話しかけてきた。



「阿佐谷さん。よかったら、休みの日に一緒に散歩に行きませんか?杏と一緒に」


「おや。いいのかい?」


「はい。阿佐谷さんも少しは運動した方がいいですよ」


「あー。健康診断の度に言われてるよ。それ」


「ははっ。今週末は空いてますか?」


「空いてるよ。休みの日は一日寝てるだけだし、たまには散歩もいいかもね」


「それじゃあ、是非!日曜日の方がいいですか?」


「うん。土曜日はもしかしたら出勤になるかもしれないから」


「大変ですねぇ。じゃあ、日曜日のこの時間に此処に来ますね」


「うん。言っておくけど、俺は本当に運動不足だから」


「阿佐谷さんのペースで歩きましょう」


「筋肉痛が次の日に来ることを今から祈っておくよ」


「あははっ!じゃあ、俺はこれで」


「うん。車には気をつけるんだよ」


「ありがとうございまーす!阿佐谷さんも今日も頑張ってくださいね!」


「ありがとう」



 柏崎がにこやかに笑い、走り去っていった。阿佐谷はなんとなく気分が上向きになり、軽やかな足取りで駅へと向かった。


 日曜日。いつもなら目覚ましのアラームをかけずに寝ているが、今日はいつも通りの時間にアラームをセットしておいた。しぱしぱする目を擦りながら、寝間着のジャージからTシャツとジーンズに着替え、髭を剃って顔を洗う。何気なく鏡を見れば、どんよりと疲れた顔をした中年の男が映っていた。小皺が確実に増えている気がする。このまま一人で定年まで働き続けて、その後も一人で寂しく暮らすのかと思うと、朝から気分が落ちてしまう。

 阿佐谷は冷たい水でバシャバシャと顔を洗い直した。今日は柏崎と杏と一緒に散歩に行くのだ。犬の散歩は何十年ぶりだろうか。折角の機会だから、とことん楽しみたい。

 阿佐谷はロールパンを齧って牛乳で流し込むと、スマホと財布と家の鍵をボディバッグに詰めて、久しぶりにスニーカーを履いて外に出た。


 いつも柏崎と会う信号の所にいると、柏崎が向こうから走ってきた。杏も一緒である。柏崎も杏も今日も元気そうだ。

 柏崎が阿佐谷の側に来ると、爽やかに笑った。



「おはようございます!」


「おはよう。杏ちゃんもおはよう。今日も可愛いねぇ」



 阿佐谷がその場にしゃがんで杏のもふもふの背中をやんわりと撫でると、杏が嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振り、阿佐谷の手をペロペロと舐めた。擽ったくて思わず笑ってしまう。

 柏崎が赤いリードを手渡してきたので、阿佐谷はリードを受け取り、うっすら額に汗をかいている柏崎と杏を真ん中に並んで歩き始めた。



「何処まで行くのかな」


「御池公園までです」


「結構歩くね!?」


「いつもの散歩コースなんですよ」


「へぇー」


「此処からなら、走ったら一時間くらいだけど、歩きなら一時間半か二時間くらいですね」


「まぁ、そのくらいなら大丈夫かな」


「御池公園の近くにパン屋があるの知ってます?」


「え?そんな所にあったっけ?」


「去年くらいにできたんですよ。そこのパン、めちゃくちゃ美味いんで、昼飯に一緒に食いましょうよ。あ、杏の昼飯は持ってきてます。今日は天気がいいし、風もあるから、公園で食べたら気持ちいいですよ」


「それもそうかも。いいね。こういうのは本当に久しぶりだ」



 阿佐谷は柏崎と世間話やお互いの事をポツポツ話しながら、のんびりと杏と一緒の散歩を楽しんだ。


 それから、晴れた日曜日は必ず柏崎と杏と散歩に行くようになった。半年もすると、週一とはいえ散歩をするようになったからか、阿佐谷のビール腹がほんの少しだけ引っ込んできた気がする。

 秋の終わりが近づき、そろそろ本格的な冬になる。阿佐谷は秋物のコートをしっかり着込んで、柏崎と杏と一緒に歩いていた。



「寒くなってきたねぇ」


「ですねー。俺、冬の朝が一番好きなんですよね」


「マジか。寒いじゃん」


「空気が澄んでて、なんか気持ちいいじゃないですか」


「あー。まぁねぇ。でも寒いよ」


「阿佐谷さんって寒がりなんですか?」


「寒がりの暑がり」


「わぉ」


「あ、そうだ。帰りに家に寄っていかない?甘いもの好きだったよね。貰い物のチョコレートがあるんだ。俺は甘いものはそんなに食べないからさ。貰ってくれると助かるんだけど。某有名店のチョコだから、味は保証するよ」


「やった!ありがとうございます!!チョコレート大好物なんです!」



 嬉しそうに笑うと、まだ幼さがほんのり見える。柏崎は、今年の十二月で二十一歳になるそうだ。柏崎のキラキラした若さが少し羨ましい。

 いつもの公園までのんびり歩いていき、近くのパン屋でパンを買って、公園のベンチに座って食べて、少しの間お喋りをしながら休憩をしてから帰路につく。

 柏崎を家に呼ぼうと思っていたので、一応部屋の掃除は簡単にしてきた。貰い物のチョコレートを渡すだけなのだが、普段は本当に散らかり放題なので、一応大人としての見栄で昨夜に慌てて掃除をした。


 阿佐谷は、鉄筋コンクリートのアパートの一階の部屋に住んでいる。ペットは禁止のアパートなので、少しの間だけ、杏には外で待ってもらうことにした。

 柏崎を家の中に招き入れると、柏崎がキョロキョロと部屋を見回して、何故かふふっと笑った。



「阿佐谷さんの匂いがする」


「え?臭い?」


「いえ。なんか落ち着く匂いです」


「そうかなぁ?あ、これ。はい。チョコレート」


「ありがとうございます!」


「期間限定のやつなんだって」


「へぇー。うちの親と妹もチョコレート大好きだから、めちゃくちゃ喜びます。美味しくいただきますね」


「そうしてもらえると嬉しいかな」


「……阿佐谷さん」


「ん?」


「今度、二人で映画にでも行きませんか?杏抜きで」


「映画……何年観に行ってないかな」


「駄目ですか?」



 柏崎がなんだかしゅんとした雰囲気になったので、阿佐谷はなんとなく慌てて手を振って口を開いた。



「全然オーケー!何を観る?」


「アクションコメディは好きですか?」


「あ、うん。好きだよ」


「じゃあ、それで!面白いって、すごい話題になってる映画があるんですよ」


「へぇー。楽しみにしておくよ」


「はいっ!」


 柏崎が弾けるような笑顔で笑った。

 柏崎が帰っていくと、阿佐谷はうきうきと映画に行く時の服を選び始めた。お洒落には縁がないが、あまりダサい格好はしたくない。一時間程悩んだ結果、無難なポロシャツとセーター、ジーンズになったが、手持ちの服が少ないので仕方がない。

 阿佐谷はなんだか若い頃に戻ったような気分で、ベッドに寝転がり、ゆるく口角を上げた。




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 柏崎と杏と一緒に散歩をするようになり、あっという間に一年が過ぎた。柏崎はそろそろ就活の準備を始めなければいけない頃合いになった。月に一度、杏抜きで二人で出かけるようにもなった。柏崎といると、なんだか元気を分けてもらえる気がするし、すごく楽しくて、疲れた心が潤っていく気がする。阿佐谷は柏崎と過ごす時間を、本当に大切に思うようになっていた。


 今日は日曜日だが、朝から雨が降っている。杏の散歩は中止で、柏崎が一人で阿佐谷の家に来た。

 二人でのんびり動画サイトを眺めてながらお喋りしていると、柏崎がふと真顔になったかと思えば、急に日焼けした頬を赤く染めた。



「あの……阿佐谷さん」


「ん?」


「あの、その……俺、阿佐谷さんのことが、その……好き……みたいな……」


「へぁ!?」


「そっ、卒業したら!一緒に暮らしませんか!?」


「ほぁ!?」



 阿佐谷は急な柏崎の告白に、目を白黒させて、間抜けにぽかんと口を開いた。驚き過ぎてピシッと固まった阿佐谷の前で、柏崎の顔がどんどん曇り、涼やかな目元に、じんわりと涙が浮かび始めた。



「……すいません。俺、気持ち悪いですよね」


「そっ、そんなことない!」



 柏崎が泣いてしまう。阿佐谷は何故だか、それがとても嫌で、反射的に叫びながら、柏崎の短く整えてある髪を両手でわしゃわしゃと撫で回した。

 阿佐谷は困惑しながらも、どこか喜んでいる自分に気がついた。しかし、阿佐谷と柏崎とでは、歳が違い過ぎる。

 阿佐谷は優しく柏崎の頭を撫で回しながら、おずおずと声をかけた。



「俺、もうすぐ四十のおっさんだよ?腹も出てるし」


「阿佐谷さんは格好いいです!いつもお仕事頑張ってて、すげぇ優しいし、一緒にいてめちゃくちゃ楽しくて、その、好きになっちゃった……みたいな」


「そ、そうなんだ」



 阿佐谷は急速に顔が熱くなっていくのを感じた。男に告白されたというのに、不思議と不快感はない。むしろ、嬉しいと感じてしまう。歳の差とか、世間体とか考えたら、柏崎を諭してやらねばならないのだろうが、阿佐谷はそんなことしたくなかった。

 阿佐谷は柏崎の頭をやんわり撫でながら、目を泳がせつつ、ボソッと呟いた。



「……卒業したら一緒に此処に住む?」


「はいっ!」



 柏崎がパァッと顔を輝かせて、むぎゅっと阿佐谷に抱きついてきた。反射的に柏崎を抱きしめながら、阿佐谷はドキドキと胸を高鳴らせ、柏崎と新たな関係になったことに頬をゆるませた。


 柏崎が大学を無事に卒業し、就職すると、本当に阿佐谷の家に引っ越してきた。阿佐谷は柏崎との生活を心底楽しんでいる。二人でちょっとした事で笑い合い、一緒に食事をして、狭いベッドで寄り添って眠る。

 相変わらず阿佐谷は社畜のままだが、柏崎のお陰で、毎日が彩り溢れるものになった。

 柏崎といつまで一緒にいられるのか分からないが、だからこそ、毎日毎日を大切にしていきたい。


 阿佐谷は寄り添って生きてくれる柏崎の事が本当に本当に大切になり、永遠の別れの時がくるまで、何十年も小さな幸せがいっぱいの日々を過ごした。



(おしまい)


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社畜おじさんとわんこ君 丸井まー @mar2424moemoe

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