楽しく拝見させていただきました。
燕の子旅立った日の糞のあと
この一句がとても良いと思いました。
燕の巣立ちのあと、巣が残りたしかに巣の下にふんが落ちている。
帰燕という季語もあり、燕の子という季語もある。
これはその間にあたる頃で、具体的な物を詠んでいる。
俳句は「遠き日」などの表現で過去を表現はできるけれど、現在の目の前のものを詠むことが多い。
「糞」が落ちているということは、巣に暮らしていた現在は巣を離れ群れに移った「燕の子」がそこで成長していった証拠としてあり、また、それを見ていた人がいたという光景が想像できる。燕は自分の排泄物を「糞」とは呼んだりしていない。つまり、人間も「燕の子」と一緒にいたが、燕は巣を離れるとしばらく群れで暮らして、やがて海を渡る旅に旅立って「帰燕」となる。
巣にはすでに「燕の子」はいない。しかし、まだそこにいるように感じる具体的な物がある。
俳句で季語を使われた一句を読むとき、季語から現実の実感を思い浮かべる。
季語そのものが実感を呼び覚ましてくれる言葉としてある。
詩はふだん具体的な言葉にされていない心情や世界を、言葉でとらえて表現する。
「燕の子」の「糞のあと」と具体的に置くことは、とてもいい目のつけどころだと感じる。
季語を適切に使うのと同じ写生、言葉の描写の力として、一句を一物仕立てとして、読む人の前にシーンを伝えてくれる。
取り合わせの句ばかりを詠んでいると具体的な物に表現させることを季語に頼りがちになることも。
牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片
(蕪村)
桔梗の花の中よりくもの糸
(高野素十)
という句などと同じ描写の力を感じる。この描写力は、取り合わせの句の季語以外のフレーズから小説の描写まで応用することができる。
季語を具体的な物でいきいきと想像させることができるという点から、良い一句だと感じます。