流灯

白河夜船

流灯

 章生あきおが住む海辺の町では、毎年夏になると、灯籠流しが行われる。縁日である八月二十日。町の皆が浜に集って行うそれは、祭事らしい華やかな喧噪からは切り離された、内輪の密やかな儀式であった。

 夜の浅瀬に無言の人々が立ち、御宮が用意した紙箱に火の点いた蝋燭を容れたものを、海へ流す。それだけ。後は各々家に帰るのだけど、誰が強いるわけでもないのに、小さな子供ですらも、その道中はじっと黙り込んでいた。

 のっぺりした昏い海に点々と橙色の光が揺らぎ、次第ばらけて遠ざかっていくのを見送りながら、章生の横を歩く青年――友人の柳瀬やなせは笑う。

「皆、蝋燭ばかり流すね」

 章生は何も答えなかった。

 責められもしない。咎められもしない。だが、暗黙の了解なのだ。例え波に乗って帰って来ても、問題ないものを流すのが。その条件さえ満たしていれば、本来、中身は何でも構わない。ただ、儀式の陰気さを誤魔化すため、いつからか灯明を流す者が増えた。そう、章生に語ったのは祖父だったか。


 蝋燭を流すから『灯籠流し』って、皆呼んでいるがなぁ。ありゃ、仮称とか隠語の類さ。ほんとのところ、あの儀式に名前はねぇのよ。


 この町の人間は、名前も、由来も、意味も知らない奇妙な儀式を毎年欠かさず行っている。やらなければならない。それだけは明瞭に知っているから。

「気づいてたかい」

 柳瀬は内緒話をするように、章生の耳に口を寄せた。囁く。

「中町の紀実江きみえさん。この前死んだ赤ん坊の骨を流していたよ」





 家の敷地に入ってしまえば話しても良い。

 縁側に座って扇風機の風を浴び、冷えた麦茶を飲みながら、章生は柳瀬に「本当か」と問い掛けた。

「何が?」

「紀実江さんの」

「ああ」

 柳瀬は頷き、蚊取り線香の火に咥えた煙草の先端を押し付け、炙った。

「本当だよ」

 紫煙が暗い庭に漂う。時節柄虫が多いので、傍の室内灯は消しており、明かりは生垣の外の街灯と月光ばかりが頼りであった。それでも目が慣れれば、隣に座る人間の顔付くらいは充分判る。

 柳瀬は詰まらなそうな表情で、ふっと煙を吐き出した。ほんの僅かながら少年っぽさが残る横顔に、煙草はあまり似合っていない。

「去年のことがあるからね。期待したんだろう」

「帰って来るかね」

「さあ。帰って来てもな。どうせ御宮が取り上げちまう。それに、偶に会えたところでさ、ずっと赤子じゃ虚しいだろうに」

 柳瀬は吸い止しの煙草を投げた。赤い光が弧を描いて飛んで、庭の片隅に置かれた水盆へ器用に落ちる。溜まった雨水に触れた火は、じゅ、と微かに末期の悲鳴を残して消えた。

 人ん家の庭にゴミを捨てるな。章生は文句を言おうとしたが、それより先に柳瀬の方が口を開いた。

「いつまでそこに突っ立ってるんだ」

 柳瀬はどうやら、生垣の向こうに居る誰かに話し掛けているらしい。章生も柳瀬の視線を追って、同じ方向を見たのだけれど、青葉が茂る枳殻からたちの奥は見通せなかった。

「早く帰れよ」

 柳瀬の口調は非情に冷たい。少し間を開け、返事をするため敷地内に入ったのだろう、家表の辺りから砂利を踏む音が聞こえた。

「お兄様は」

 鈴を転がすような声が響いて、「ああ」と章生はやっと気づいた。

夕子ゆうこちゃん」

 こっちにおいでよ。

 章生が言うと、

莫迦ばか

 忌々しそうに柳瀬は章生をじろりと睨んだ。





「こんばんは」

 白い夏用セーラーに黒タイ、黒プリーツ。地元の公立校の制服を着たお下げ髪の少女は、柳瀬の傍らに佇んで、章生へ丁寧に頭を下げた。

 柳瀬夕子。五つほど年が離れた、柳瀬の妹である。「親に頼まれた」と柳瀬が言うので、昔はよく三人で遊んでいたのだけれど、長じるにつれて、そういうことも少なくなった。今では、顔を合わせることすら滅多にない。

 最後に会ったのは、いつだったか。去年の秋彼岸頃――浜で見掛けて、会釈をして別れた。それきりだ。

 美人になったね。と言おうとしたが、久しぶりの会話がいきなり容姿のことだと無遠慮か、と章生は思い留まった。背が高くなったとか、声変わりしたとか、今思えば何てことない大人の言葉が、思春期の時分はなぜだか妙に厭だった。こちらにその気がなかろうと、不快にさせるかもしれない。少し迷って、

「そこ」

 と柳瀬の隣を指差した。

「座ってて。アイスでも持ってくるから」

「あ。えっと。ありがとうごさいます」

 夕子は礼を言って、はにかんだ。そんな大人しい、愛らしい少女の横で、柳瀬はさっきから黙りこくって煙草をスパスパんでいる。あからさまに不機嫌そうだ。





***


 秋の彼岸頃になると、浜辺にぽつりぽつりと特別な漂着物が現れ始める。『えびすさん』と呼んで他と区別するその漂着物は、前年の八月二十日、灯籠流しで海に流された物達だった。

 時々、帰って来るのだ。

 流した時とは、違う形で。

「面倒臭いな」

 と言いながら、その時期、柳瀬はよく章生を連れて浜を歩いた。えびすさんを見つけて拾うのは御宮の人間の仕事であった。蝋燭であれば、章生も拾える。火を付けて流したはずの蝋燭が、新品同然の状態で浜に転がっているのだから、分かりやすい。しかし、それ以外となると難しかった。

 例えば、子供が流したのだろう、ピンバッジ。

 元は恐らく壊れていた物であろうが、章生はそんなこと知る由もない。ただのゴミか落とし物と思えるし、小さすぎて普通に見落としてしまう。そういう物を、柳瀬はいつも目敏く見つけた。

「よく気づくな」

「分かるんだよ。何となく」

 拾った物は適当な袋に入れて、柳瀬が家――山の御宮へと持ち帰った。お守り宜しく供養して焚き上げることもあれば、御神体として丁重に祀ることもあるらしい。

 いつだったか。

 章生は柳瀬に尋ねたことがある。

「もし仏さんが帰って来たら、どうするんだ」

「持って帰るよ」

 淡々と柳瀬は言った。

「境外に居ると、うつるからね。他と同様うちが預かって、勝手に消えるまで管理する」

「家には帰れないんだな」

「縁日くらいは許してるよ。でも、今居るのは随分昔の人達だから。帰っても居場所がないって帰ろうとしない」

 海が流すのを求めてる。だから何を流そうと、誰も咎めたては出来ないけれど、

 そう前置いて、柳瀬は冷たい眼差しを海へと向けた。

「仏を選んで流すのは生者のエゴだと、俺は思うよ」


***





 ラムネ味のアイスキャンディーを差し出すと、呆れた奴を見るような目で、柳瀬は章生をジッと見詰めた。

「いらん」

 と言うので、仕方なし冷蔵庫に戻した。

「何なら要るんだ」

「煙草」

 偶に吸うのであるにはあるが。一本やるつもりで章生が渡したなけなしの煙草を、柳瀬は箱ごと掠め取り、ズボンのポケットに仕舞い込んだ。

「おい」

「友達代」

 ぬけぬけとそんなことを言う。思うところは多分にあったが、時々しか会えない友人に数百円の出費を惜しむのも狭量な気がして、章生は深い溜息を吐くに止めた。元の位置に腰を下ろして、アイスの包みを破る。冷蔵庫から出してそれほど経ってはいないはずだが、夏の夜の熱気に当てられ、アイスは少し溶けかけていた。

 たぶん、気を遣って章生を待っていたのだろう。一拍遅れて、柳瀬の向こうからビニールに触る音が聞こえた。

「先、食べててよかったのに」

「いえ」

 アイスを囓りながら、夕子は照れた様子でにこにこ笑う。柳瀬もちょっとは、妹の慎ましさを見習ってはくれないものか。

「食べたら帰れよ」

「……お兄様」

「その呼び方、家の外ではやめろって何度も」

 言いかけた小言を呑み込み、柳瀬は渋い顔で煙草を吸った。煙を夕子に向けて吐き出す。

 あまり苛めるなよ。

 章生は窘めようとしたのだけれど、夕子の方では煙たがりつつ、構って貰えた仔犬のように喜んでいる。こういう場合、どう対応すればいいのだろう。章生は困って、頬を掻いた。

 少年期、友人の背に纏わっていた、小さな女の子の姿を思い出す。数年の空白を挟んだ今でも、夕子は相変わらず柳瀬によく懐いているらしい。





 食べたら帰れ。と言ったのはどうやら本気だったようで、いつの間に呼んでいたのか、程なくして章生宅を訪れた家人に妹を押し付け、柳瀬は「よし」と満足げに一つ頷いた。

「迎え来たらさすがに、帰るしかねーだろ」

「そんな無碍にしなくても」

 夕子を乗せた車の駆動音が、段々に家から遠ざかっていくの聞きながら、章生は軽く首を捻った。なぜ、柳瀬は妹を帰らせたのだろう。

 ここら辺の夜は街中の夜よりずっと暗くて、人通りも少ない。偶に猪なども出る。夜道の移動は可能なら車を使った方が良く、子供はどうしても、家人による送迎を頼ることになってしまう。その点を踏まえても、まだ時刻は八時過ぎ。時間的猶予があるのに、妹の帰宅を柳瀬が急かしたという印象を受ける。

 感じた疑問をぶつけてみれば、

「文句ある?」

 拗ねたように吐き捨てて、柳瀬は廊下を足早に歩き始めた。二階にある章生の部屋へ行こうとしているらしい。

「文句はないよ。僕が言いたいのは、喧嘩でもしたの?ってこと」

「別に」

 言いつつも、友人の背からは不機嫌が滲んでいる。章生はそっと溜息を吐いた。

「何があったのさ」

 階段を上がりきってすぐ右の、破れ襖を開けた先。やや雑然とした六畳間に入って、電気と扇風機を点けてから、章生は尋ねた。それなり古い家なので、二階にまでクーラーは設置されていない。かといって、夏の夜は網戸を潜り抜け、小さい虫が無数に入ってきてしまうため、窓を開けて風を通そうとも思えなかった。

 柳瀬は蒸し暑い部屋の中、汗一つ流さず、窓際の壁に凭れて座っている。精緻な造花を目にした時と似た感覚を、章生は覚えた。一見では生花と見分けがつかないけれど、明るい場所でまじまじ眺めればに気づく。

「ほんとは分かってるんだろ」

「何を」

 薄い唇が、しめやかに動いた。


 誰が俺を殺したか。





***


 柳瀬が帰って来たのは、去年の九月だった。

 秋めいた少し冷たい風が吹く、夕暮れの寂しい浜辺に、青年が一人きり、服も着ないままぼんやり座り込んでいて、その姿に何となく覚えがあったので、章生は声を掛けたのだ。

「柳瀬?」

「おう」

 振り向いて、柳瀬は笑った。高二の、あれもやはり九月だったか。行方不明になった当時と、寸分違わぬ容貌であった。


***





 あの晩、柳瀬は結局、詳しいことを語らなかった。

 縁日以外、御宮は柳瀬を此岸こちらにいないものとして扱っている。問い質そうにも連絡が取れない。


 ほんとは分かってるんだろ。

 誰が俺を殺したか。


 棘のように、柳瀬の言葉は章生の鼓膜に突き刺さり、いつまでもしつこく残り続けた。それでいて聞いた瞬間、衝撃は別に感じなかった。やっぱり、と、そう思ったのだ。

 やっぱりお前、殺されたのか。

 正直なところ、章生は少し安堵していた。事故も自殺も蒸発も、柳瀬という人間が居なくなる理由としては不似合いである。殺された。それならば、しっくりくる。

 高二の九月、何日からだったかは覚えていない。唐突に柳瀬は学校へ来なくなり、大人の口を介して彼が行方不明になっているというのを、章生は知った。

 一応、幼馴染みだ。気に掛かる。携帯に連絡を入れてみたり、心当たりの場所を探してみたり。出来ることは色々やったのだけど、成果らしい成果は得られず、時間ばかりがただ過ぎた。

 警察が動いていたとは聞くものの、足取りも何も杳として掴めなかったらしい。つまり「殺された」という柳瀬の言葉を信じるならば、柳瀬の行方―――遺体の場所を知っていたのは、殺人犯だけということになる。

 柳瀬は帰って来た。黄泉帰った。

 縁日に、彼の骨を海へ流した人間がいる。

 殺人犯が流した? しかし、単純な恨み、憎しみによる犯行ならば、きっと流したりはしないだろう。

 殺した後、帰って来るのを期待して流した。そんなことをして、利益がありそうな人間は、


「夕子ちゃん」


 秋彼岸の時期は、柳瀬と歩いたのを思い出し、何となく足が浜へ向く。考え事をしながら散歩する内、辿り着いていたらしい。章生は、夕陽で染まった紅い浜に立っていた。

 すぐそこに、ビニール袋を片手に提げた少女の背がある。縁日に見たのと同じ、モノクロームの夏用セーラーとお下げ髪。

「こんにちは。……いえ。こんばんは、でしょうか」

 振り向いた少女は、はにかむように微笑んだ。白い半透明の袋の中には、幾本も真新しい蝋燭が入っている。柳瀬がやっていた仕事を、今は夕子がやっているのだろう。

 声を掛けたはいいものの、章生は言葉に詰まってしまった。何か話そうしたわけではないのだ。彼女の姿を認めた瞬間、つい声が出てしまっただけで。

「夕子ちゃん、君」

 言いかけて、口を噤んだ。


 ほんとは分かってるんだろ。

 誰が俺を殺したか。


 柳瀬。

 確かに、分かっていたよ。

(だって僕は、お前が殺されたような気がしてたんだ。殺されたお前が帰って来た時点で、もしかしたらって思うだろう)

 だが、証拠がなかった。確信がなかった。あまり考えたいことでも、考えるべきことでもなかった。だから可能性を無視したのである。だというのに、柳瀬の態度と言葉から、そうだ、と考えるしかなくなった。

 彼方からの漂着物『えびすさん』は、全て御宮――柳瀬家の管轄下に置かれる。どれほど高価で貴重なものであろうと、帰って来た時点で実質的な所有権は柳瀬家に移ってしまうのだ。えびすさんが死者であってもそれは変わらない。

 この仕組みを、夕子は利用したのではないか。手に入らないものを手に入れるため………

「章生さん?」

 あどけなく夕子は首を傾げた。

「どうしました?」

 何か言おうとするが、渇いた喉奥に言葉が張り付いて出てこない。

「君は」

 どうにかそれだけ絞り出し、章生は黙った。言って、どうなるのだろう。きっと、どうにもならない。

 土台、おかしいのだ。柳瀬が居なくなった当時、夕子はまだ小学生だったはずである。どんな手を使ったかは知らないものの、幼い少女の犯行はそれなりに拙かったろう。なのに誰も、警察も、事件の手掛かりすら掴めていないという。

 たぶん協力者がいる。

「山でしたよ」

 と夕子は笑った。

「えびすさんをね、麓の拝殿じゃない、中腹の、海を見晴らせる本殿の方へ届けるんです。お焚き上げするのも、お祀りするのも、そこ。子供は体力があるからって、十を過ぎた辺りからお遣いを頼まれるようになりました。お兄様と一緒に―――石段がとても長くて急なんですよ」

 太陽はもう半ば沈んでいる。夜が近付くほどに、赤光がどす黒さを帯びて禍々しい。彼方まで延々と広がる水面が、巨大な血の海めいていた。空も紅い。地面も紅い。燃え盛る炎の中にいるようだ。

 長子が死んで、柳瀬家直系の子供は今や夕子だけ。この土地において、柳瀬家の代わりが務まる者は存在しない。柳瀬家は跡継夕子を庇うと決めたのか。なら、土地の者は概ね協力するだろう。柳瀬は、あいつは、庇うだろうなぁ。自分の名前より家名を好む奴だもの。庇ったから、あんな回りくどい伝え方をしたのだ。

「夕子ちゃん、君――君は、お兄ちゃんが好きかい」

 章生の不意の問い掛けに夕子はきょとんと目を瞬かせ、しばし俯いた後、花が綻ぶように莞爾にっこり笑んだ。遠い海の水底、巨大なものの蠢動が波となって浜へ打ち寄せている。そんなイメージがふと浮かんだ。潮声が、厭に五月蠅く頭に響く。

 薄い唇が、しめやかに動いた。



 愛していますわ。




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