白い猫

西しまこ

第1話

 わたしはこころを殺すことがとてもうまくなった。身体への痛みも閉ざすことが出来る。


「お前! 誰のおかげで生活出来ていると思っているんだ! 俺が稼いで来てやってるからだろう? アイスコーヒーくらい、作っておけ!」

 わたしは一年中長袖だけど、世の中はそろそろ半袖の季節だった。少し暑くなったから、コーヒーはアイスにして冷やしておかねばならなかったのだ。……でも、夫の気分はその日によって違う。「六月になったらアイスコーヒーを作ること」が正解とは限らない。「アイスコーヒーなんて作りやがって!」と怒鳴り散らすかもしれない。


 硬いものが腕に当たる。サランラップの箱だ。ぎざぎざの部分が腕を削る。サランラップの箱が変形した感じがした。顔を上げてはいけない。

「お前みたいなやつと結婚してやったのをありがたく思え!」

 また強い一撃。角の部分が肩に当たった。閉ざせばいい。固く固く。

「クズ! のろま! 俺と結婚出来たことを感謝しろ!」


 怒声の間が空いたので、ふと顔を上げると、夫すごく嫌な顔をしていた。そして、わたしを突き飛ばし馬乗りになって、ブラウスのボタンを引きちぎった。やだっ! どうして。殴ってもこういうことはしてこなかったのに。手が乳房に触れる。やだ。やだやだやだやだ! 気持ち悪い!

 わたしは力いっぱい、夫を押しのけた。夫は「何だよ、久しぶりにやってやるんだよ。ありがたいと思え」と言った。嫌な笑い。やだやだやだ。殴るのはいい。だけど、わたしにさわらないで。さわらないで。さわらないでさわらないで。やめてやめてやめて。気持ち悪い。

 何か。何か。

 

 必死で逃げて、手に取ったものを夫に突き刺す。何度も何度もなんども。

 もう、さわらないで。わたしの中に入ってこないで。わたしにさわらないで。

 涙が頬を伝った。わたしはこわくてこわくて、手の動きを止めることが出来なかっ

た。



「母さん……もういいよ」

「充」

 気づくと塾から充が帰って来ていた。

 わたしの血まみれの手を押さえて、充は泣いていた。

「ごめん、母さん、守れなくて」

「どうして? あなたを守るのがわたしの役目なのよ? わたし、あなたを守れなかった」

「母さん、泣かないで。……それより、これをどうするか、考えよう」

 充は暗い視線を、動かなくなった物体に向けた。


「だいじょうぶよ。わたし、お掃除は得意だから。まず、汚れを全部拭き取ってきれいにして、それから漂白剤できれいに拭きましょう。きれいに」

 夫は病的なまでにきれい好きだった。自分は何一つ片づけないのに、家の中の物の配置が少しでも違っていたら、すぐに殴られた。もちろん散らかっているなんて、考えられなかった。毎日掃除機をかけ、毎日拭き掃除をした。


「……しろ?」

 白猫がよぎった気がした。

「……母さん、しろはあいつが殺したじゃないか」

 真っ白でかわいい猫だった。ふわふわで。でも、夫がいるときに、リビングのソファで毛玉を吐いて、そして。


 涙が出た。止まらなかった。殴られているときは出なかったのに。

 だけど、ああ。もう、怯えなくていいんだ。

 その、元夫だった物体は、もう言葉を発しない。

「さよなら」

 

 もう、泣いてもいいんだ。




   了



一話完結です。

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https://kakuyomu.jp/users/nishi-shima/collections/16817330650143716000

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