私は今、ここで死んでいます。
多賀 夢(元・みきてぃ)
私は今、ここで死んでいます。
マンションの屋上で、黒いパンプスを脱いで揃えた。
遺書を置こうかと思ったけれど、未練たらしさが醜くて破り捨てた。何時間もかけて書き直した便箋は、小さくなって風に飛ばされていった。
私なんて、人間として生まれるべきじゃなかった。
底辺になんて生まれたくなかった、底辺として育ちたくなかった。
他人を羨んで、環境を妬んで、耐えて生きるなんて辛すぎた。
――次は、ミジンコに生まれたい。何も考えずに泳いでいたい。
私はフェンスを乗り越えた。死に装束に選んだ安いスーツが、針金に引っかかって破れていった。その感覚をどこか遠くに感じながら、私はマンションの縁に立った。
恐怖心をばねにして、足元の真っ暗な闇に飛び降りた。
痛みなんて覚えていない。耳障りな骨の砕ける音が、生きていた時の最期の記憶。
「――なぁんて時期が、私にもありましたよ」
私はボロボロのスーツ姿で仁王立ちし、青い顔でへたり込む青年に向かって説教していた。
「私が生きていた頃もさ、転生小説は流行ってたさ。だけどほら、見てごらん?……ちょちょちょ、顔を逸らさずにこっち見てみ。私ミジンコどころか、あの世にすら行ってないから。幽霊してっから」
私が死んだ後、ここから飛び降りようとする人は何人も来た。死のうとする人間は存外アクティブなもので、入り口に鍵をかけようがフェンスを高くしようが、全部乗り越えてダイブしていく。
自分も同じだったけど、幽霊になってしまってから思った。お前ら、そのエネルギーはもっと有益な事に使えよと。
「なんか?私が死んでからここ、自殺の名所になっちゃったらしいけどさ。人は死んでも転生もできないし、天国にも行けないし、地獄にも行けない。死んだ場所にとどまって、次々飛び降りてく若者を悲しく見ているしかできないのよ。
大抵の人は『見えない』から止められないけどさ、君みたいな『見える』子だけは止めたいのよ、救いたいのよ。
見えるなら分かるでしょ? このマンションの裏、覗いてみ」
私は軽く指さすだけで、振り向きもしなかった。何がどう違うのか、彼らはどす黒くくっついて蠢く化け物になっている。同じ人外とはいえ見たくもない。
「彼らと私、何が違うのかはよく分かんないよ。でも私はミジンコとしてなら生きたいという、望みがあったのね。完全に生きることを諦めてはなかったの。――だからさ、後悔してんのよ」
私は青年の前に胡坐をかいて座り込んだ。相手の怯える目を覗き込みつつ、触れないその頭をなでるように手を動かす。
「自分を貶すって、マイナスだけど凄いエネルギーなのよね。心と体に錘をつけながら、なんのトラウマもない人間に近づこうって努力してる、それでもまだまだって自分を叩き落す。それだけ頑張ってきたんだもの、そりゃ鍵壊すのもフェンス乗り越えるのも、楽々できちゃうよ」
私は精一杯の笑顔を作った。とはいえ青年の瞳に映る私は、おどろおどろしく顔半分が崩れているけど。
「でもさ、そのエネルギーは違うところに使うべきだよ。全力で逃げなよ、逃げた先で幸せ見つけなよ。生きるために戦う必要はないし、競う必要もない。人だって、ただ漂うように生きていいはずだよ」
私は立ち上がり、辺りを見渡した。とっぷり暮れた街には明かりが星よりも多く灯っている。
「今見える家々のどこにも居場所がないとしても、知らないどこかにきっとあるから。あなた家族は? ああ、家族が原因なの? だったら捨てちゃえーそんなの。そうだ、このまま家出しちゃいな。うんうん、思い立ったらすぐすぐ」
私は自分が死んでいるのをいいことに、無責任な発言を青年に押し付けた。死のうとやってきたときはヤバいほどギラギラしていた目が、一度どよんと光を失った。しかしそのうち顔に知性が戻り、瞳には違うエネルギーの炎が宿る。
青年は立ち上がり、私に深く一礼した。私が手を振って応えると、少しだけ確かになった足取りで屋上を出ていく。
――この子は大丈夫だ、生きる。
私は一息つきながら、月のない夜空を見上げた。今のように止められた人、止められなかった人、全てを思い出す。完璧に救えなかった過去を憂いながらも、今救えた一人の未来に思いを馳せる。
神様、生きているときは信じられなかった神様。
私は今やっと自分らしく生きています。じゃなかった、死んでいます。
昔はミジンコになりたかったけど、幽霊になれて良かったなと思っています。
とっくに死んじゃったけど、その後で人生やり直してもいいですよね。生きてやり直せる人を助けてもいいですよね。
ああ神様。私は今、ここで死んでいます。
せいいっぱい、死んでいます。
私は今、ここで死んでいます。 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki
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